※男装夢主
ここ暫く妙な視線を感じていた。最初こそ気のせいだと言い聞かせていたが、毎日のように送られる視線に神経がすり減ってしまい、近頃では気がどうにかなってしまいそうな程だった。
まただ。廊下の雑巾がけをしていると背中側からじりじりと視線を感じる。これは絶対に気のせいなんかじゃない。今日こそは視線の正体を確かめなければ。意を決して勢いよく振り返ると、曲がり角から伊東さんがこちらを窺っているのが見えた。
「あ、」
もしかして今までの視線は伊東さんの……?男装がバレてしまったのだろうか。それとも羅刹の件?最悪の事態がどんどん頭に浮かんできて血の気が引いていく。
彼がこちらへ一歩踏み出そうとした瞬間、廊下の向こうから巡察を終えたらしい隊士たちの声が近づいてくるのがわかった。そちらに気を取られていると、いつの間にか伊東さんの姿も消えてしまっていて。
「……」
一体何だったのだろう。他の人に聞かれるとまずい話でもあったのだろうか。しばらく頭を悩ませてみたものの、結論など出せるはずもなく。これ以上考えてもどうにもならないと諦め、雑巾がけに集中することにした。
視線の正体を知ったあの日から、私は今まで以上に伊東さんから距離を置いた。なるべく一人にならないようにして、私の事情を知っている幹部の皆さんの傍で過ごした。しかし常に誰かと一緒にいるというのは不可能であり、当然ながら一人になってしまうときもある。
そう、今みたいに。
「あら、名字くん。丁度良かった」
「う、伊東さん」
部屋に戻ろうとしていた所で、ばったりと彼に出くわした。伊東さんは機嫌が良いのか、にこにこと笑みを浮かべている。
「あなたとは一度じっくりとお話をしてみたいと思っていたのよ」
手を握られてしまい、逃げ出すこともできない。また最悪の事態が脳裏をよぎった。私には頭の切れる伊東さんを上手に誤魔化せるような方法も思いつかないし、何を言えばいいのかわからない。考えろ、考え……
「名字くんにもぜひ参加してほしい会合があるのだけれど、どうかしら」
「……はい?」
会合?と繰り返すと、伊東さんは声を弾ませながら説明してくれた。なんでも彼は定期的に屯所内で会合を開いていて、今の日本のあり方や政治について同志の方々と熱く議論をしているそうだ。言われてみれば伊東派と呼ばれる隊士たちと、彼が集まっているのを何度か見かけたことがある。なるほど、あれはそういう集まりだったのか。
「またそのうち機会があれば……」
自分の正体がバレたわけではなかったことに安堵しつつ、無難な返答を口にする。
「そう遠慮なさらずに。同志たちとの議論はきっとあなたの知見を深めてくれますわ」
伊東さんは私の手を握ったまま、どこかへ歩いて行こうとする。彼の口ぶりから察するに会合を行う場所へ連れて行こうとしているのだろう。それは困る。行きたくない。
「あの、まだ境内の掃除が……」
「何も恐れる必要はなくてよ。わからないことがあれば、私がみっちり教えて差し上げますからね」
「だ、誰かー!」
必死の抵抗も虚しく、廊下を引きずられるようにして進んでいく。途中で伊東派ではない隊士さんとすれ違い、目線で必死に助けを求めたけれど、諦めろと言わんばかりに首を横に振られてしまった。
結局、私は伊東さんと共に会合に参加させられることになり、日が暮れるまで解放してもらうことはできなかった。
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