名前を見たとき、一目でわかった。「ああ、あの子だ」って。外見こそ若く見えるけど、俺は百年以上生きている化け猫だ。
彼女と初めて出会ったのは、俺がまだ普通の猫として生きていた頃だ。
江戸の吉原、その片隅にある小さな見世で飼われていた俺と、遠くから親に売られてきた名前。まだ幼かった名前はよく俺に構ってくれていた。彼女自身が口下手なこともあり、友と呼べる存在も殆どいなかったように思う。だから多分、俺が一番の話し相手になっていたんじゃないかな。まあ猫だったから、にゃあとしか答えられなかったけど。芸の稽古がうまくいかなくて一人で泣いている姿もよく見かけた。そんなときは大体俺が寄り添って、共に朝を迎えた。普段はあまり表情豊かでない名前が稀に見せる笑顔が好きだった。兵助、と名前を呼んでくれる瞬間が、何よりも好きだったんだ。
そんな名前も、やがて客の相手をするようになる。気がつけば彼女が見世に来て随分と時間が流れていた。相変わらず口下手なところはあったが、器量の良かった彼女は店で一、二を争う遊女になった。それに伴って俺に構う時間も減り、笑うことも少なくなっていた。
それから更に時間は過ぎ、ある事件が起こる。昔から名前に良い感情を持っていなかった遊女が、自分の男に頼んで名前を殺すように仕向けたのだ。この男というのがその遊女に大層惚れ込んでいて、あっさりと殺人を承諾してしまう。間もなくして名前は襲われ、あっけなく命を奪われた。猫の俺にはどうすることもできなくて血だまりのなかで苦しむ名前を見届けるのが精一杯だった。兵助。最期に彼女は俺を呼んで、二度と目を覚まさなかった。
やがて俺は化け猫になった。そして今、再び名前の傍で生きている。生まれ変わりなんて信じていなかったのに、目の前で見た名前はあの頃と何も変わっていなくて。生きていて良かった。あれほど強くそう思ったのは生まれて初めてだった。
当時と違うことがあるとすれば、それは俺が化け猫になったことだろう。もう昔のように、ただ指をくわえて見ているだけの猫じゃない。人の姿にもなれるし力もある。今度こそこの手で名前を守ることができるのだ。
「兵助、難しい顔してどうしたの」
「ああ、少し考え事をしてて」
兵助。俺の名を呼ぶ名前は昔と何ひとつ変わらない。ひだまりのような笑顔で、愛情で、俺を包んでくれる。なあ、今度は絶対に守るよ。何があっても俺が世界一幸せにしてみせるから。
だから、どうかこれからもずっと傍にいさせて。
prev next