「煙草、まだ吸ってるんですか」
静かな事務所にモブくんの透き通るような声が溶けていく。霊幻さんは「依頼人に会ってくる」と先ほど出て行ったばかりなので、ここには私とモブくんしかいない。
「ごめん、煙草臭かった?」
モブくんの前では吸わずに家でだけ吸っているけど、それでもやっぱり煙臭かったかな。
「いえ、そういうわけじゃないですが……その、名前さんの体調が心配なんです。煙草を吸ってると肺がんになる確率が上がったり、病気になったりするって先週授業で習って……」
至極真面目な表情で彼がこちらを見る。そういえば私も中学生のときに学校で煙草についての授業や講演会を受けたような気がする。当時は「煙草なんて絶対吸わないし自分には関係ない」なんて考えていたけど、歳をとってから一度吸い始めるとあっという間に習慣になってしまった。
「あの、これを見てくれませんか」
「?」
手渡された教科書には、煙草を吸っている人と吸っていない人の肺の写真が並んでいる。片方は綺麗なピンク色をしているが、もう片方はかなり黒くなっていて自分もこうなりつつあるのかと思うと禁煙したくなった。ほんの少しだけ。
「肺もこんなになるし、控えたほうがいいと思います」
じっと。モブくんの黒い瞳に覗きこまれる。きっと心から心配してくれているんだろう。その純真無垢な眼差しに見つめられるとさすがに「煙草はやめない」とは言い辛い。でも毎日吸っているそれを我慢するのもかなりの苦痛であることは間違いない。禁煙すると決意して何度心が折れたことか……。
「今すぐ完全に禁煙はできないよ」
「名前さん……」
「でも、少しずつ数を減らす努力はしてみるね」
「! 僕にできることがあったら何でも言ってください。協力します」
努力はしてみる、の一言でモブくんが途端に明るい雰囲気を放ち始めた。たかが私の禁煙でそこまで喜んでくれるのは謎だけど、これを機に本腰入れて頑張ってみるのもいいかもしれない。
「ふふ、私のことなのになんでモブくんが喜ぶの」
「だって、名前さんにはいつまでも元気でいてほしいじゃないですか」
「えっ」
「え?」
「……」
「えっ、あの、どうして泣いてるんですか。僕、何か失礼なことでも……」
「ううん違うの。モブくんの気持ちが嬉しくて」
歳を重ねるうちに涙腺もすっかり緩んでしまったみたいだ。とにかく今日から数を減らして頑張ろう。
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