「愛しているわ、マスター。どうかあなたの進む道に幸多からんことを」
きらきらと光に包まれるマタハリは私の瞼に唇を落とし、いつもの美しい笑顔で座へ還っていく。また、どこかで。呟いた言葉は彼女に届いただろうか。一人、また一人とカルデアから英霊が消えていく。気がつけば残るはあと一人、イシュタルだけになっていた。
「……イシュタル」
ここまですべてのサーヴァントを笑顔で見送った。本当にありがとう、と挨拶を交わして。だけど、もう限界もしれない。涙で歪み始めた景色を瞳に映しながら、私はイシュタルと出会ったばかりの頃を思い出していた。
イシュタルは私が初めて召喚したアーチャーだ。
冬木で聖杯を回収したあと、ダメ元で召喚を試みた際に来てくれた。彼女は美しく、気高く、そして強かった。右も左もわからない私を導いて、時には叱って、一緒に笑って泣いて。いつだって傍にいてくれた。
聖杯を回収し、新しい特異点に挑むたびに心はすり減った。
何度経験しても決して慣れることのない命の奪い合い。救えずに見殺しにしてしまった人々。身体に刻まれていく傷の痕。逃げることを許されない状況。
もう嫌だと泣き喚いても救われるわけじゃなく、寝ても覚めても訪れる恐怖に、やがて私は泣けなくなった。
貼り付けたような愛想笑いだけがうまくなり、サーヴァントの前でも弱音を吐かなくなった。どうせ吐いたところで状況が好転するわけでもない。心配をかけるだけならば、いっそ全てを心の奥に隠してしまえばいいと思った。
そんなある日、イシュタルがマイルームにやって来た。ちょうど第四特異点の聖杯を回収したあとで、久しぶりの休日だったと思う。ベッドで死んだように横になっている私の傍へ来て、彼女は言った。
「泣きたいときは泣いて、悲しいときは悲しいって言いなさい。全部を一人で抱えようなんて傲慢よ。あなたは神や仏じゃなく、人間なんだから」
そう言って、私の頭を撫でてくれた。普段見せるような強気な彼女の姿はなく、人の脆さや弱さを許し、肯定する女神がそこにいた。
強くなければいけないと思っていた。だって私は人類最後のマスターで、どこかで道を間違えてしまったら世界が本当に滅んでしまう。数えきれないほどの人間の命が私の背にかかっているのだ。どんなに辛くても逃げてはいけない。マシュに誇れる先輩でなければいけない。いつだって笑顔で、前を向いてなきゃいけない。そう思っていた。
なのにこの女神様は「弱いままでいい」と言う。ずっと誰かに言ってほしかった言葉をかけてくる。私は、本当は"弱い名字名前"を認めてほしかった。作り上げた偽物の私ではなく、ありのままの私でいいと言ってほしかった。押し殺してきた自分の心が見えて、声を上げて泣いた。この時は自然と泣くことができたのだ。その間、イシュタルはずっと静かに寄り添ってくれていたのだっけ。
そんなことがあって、イシュタルにだけは本音を隠さなくなった。彼女の言葉通り、辛いときは辛いと零し、泣きたいときには泣けるようになった。
だから、今。人理修復を終えて、ついに訪れてしまった別れの日。本当は笑顔で見送るつもりだったのに、私は今日も泣いている。
「イシュタル、いやだよ。帰ってほしくない。一緒にいたい」
「こうして名前を慰めるのも何度目になるかしらね」
イシュタルの腕のなかで、縋りつくように泣く。嫌だ。今までのカルデアが解体されて、皆いなくなって。願ってはいけないことだと知りながらも、もうイシュタルに会えないことがつらくてたまらない。こんなのあんまりだ。
「消えないで、ここにいて、イシュタル」
涙でイシュタルの表情がわからない。次から次に溢れてくる涙を止められない。
「きっとまた会えるわ、名前」
「……本当に?」
「ええ。だって私は貴方のサーヴァントだもの」
「うっ、イシュタル……」
私があなたに嘘をついたことがあったかしら?と言われてしまえば反論する言葉も見つからない。優しい嘘だと理解しながらも淡い期待を抱いてしまう。
「はい、どうぞ」
「これ、は」
「私からの餞別。特別よ」
手に握らされたものは、彼女がいつも使っている宝石だった。赤く輝くそれに、ぼんやりと私が映っている。
「あなたが私を必要とする限り、どこにいたって駆けつけてあげる。女神に不可能なんてないんだから」
私の勝利の女神様が微笑む。涙でぐちゃぐちゃになった顔で無理やり笑顔を作れば、瞳を潤ませたイシュタルに痛いほど抱きしめられた。
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