rkrn | ナノ
×
「#学園」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -
※若女将になる前の話

 名前姐さんは、私の憧れだ。初めて見た花魁道中が姐さんのものだったから、尚更そう思うのかもしれない。もちろん姉女郎である白梅姐さんも憧れているし尊敬している。それでも一番憧れるのは誰かと問われれば、やはり名前姐さんだと答えるだろう。

 同じ境遇に身を置く仲とはいえ、この廓のなかに住まうのは女郎だ。客を奪っただの奪われただの、妬み嫉みも日常茶飯事。比較的気が置ける人といえば、長い間面倒をみてくれている姉女郎くらいだ。ただ、名前姐さんとはいつか二人で話をしてみたいと思っていたのだけど、どう話しかければいいかわからず、結局いつも遠くから眺めるだけだった。

 姐さんと二人で話をすることができたのは、ここで働き始めてしばらく経ってからだ。その当時、私は酷く落ち込んでいた。毎日好きでもない男に抱かれることが苦痛で仕方がなかったからだ。借金を返すためとはいえ、病気になれば死ぬまで暗い物置に隔離され、足抜けしようとすれば酷い折檻が待っている。ここに来て何人の遊女の死に触れただろう。自分は果たして年季が明けるまで生きていられるだろうか。男に抱かれ続けることに耐えられるだろうか。考えても仕方がないと分かっていても、頭の中はそればかり。希望なんてあったものじゃない。いっそ自らお歯黒どぶへ飛び込んで、死んでしまったほうが楽になれるんじゃないかと本気で考えていた。

「勘右衛門?」
「!?」

 空き部屋の隅っこで膝を抱える私の前に現れたのは、なんとあの名前姐さんだった。聞けば彼女も一人になる場所を求めてここへ来たのだという。

「邪魔しちゃったね、すぐ出て行くから」
「あっ、待って」
「?」

 引き止めたのは、ほぼ無意識だった。考えるより先に体が動くとはこういうことを言うのだろう。驚いたように目を丸くする姐さんと、引き止めたはいいもののうまく言葉が出ない私。奇妙な沈黙が部屋を流れていく。結局、先に口を開いたのは姐さんの方だった。

「いいものがあるんだ。ここで少し待っててくれる?」

 優しく微笑む姐さんに、こくこくと頭を縦に振った。約束通り彼女はすぐに部屋に戻ってきて、その手には美味しそうな饅頭が握られていた。

「さっき貰ったんだけど一人じゃ食べきれなくて。良かったら食べない?」
「わあ、美味しそう……!」
「あ。やっと笑ったね」
「え?」
「ここしばらく暗い顔してたでしょ。ちょっと気になってたんだ」

 笑顔が見られて良かった。ぽんぽんと頭を撫でられ、気がついたらさっきまでの憂鬱はどこかへ消え去っていた。そればかりか憧れの対象である彼女が私を気にかけてくれていたという事実が嬉しくて、会話をしている間もずっと締まりのない顔をしていたように思う。我ながら現金な人間だ。饅頭を食べてからも姐さんは傍にいてくれて、たわいない話や仕事の相談まで何でも聞いてくれた。おかげで胸の内に抱えていた黒い感情も消え、みるみるうちに気が楽になっていった。

 姐さんと話していると、とても心が安らいだ。程よい合間に打たれる相槌、穏やかで優しい声音、慈しむような視線や動作。そのひとつひとつがさながら芸術品のようだ。

「さて、そろそろ行こうか。支度しないとね」
「……そう、ですね」

 差し迫る現実に気分が沈む。仕事に行くのが嫌だという理由も勿論ある。だけどそれ以上に姐さんと離れてしまうのが辛かった。もっと一緒にいたい、もっといろんなことを話していたいのに。

「そんな泣きそうな顔しないで。ほら、笑ってごらん」

 俯く私の両頬に白い手が添えられた。ゆっくり顔を上げれば、姐さんと視線が絡まって。女同士だから恥ずかしいことなんて何もないのに、かあっと顔に熱が集まっていく。なんだかとても気恥ずかしい。

「勘右衛門」
「あの、ね、姐さん」
「うん?」
「また、姐さんと二人で話がしたい、です」

 緊張で声が震える。途切れ途切れに言葉を紡ぐのが精一杯で、それでもなんとか伝えようと口を開いた。

「いいよ。大抵部屋にいるから、いつでもいらっしゃい」

 そう言って笑った姐さんはとびきり綺麗で、私は嬉しさのあまり泣いてしまった。遊女になってからもよく泣いていたけど、嬉し涙を流したのはこれが初めてだった。それからは時間さえあれば姐さんの部屋へ通い詰めた。



「名前姐さん、タカ丸さんに飴貰ったよ」

 いつものように訪れる姐さんの部屋。きちんと整理整頓されているこの場所は、彼女の几帳面な性格を如実に表していて、そこかしこに名前姐さんの気配を感じることができるから、私は見世の中でここが一番好きだった。

「良かったじゃない」
「はい、姐さんの分もあるよ」
「ありがとう」
「……あの」
「勘右衛門?」
「姐さん、いい?」
「いいよ。おいで」

 花が咲き誇るような笑みに誘われるままに腕のなかへ飛び込む。姐さんに触れられている間だけ、私の世界は色彩を帯びる。全てが色鮮やかに見えて、眩しい。

「姐さん、名前姐さん」
「どうしたの」
「姐さん、すき」

 あのね、姐さん。私があなたに向ける感情は、友愛や親愛の情だけじゃないの。愛と呼ぶにはあまりにも暗く澱んだ感情を心の底で持て余しているの。こんな私を知ったら軽蔑するかな。でもきっとあなたのことだから「困った子ね」と笑うだけかもしれないね。

「私も好きよ、勘右衛門」

 私が姐さんに向ける「好き」と、姐さんが私に向ける「好き」は、全く違う意味を持っている。でも、それでも良かった。姐さんが私を見て、触れて、名を呼んでくれる。それだけで、私は。

prev next