バケツを引っくり返したような大雨が降り続く神室町。その一角にある店舗の軒下に見知った顔を見つけ、足を止めた。
「雨宿りですか、名前さん」
学校帰りだろうか。小さな体に背負われたランドセルを見やり、静かに問いかけた。
「あ! 桐生ちゃんの、」
「ええ。元・桐生さんの上司の立華です」
名前さんについては、前に桐生さんから直接紹介されていた。真島さんが預かっている子供だという話だったが、彼女は桐生さんにもよく懐いていた。それからも何度か街で見かけたり、桐生さんに連れられて立華不動産を訪ねてきたこともある。そうした縁もあり、私は少なからずこの子供に情が湧いていた。
「雨が止むまでお茶でもどうですか」
「! あ、でも……」
一瞬ぱっと目を輝かせたが、それはすぐに迷いへ変わったようだった。どうしよう、と悩む名前さんに「暗くなる前にはきちんとお送りしますよ」と言えば、顔を綻ばせて今度こそ元気よく頷いてみせた。
「桐生さんは元気にしていますか?」
雨宿りをしていた軒下からそう遠くない場所にあった喫茶アルプスに入り、向かい合うように座った。
名前さんはというと、注文して間もなく運ばれてきた特製ショートケーキを口に運びながら、眩しいくらいの笑顔を浮かべている。
「はい! この前も公園で一緒に遊びました」
「そうですか。それはなによりです」
桐生さんが子供と仲良く公園で遊ぶ姿など考えたこともなかったが、彼も名前さんには大概甘いらしい。
「そういえば、尾田さんが名前さんに会いたいと言っていましたよ。もし立華不動産の近くに来ることがあれば、立ち寄って頂けませんか」
彼女に甘いのは桐生さんだけではない。それは尾田さんも同様だった。最初に桐生さんにつれられて来たときは「俺、子供って苦手なんですよね」と難色を示したが、彼らが帰る頃には「もう帰るのか」と名残惜しそうにしていたことを思い出す。
「わかりました! また遊びに行くねって尾田さんに伝えてください」
「ありがとうございます。彼も喜びますよ」
彼も、そして私も。それは言葉にすることなく、熱いコーヒーと一緒に呑み込んだ。
「雨、止んだみたいですね。それにあなたのお迎えも来たようだ」
少し前から窓の向こうで真島組の組員らしい男が歩き回っていた。きっと傘を持たずに家を出たであろう名前さんを探しに来たのだろう。男は忙しなく周囲を見回している。そろそろ彼女を帰してやらなければ。
「名前さん、今日はありがとうございました」
店を出ると雨も上がり、厚い雲の切れ間からは光が差し込んでいる。
「私こそありがとうございました! ケーキおいしかったです」
「もし良ければ、またこうして私の我儘に付き合って頂けませんでしょうか?」
時間があるときで構いませんので、と続ける。これは社交辞令ではなく、紛れもない本心だった。
「はい! それじゃあ次は立華さんの話をいっぱい聞かせてくださいね」
ぺこりと頭を下げ、名前さんは先ほど外にいた組員の元へ駆けだしていく。ランドセルにつけられたキーホルダーが勢いよく左右に揺れていた。
「……私の話、ですか」
そんなことを言われたのはいつ以来だろう。遠ざかっていく小さな背中を見送りながら、彼女用の茶菓子を会社に用意しておこうと思ったのはここだけの秘密である。
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