どちらかというと寝つきはいい方だ。でもたまにはそうじゃない日もある。今夜がまさにその日だったようで、ようやく眠れたかと思えば悪夢で繰り返し目を覚ましていた。
真っ暗な部屋で見慣れた寮の天井を眺める。頭に浮かぶのは先程まで見ていた悪夢のことばかり。大事な人を目の前で悪魔に殺される夢。あと少しで助けられるというところで、私はいつも間に合わない。
もしかすると前世の人生で体験した記憶も混ざっているのかもしれない。生まれ変わる回数が増えるたびに過去の記憶が曖昧になっていくので、それが事実であったかどうかを確かめる術はないけれど。ああ、嫌だな。こういうときは大抵ろくなことを考えない。
深夜、本来ならば寮の自室を出ることは許されない時間帯。そっと部屋を抜け出した私の足が向かっていたのは、あの理事長室だった。自分でもどうしてここへ来てしまったのか、さっぱり分からない。こんな時間に彼がここにいるはずもないし、おそらく室内は無人だ。それなら尚更、私はどうして来てしまったのだろう。ドアノブに伸ばしかけていた手を下ろし、ドアに背を預けるようにしてその場に座り込んだ。なんだかもう動く元気も残っていなかった。誰かに見られてしまったとしても、寝ぼけていたとか適当に言い訳をすればいい。
「こんなところで眠っていては風邪を引きますよ」
どれくらい時間が経った頃だろう。頭上から降ってきた声に顔を上げると、ここにいるはずのないメフィストさんがいた。
「夢?」
「まさか。現実ですよ」
頬に添えられた手触りの良い手袋の感触に、これが夢ではないことを実感する。
「動かないでください」
こちらの返事を待つことなくメフィストさんが私の身体を起こし、横抱きにして廊下を歩き始めた。
「え、あの、どこに」
「部屋まで送りましょう。可愛い生徒に風邪を引かれては困りますからね」
「そう、ですか……」
彼はそれ以上何も言わなかった。ただ静かに廊下を歩いて、本当に私の部屋へ向かっている。密着しているためか、いつもよりずっとメフィストさんの匂いがする。香水なのか何なのかはわからないけれど、甘くて不思議な香りだ。初めて出会ったときから変わらない唯一無二の匂い。時代と共に変わっていくものが多いなか、変わらないものもちゃんとあるのだ。そう思うとなんだか胸が苦しくなって、涙が溢れ落ちた。
「それで、どうしてまだここにいるんですか」
「寝かしつけてさしあげようかと」
何事もなく部屋に到着し、私をベッドに寝かせたメフィストさんはというと、そのまま出ていくのかと思えば同じように隣に寝転んでしまった。
「……悪趣味」
「聞こえていますよ、名前」
「……」
「そうだ、歌でも歌いましょうか。虚無界で遥か昔に流行した子守歌がありましてね」
「聞きたくない……」
寝かしつける、なんて言いながらすぐ傍でペラペラと話を続けるメフィストさん。これじゃあ眠りたくても眠れない。
背中を向け、狭いベッドの端ぎりぎりまで逃げても、背後から伸びてくる腕に強制的に連れ戻されてしまう。すぐ傍でまたあの香りがする。悪魔が纏っている香りなのに、こんなもので安心していいはずがないのに、荒れていた心が落ち着いていく。次第に意識も遠くなって、やがて何も考えられなくなった。
次に目が覚めたときにはもうメフィストさんの姿はなかった。結局彼がいつまで傍にいたのかはわからないが、まだ布団には微かにあの香りが残っている。我ながらメンタルが不安定になっていたとはいえ、どうして彼を頼ってしまったのだろう。次に顔を合わせたときに何を言われるかわかったものではない。小さく溜息を吐き、部屋の窓を開けた。
その日の午後、顔を合わせたクロに「名前からメフィストの匂いがする」と爆弾発言をされ、傍にいた燐や志摩くんたちに大騒ぎされたのはまた別の話。
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