神室町の建物の陰に、体を屈めて潜んでいる男性が一人。見間違うはずもないその後ろ姿に「何してるんですか」と声をかけた。
「桐生ちゃんを待っとるんやないか……ってなんや名前か」
「こんばんは、真島さん」
「おう。しっかしこんな時間に出歩いて悪い子やな。女子供はもう寝る時間やで」
「まだ23時ですよ」
「あほ。もう23時や」
「家に帰りたくなくて」
「また喧嘩でもしたんかいな」
「……まあ、少し」
私と両親の関係は決して良好とはいえない。親の機嫌が悪ければ殴られたり蹴られたりするし、常に過干渉気味の母親とは喧嘩が絶えない。女にだらしのない父はどこぞの女と浮気しているようで、しばらく家で姿を見ていない。どうせ帰ってきたところでヒステリックな母と喧嘩するだけだから、いなくてもいいけど。
だから私はあの家に帰りたくなくて、用もないのに夜の町を彷徨っている。
「名前も一緒にどや?」
「どうって?」
「暇なんやったら桐生ちゃんの顔でも見ていかへんか?」
心配せんでも帰りは家まで送ったるで、と彼は言う。
「じゃあお言葉に甘えて……」
私は時々こうして真島さんを見つけることがある。それは電柱の後ろだったり、看板の後ろだったり、物陰だったり。まるで子供がかくれんぼをするみたいに、真島さんは町のあちこちに隠れている。桐生さんと闘いたくて彼はこうしているのだと言うが、それにしても凄い熱意だ。日々追いかけられている桐生さんの苦労が窺える。
「来ませんね」
「そう簡単に現れたらおもろないやろ」
あれから一時間ほど経つけれど、桐生さんはまだ現れない。私と真島さんは近くの自販機で買った缶コーヒーを飲みつつ、本当に来るかどうかもわからない彼を待っている。どうせ明日は休みだからいいけれど、真島さんはいつまで待つつもりなんだろう。
「あ」
「桐生チャン〜!待っとったでえ!」
物陰から勢いよく飛び出した真島さんの前には、少しだけ眉間に皺を寄せた桐生さんが立っていた。ほ、本当に現れた……。
「真島の兄さんはまだわかるが、名前まで何をしてるんだ」
「えへへ……偶然真島さんを見つけて、つい」
「まったく、こんな夜にふらふら出歩くんじゃない」
諭すように頭を撫でられ、少し離れているように告げられる。喧嘩が終わるまで少しばかり時間がかかりそうなので、私は空になった缶を近くのゴミ箱へ捨てに向かう。少し離れた場所であるにも関わらず「桐生チャ〜ン!」という真島さんの声が届いてきたときには思わず笑ってしまった。
「ほな帰ろか」
ようやく喧嘩も終わったらしい。少しだけ傷を作った真島さんに手を引かれ、家路につく。後ろを振り返ると桐生さんと目が合ったので、手を振ってみる。すると彼も小さく手を挙げて応えてくれた。
「真島さん」
「なんや」
「色々と、ありがとうございます。真島さんに会えたおかげでちょっと元気出ました」
あんなに重たかった心も嘘みたいに軽くなっていた。この人の傍にいると気持ちが安らぐ。家では決して得られない安息がたしかにここにはあった。
真島さんは前を向いたまま「そうか」とだけ呟いて、繋いだ手に力を込めてくる。
真島さんと過ごす夜は、いつもより少しだけ世界が優しい。
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