一寸先はどこまでいっても闇だ。
いくら努力をしても失敗ばかりでまともに仕事も出来ない自分。早朝から夜中まで怒号に耐えながら頭を下げる日々。最後に何かを楽しいと感じたのはいつだろう。どうして私は生きているんだろう。もう疲れた。
夜の駅構内。電車が近づいてくる音がする。白線の内側までお下がりください。聴き慣れたアナウンスがどこか遠くで聞こえる。今飛び込めば全部終わるんだ。もう朝に怯えることもない。悩むこともない。そうだ、最初からこうしていればよかったんだ。鞄を置いて足を踏み出す。たった数秒のことなのに全てがスローモーションで見える。これでやっと、楽になれるんだ。
「名前!」
目前に迫る電車のライト、揺れる視界。前に飛び出したはずが、後ろから腕を引っ張られて大きくバランスを崩した。転倒しそうになった体も、誰かに受け止められている。そんな私のすぐ傍を電車が勢いよく通過していった。
「霊幻、さん……」
怒っているような、泣いているような、相談所で見たことのない顔をした彼がそこにいた。私の肩を揺らし、何かを言っているが音が聞こえない。なんで、どうして。そこで私の意識は途切れた。
「……ここは」
目を開けると、すっかり見慣れてしまった霊とか相談所の天井が見えた。駅の構内じゃない。今のは、過去の夢だ。
「起きたか。うなされてたぞ」
「わっ!」
突然ぬうっと顔を出した霊幻さんに驚いた勢いでソファから転がり落ちた。痛い。
「おいおい、何してんだよ」
「いや、ちょっとびっくりして」
暑いわけでもないのに、じっとりと嫌な汗をかいている。もう一年ほど前のことなのに、未だにあの会社に勤めていた頃の夢を見る。こうして何度も見るのは、おそらく自分の中で消化できていない部分があるからだろう。
嫌な夢を見たせいで当時の出来事が次々と浮かんでくる。体が強張り、手が微かに震え出す。大丈夫。心の中で必死に言い聞かせる。ここは会社じゃない。あの場所とは違う。そう思おうとすればするほど心臓が嫌な音を立てた。
「名前」
「!」
「落ち着いて深呼吸してみろ。大丈夫だから」
私の両頬に手をあてた霊幻さんが、真っ直ぐに視線を合わせてくる。よかった、あの上司じゃない。目の前の相手は霊幻さんだ。意識を今に集中させていくと、少しずつ緊張の波が凪いでいく。
「嫌な夢はさっさと忘れちまえ」
手を引かれるまま、彼の胸元に倒れこんだ。あたたかな体温と心臓の音が伝わってくる。規則的なそれに耳を傾けながら呼吸すれば、仄かに煙草と霊幻さんの匂いがした。どんな香水やアロマよりも、私はこの匂いが好きだった。きっとこれ以上の安定剤はどこにもない。
「……しばらくこのままでもいいですか」
そろそろと彼の背中に腕を回せば、抵抗されることもなく受け入れられて。
「ああ」
それから霊幻さんは何も言わなかった。私が落ち着くまで頭を撫でてくれるばかりで、モブくんが事務所に来るまで黙って甘えさせてくれた。
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