佐川司という男は非常に嫌な人間だが、命の恩人でもある。私は親の借金のかたに売られそうになっていたところを、仕事で居合わせた彼に拾われたのだ。
まだ小学生だったので状況をよく理解できなかったけれど、成長するにつれて、あの人が借金を肩代わりして私を買い取ってくれたことを知った。そうして十六歳になると「肩代わりした借金分は働いてもらう」と告げられ、私は夜の仕事を始めることになる。
とはいっても夜の仕事はあまり苦にならなかった。あの時拾われていなければ、もっと劣悪な環境で死ぬまでこき使われていただろうし、それに比べれば監視されているとはいえ、ずっとまともな暮らしをさせてもらえたからだ。私を売った両親の元へ戻りたいとは微塵も思わないし、帰る家も既にない。私の居場所は、彼の傍以外に考えられなくなっていた。
「恨むなら、お前を売った両親を恨めよ」
見知らぬ男はそう言って静かに笑う。家に来た借金取りに連れ出され、私は知らない建物の中に閉じ込められていた。暗くてかび臭い、倉庫みたいな場所だ。これから殺されてしまうのだろうか。もう二度と家には帰れないのだろうか。そんなことを考えて泣きそうになっていると、その男は現れた。
「おいおい、まだガキじゃねえか。可哀想になぁ」
男は私の両頬を片手で鷲掴み、じろじろと視線をぶつけてくる。これっぽっちも可哀想なんて思っていない顔だ。言っていることと顔に書いてあることのアンバランスさがおかしくて、私は小さく笑ってしまう。
「あ? 何笑ってんだ」
「……なんでもない」
「これから売られるってのに呑気なもんだ」
「……」
「次はもう少しマシな親の元へ生まれてくるんだな」
男の手が離れ、今度は冷たい銃口が額に突きつけられた。何か言いたいことはあるかと問う彼に、私は、
「っ!」
ソファから飛び起き、慌てて額に触れた。……なんともない。ゆっくり息を吐きだしながら辺りを見回す。そこでようやくソファで昼寝していたことを思い出した。なんだ、夢か。
「いい夢でも見てたのか? うなされてたぞ」
「司さん」
「なんだよ、幽霊でも見たような顔して」
「ちょうど司さんの夢を見てたので」
「へえ、俺も人気者になったもんだ。出演料貰わねえとな」
そう言って彼はソファにどっかりと腰かけ、私の頬に触れてきた。この人の瞳は苦手だ。何もかもを見透かされているような気分になって、酷く居心地が悪い。
「……お前はあの頃から変わんねえな」
「?」
「倉庫で初めて会ったときのこと覚えてるか? お前、銃突きつけられても泣くどころか睨み付けてきやがったじゃねえか」
「……」
「俺は案外、いい買い物をしたのかもしれねえなぁと思ってよ」
「それって、」
私が言葉を発する前に、ぐっと距離を詰められる。彼はまた、じいっと私の目を見つめてきた。視線を逸らしたいのに、金縛りにあったみたいに体が動かせない。顔が熱い。このまま司さんの視線に晒され続けていたら、どうにかなってしまうのではないかと本気で思った。
彼が身を乗り出し、更に距離が近づく。いよいよ耐えられなくなってぎゅうっと目を瞑る。それとほぼ同時だった。静かな部屋に、ぐう、という情けない音が響いたのは。……私の腹の虫の鳴き声だ。
「……すみません」
「飯でも食いに行くか。どうせお前もまだだろ」
「! はい」
何事もなかったように立ち上がった司さんに、私も慌てて続く。助かったような、もう少しあのままでいたかったような複雑な気分だ。
「何かリクエストあるか」
「え、それじゃあラーメン食べたいです」
「またかよ。お前ほんとに好きだよな」
「駄目ですか?」
「俺はおでんが食いてえ気分なんだ」
「食べたいものが決まってるなら聞かないでくださいよ」
決して彼は優しいだけの人間じゃない。むしろ優しくない部分の方がずっと多い。私が生かされているのだって彼の気まぐれでしかない。それでも、まだ生きている。息をしている。いつか人生が終わるその瞬間まで、僅かでも長く彼の傍にありたいと思った。
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