どうしてこんなことになってしまったんだろう。喉元に突き付けられている刃物に、私を羽交い絞めにしている隻眼の男。恐怖と涙でぼやける視界には先ほど出会ったばかりの桐生さんが映っていた。
「名前を離せ、真島の兄さん」
「離せ、言われて離すわけないやろ」
「その人は関係ねえ」
「ほう? それにしては楽しそうに話しとったやないか」
桐生さんとは本当に何もない。劇場前で不良に絡まれていたところを助けてもらって、それで少し話をしていただけだ。
この隻眼の男は、家に帰ろうとしていた私の前に突然現れたかと思うと「桐生ちゃんと喧嘩するためや。顔貸してもらうで」と言い、数分前に別れたばかりの桐生さんの前へ私を連れ戻したのだ。まるで意味がわからない。
「……ん? お前、」
顔を覗きこまれ、全身が硬直する。どうしよう。このまま殺されてしまうのだろうか。
「……」
「可愛い顔しとるやないか。どや、俺の女にならんか?」
「えっ」
「なに?」
ほぼ同時に私と桐生さんの声が重なった。この状況で何を言うんだ、この男は。
「ふ、ふざけないでください……!」
「別にふざけとらんで。どやねん」
「……」
彼氏はいない。特に好きな人もいない。だからといって初対面でこんな恐ろしい目に遭わせてくる人の女になるなんて無理だ。でも断ったら怒るだろうか。その勢いで殺されたらどうしよう。こんなところで死にたくない。
「……」
「……」
「……あなたのことを私は何も知りません。だから、その、まずは……、お、お友達から始めてもらえませんか」
半分泣きながら必死に言葉を絞り出す。怒りませんようにと祈るような気持ちで反応を窺っていると、男が笑った。
「ええで、ほなお友達から始めようやないか」
男はあっさりと私を離し、なぜか桐生さんと喧嘩を始めている。とりあえず私は殺されずに済んだみたいだ。
それにしても一応助かったはずなのに、全く助かった気がしないのはなぜだろう。あの状況で仕方がなかったとはいえ、何かとんでもない選択肢を選んでしまったような気がしてならなかった。
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