「明日からもう一人塾生が増えますので、そのつもりでお願いします」
教卓で資料をまとめていた雪男が思い出したように口を開いた。今日の授業も終了し、帰り支度をしていた生徒たちの注目が一斉に集まる。
「先生、新しく来る人って男子ですか? 女子ですか?」
ひときわ反応が早かったのは志摩だ。パッと手を上げ、興味津々な瞳で問いかける。
「女性でしたよね、フェレス卿」
どういう風の吹き回しなのか、燐の隣には犬の姿をしたメフィストの姿があった。メフィストは特に表情を変えることなく口を開く。
「女性ですよ。ついでに言うと彼女は」
「彼女は?」
「私の婚約者です」
"既に塾生には説明してあるので、教室に入ったら空いている席について頂いて結構ですよ。"数分前にメフィストさんに告げられた言葉を思い出す。説明はしてある、と彼は言っていたけれど。
「帰りたい……」
適当に空いていた席に座ったものの、どうにも居心地が悪い。最初は妙な時期に編入したせいで色々言われているのかと考えたけれど、それとは違うような気がする。とにかく他の塾生からの視線が痛い。気づかないうちに何かしてしまったのだろうか。しかしまるで心当たりがない。
「名前!!」
「うわ、びっくりした。どうしたの」
勢いよく教室のドアが開いたと思えば、燐が酷く慌てた様子でこちらへ駆けてくる。ようやく見知った人物が現れたことに安堵したのも束の間、その安心も彼の一言で吹き飛ぶことになる。
「あ、あのよ、お前メフィストと……こ、こ、……」
「こ?」
「婚約してたのかよ!?」
「……」
「……」
「……燐、大丈夫? 勉強のし過ぎで疲れてるんじゃない?」
「昨日雪男が"明日から新入生が来る"って言ってたんだよ。どんな奴だって志摩が聞いたらメフィストが"私の婚約者です☆"って」
「誤解です。絶対誤解!」
そんな話、初耳だ。冗談を言うにしても、もっとましな冗談を言えなかったのだろうか。いや、メフィストさんにそれを期待するのは無理な話かもしれないけれど。とにかくそんな馬鹿な話だけはありえない、と繰り返し念を押した。
「じゃあやっぱり婚約者ってのはメフィストの冗談だったんだな!」
「あたりま、……んむっ」
背後から伸びてきた青白い手に口を塞がれた。振り返らずとも周囲にふわりと漂う甘い香りが、背後の人物が誰なのかを教えてくれている。
「そこまで否定されるとさすがに傷つきますねえ。まあ、照れるあなたも愛らしいので構いませんが」
振り返るとメフィストさんの瞳が愉しげに細められているのが見えた。本当にこの悪魔だけは毎度余計なことをしてくれる。
「メフィスト、名前が誤解だって言ってたぞ」
「とんでもない。これは紛れもない事実ですよ。ただ、今はまだあまり公にできない事情がありましてね。彼女はそれを心配してごまかそうとしてくれたのでしょう」
「そう、なのか?」
そんなわけない。本当に誤解だよ。そう言いたいのに、相変わらず口を塞がれてしまっているせいでモゴモゴと声にならない音しか発せない。
「今日は私も授業を見学します。奥村先生、どうぞ続けてください」
「……はい」
燐は未だに納得していない様子ながらも、メフィストさんと先生に促されて渋々席についた。私もこの事態には全然納得ができていないけれど、隣に座ったメフィストさんに「命が惜しければ余計な発言は慎んでくださいね」と耳打ちされてしまい、何も言えなくなってしまったのだ。
「どういうことですか。私は婚約者なんかじゃありません」
授業が終わって早々にメフィストさんを引きずって、人気のない場所へ移動した。
「まあそう仰らずに。婚約者ということにしておいた方が何かと都合がいいのです」
「それにしても……もっと別の誤魔化し方があるのでは?」
「なくはないですが、こちらの方が面白いでしょう」
どうせなら楽しまなくては。可愛らしくウインクをする悪魔にすっかり呆れてしまい、反論する気力が削がれていく。
「……メフィストさんのそういうところ、本当に面倒くさいです」
「悪魔と人間という種族の壁を超えた大恋愛ですよ。ロマンチックではありませんか」
「頭が痛い」
なるほど、私と彼の関係はそういう設定にされているらしい。そういえば先日、某少年週刊誌で始まった新連載のテーマの一つに「種族の壁を超えた恋愛」があった気がする。もしかすると彼はそこから設定を持ってきたのではないだろうか。まあ、そんなことを今考えたところでどうにもならないけれど。ああ、明日から塾に通うのが憂鬱だ……。
prev next