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BLコンテスト・グランプリ作品
「見えない臓器の名前は」
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 今日は予定していたよりもずっと早い時刻に斉藤がやって来た。何かあったのかと思えばうっかり時間を間違えただけのようで、彼らしい失敗に笑ってしまった。まあ遅刻されるよりは早く来てくれるほうがずっといい。ただ待っているのも退屈だろうし、私も時間を持て余していたので、部屋でお茶でもどうかと提案すれば彼は二つ返事で了承してくれた。

「それにしても、すっかり女将さんらしくなったねぇ」
「そう?」
「見世の子たちも言ってるよ。若いのにしっかり女将の仕事をこなしてて凄いって」
「あらあら、お世辞が上手だこと」
「女将として働く名前ちゃんも素敵だけど、昔みたいに髪を結えなくなったのは残念だなぁ」
「私も斉藤に髪を結ってもらうの、好きだったよ」

 一見気が抜けるような雰囲気をまとっている彼だが、その腕は確かで私が遊女だったときも随分とお世話になった。髪を結われながら何気ない会話を交わしていた日々。それも今となっては遠い過去の出来事だ。

「ねえ、二人の時は斉藤って呼び方やめない? 昔はタカ丸って呼んでくれてたじゃない」
「でも」
「君が女将として頑張ってるのは知ってる。でもそれだけじゃ疲れちゃうよ」

 妙な勘ぐりをされないために、女将の仕事を始めたときから私は彼を斉藤と呼ぶようになった。それについて斉藤が私に何かを言ってきたことはなかったが、やはり思うところはあったらしい。

「俺と二人でいる時くらい甘えてよ。誰にも言わないから、ね」
「……斉藤」
「……」

困った男だ。この人は私が自ら線引きしていることを知っていて、なおかつそれを飛び越えてくる。何度か斉藤、と声をかけるものの彼は頑なに返事をしない。黙ったまま首を左右に振るばかりだ。どうやら名前を呼ぶまで、このままでいるつもりらしい。

「……」
「……」
「……」
「……」
「……タカ丸、」
「なあに、名前ちゃん」

 観念して名前を呼べば、タカ丸はぱあっと顔を明るくして笑った。久しぶりに口にした名に胸の奥がざわめく。柄にもなく緊張していたようで、手のひらにはじとりと汗が滲んでいた。

「ごめんね、タカ丸」

この所、仕事仕事で休む暇もなかった。どこにいても私は「菊之屋の女将」として存在していて「名前」という女の存在は長らく影を潜めている。おそらくタカ丸は仕事で気を張ってばかりの私を気遣ってくれているのだろう。実際、弱音や愚痴を吐ける場所も殆どなく、心身共に疲労を感じていたのは事実で、彼の心遣いはとてもありがたいものだった。

「いつも頑張ってて偉いねえ。よしよし」
「子供扱いはやめて」
「少し眠ったらどう? 昨夜も近所のぼや騒ぎで眠れてないんでしょ」
「タカ丸には何でもお見通しだね」
「ちゃんと起こしてあげるから、おやすみ」
「……おやすみ」

 子供のように頭を撫でられているうちに、だんだんと瞼が重くなってきた。久しぶりに気を抜いたせいか、今までの疲れがどっと押し寄せてくる。幸いなことにまだ見世が開くまで時間がある。今なら少しくらい休んでも罰はあたらないだろう。タカ丸の手のぬくもりを感じながら、私は畳に寝そべって意識を手放した。

「君がここを出たいって言ってくれたら、いつでも連れ出してあげるのになぁ」

 名前の目の下に浮かぶ隈をなぞり、ぽつりと呟く。見世も女将の立場も捨ててついてきてほしいと言っても、きっと彼女は困ったように笑うだけだ。いっそこのまま攫ってしまおうか?そんな子供のような考えがよぎった所で小さく頭を振った。今はまだ、この関係を大事にすることだけ考えていよう。畳に広がる彼女の黒髪を掬いあげ、そっと唇を落とした。


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