息を切らしながら走ってきた道を振り返る。後ろには誰もいない。気配もない。とりあえず脱出は成功したと考えていいのだろうか。
「つ、疲れた……」
日頃の運動不足のせいで全身が悲鳴を上げている。明日はきっと酷い筋肉痛になるに違いない。荒い呼吸を繰り返しながら道の端に屈んだ。
「君、大丈夫?」
「えっ? あ、はい」
いつ現れたのか、見上げた先には男性が立っている。
「何かから逃げてるみたいに見えたけど、もしかして誰かに追われてる?大丈夫?」
「いえ、そういうわけでは……。ただ、人として駄目になりそうだったので逃げてきたというか」
「?」
「あ、いや、えっと」
しまった。疲労のせいで言わなくていいことまで口走ってしまった。いきなり「駄目になりそうだから逃げてきた」なんて言われても意味が分からないだろう。その証拠に男性もぽかんとした顔をしている。どうしよう恥ずかしくなってきた。「もし良ければ、そこの公園にでも行かない?道端で立ち話もあれだし、ベンチもあるからここよりは落ち着けると思うよ」
「……え」
なんということでしょう。この男性はどうやら私の話を聞いてくれるらしい。こんなに優しい人に出会えるなんて、今日の私はツイてるかもしれない。脱出も無事に成功したし、もしかすると天が私の味方をしてくれているのかも。ありがとう神様。
「すみません、ジュースまで買って頂いて」
「気にしないで、俺もちょうど飲みたかったから。で、君の話をまとめると……ある男の家に行ったら自分では何もさせてもらえず、自分の家にも帰してもらえず、至れり尽くせりの生活を強いられていた。このままだと駄目人間になると危機感を抱いた君は、男の目を盗んで家から逃げ出してきた、ということでいいのかな?」
「おっしゃるとおりです」
綺麗にまとめられた事実にうんうんと頷いた。あの家は危険だ。駄目人間に拍車がかかってしまう。自称駄目人間の私が危機感を感じるくらいだから相当だ。
「その男の人のことはどう思ってるの?やっぱり嫌い?」
「嫌い……ではないです。でもあのまま一緒にいたら、私は一人で何もできなくなると思って。それはさすがにマズいなと」
「……」
「変な話をしてごめんなさい。そろそろ家に帰りますね」
なにせ相手はあの人だ。一筋縄でいくはずがない。今は幸運にも逃げ出せているけれど、いつまた追われるかも分からない。面倒事が起きる前にどこか遠くへ避難しなければ。
「それなら家まで送るよ。もしその男が来たら助けてあげられるかもしれないし」
「いえ、さすがにそこまでして頂くわけには……」
「いいからいいから。これも何かの縁だと思って、ね」
「ありがとうございます」
本当に今日はツイている。この人がいてくれたら、もしあの人が現れても逃げられる確率が高くなる。私は神様と目の前の救世主(仮)に感謝して、再び歩き出した。
「あの、もし差し支えなければ名前を聞いてもいいですか?」
歩き始めてしばらく経った頃、これだけ長い間話をしているのに私は彼の名前を知らないことに気づいた。心の中では救世主(仮)と呼ばせてもらっているけど、恩人の名前はきちんと知っておきたい。
「構わないよ。俺はイズナ。君は?」
「名前です。ん?」
「どうしたの?」
「この家、さっき話した男性の家です。イズナさんが言ってた近道って……」
良い近道を知っているというイズナさんに導かれるまま歩いていたはずが、私は逃げ出した屋敷のすぐ傍まで戻っていた。あれ、おかしいな。
「ねえ、名前ちゃん。君にまだ言ってなかったことがあるんだ」
「え?」
「俺の名字、うちはっていうんだ」
「うちは……?」
「兄の名前はマダラ」
「!?」
嫌な予感が確信に変わった。言われてみればイズナさん、彼によく似てる。ああどうしてここに来るまで気がつかなかったのか。
「戻ったか、名前」
「ま、マダラさん」
屋敷から現れた人物にわなわなと体が震えた。彼こそが私が逃げ出した屋敷の家主である男性、うちはマダラその人なのだ。
「外出は楽しめたか?出かけたいなら最初からそう言えばいいものを」
「……」
「離すな、イズナ」
じりじりとマダラさんから距離をとり、逃げようと足に力を入れた所でイズナさんに腕を掴まれた。ちょっと待ってこれは非常に危険な流れなのでは。
「離してイズナさん!駄目人間の自覚はあるけど、このままここにいたら私は救いようのない駄目人間になる!それだけは避けたい……!」
「安心しろ。俺が救ってやる」
「マダラさんには聞いてません」
「ごめんね、名前ちゃん」
「うう、イズナさん……」
力になってくれるって言ったのに。苦笑いを浮かべながらも私を掴む力を全く緩めないイズナさんに絶望した。救世主(仮)は救世主(偽)だったなんて。
「さあ、家に戻るぞ。いつまでも玄関先にいては体が冷える」
「だから私は自分の家に戻……うわああん」
マダラさんに右手を、そして左手をイズナさんに繋がれてずるずると引きずられていく。その姿はさながら捕らえられた宇宙人のようだった。
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