まずい、とただそれだけが頭を占めていた。

目の前には頭を打ってぐったりとしている男、おまけに後頭部からは赤黒いものがだらだらと流れて襟足と後ろの電柱を汚している。
はあはあ、と荒れる息を抑えて、薄暗い路地の右、左、後ろを順々に確認する。
幸い誰も見ていなかったようだが、誰かが一目見ればこの惨状は私が男を一方的に殺したようにしか見えないだろう。
殺すつもりなんてなかった、と犯人が警察に問い詰められた第一声によく言いそうな台詞を私も吐いてしまいそうになる。何故なら、本当に殺すつもりなんてなかったのだ。
帰宅途中、横着を働いて暗い路地に入ったことがそもそもの間違いだった。急に男に後ろから体を抱き込まれ、地面に転がされそうになったのを必死に抵抗して、思い切り男を後ろに突き飛ばした。本当にただそれだけだったはずなのに。

「なんで…」

本来デスクワークに勤しむ程度の私の力なら、この男はよろけるか、運がよくて地面に数秒転げるかそのどちらかである。電柱に、それに飛び出た杭のようなもの目がけて男を突き飛ばしたわけではないのだ。

そう、だから、私は何も悪くない。

生唾を飲み、誰も見ていないなら逃げてしまおうと、足を一歩後ろに下げた時だった。

「逃げるの?」

とん、と肩に誰かの体が当たった。やけに澄んだ声が頭上から聞こえ、ゆっくり顔をあげるとそこには猫の目のように大きく黒々とした瞳を持った長髪の男が立っていた。

「ひっ」

見つかってしまった、通報される、そんな恐怖ばかりが頭の中を廻る私を素通りして、男はぐったりとしているままの男に近づいた。

「こいつまだ生きてるよ。目を覚ましたら君を通報するんじゃない?」

殺すなら確実にやらないとだめだよ、あはは。と他人事のように言って、彼は立ち去ろうとしている。まさか、このまま何も無かったことにするつもりだろうか。慌てた私が思わず男の腕を掴んで引きとめると、彼は表情を変えないままこちらを振り向いた。

「あ、あの、私、どうしたらいいですか」

この男がまだ生きていて、私が逃げても通報される?それならばどうすればいいのだ。先に手を出してきたのはこの男なのに。パニックになりながら男の顔を見つめてみるが、私の顔を見つめ返してくるだけで、男は何も言ってくれない。
誰に助けを求めていいのか分からないが、今この場にいるのは彼だけなのだ。腕をしっかりと抱いて、逃げないようにと力を込めると、男は深いため息を吐いた。

「いや俺に聞かれても。捕まりたくないなら殺せば?」

さも当然だというように、未だぐったりと倒れている男を指差され、そちらに顔を向けると男は再び歩き出そうとする。

「ちょ、ま、待ってください!無理です!殺せません!私も正当防衛だったんです!」

「知らないよ。自分で考えて」

私が腕を全身全霊の力で抱き込んでいるにも関わらず、空気の入った人形を腕につけているかのような足取りで淡々と進んでいく彼は止まる様子がない。

「何でもします!何でもしますから助けてください!」

「君ぐらいの人間にできる何でもってだいぶ限られてない?」

「っ、そ、そうかもしれないですけど!お願いします!お金も払いますから…」

ぎゅうぎゅうと腕を掴んで離すまいと必死になっている姿は、傍から見れば別れ話がもつれて女が駄々をこねているようにしか見えないだろう。
現に引きずられすぎて、先ほどの路地を出た繁華街の近くの道にまで出てきてしまっている。ようやく足を止めた彼は、涙でぐしゃぐしゃになっているだろう私の顔を見て少し息をつくと、「じゃあお前が死ぬ?」と巨大化したマチ針のようなものを私の首筋に突き立てようとした。

「うわ!」

思わずしゃがんで避けると「おお、避けた」と対して感動もなさそうな声が頭の上で聞こえている。

見知らぬ男を殺人未遂してしまうし、助けを求めた相手にも殺されそうになるし、踏んだり蹴ったりの事態に頭を抱えるしかない。
もう大人しく自首した方が早いだろうか、すごすごと元の路地に戻ろうとすると、今度は男が私の腕を掴んだ。

「お前運がいいね。今夜俺機嫌いいから特別代金で依頼聞いてあげる」

「とくべつだいきん」

彼の言葉がよく分からずに繰り返すと、「はい決まり」と1人納得したように頷き、瞬間移動でもしたかのように私の目の前から消えてしまった。

「えっ!?」

どこに行ったのだと、辺りを見回すが人の影はなく、風が鳴る音が聞こえるだけである。
まさかさっきの男自体が幽霊だったのか、と思わず身震いしていると、先ほどまでいた路地の方から、黒い髪を揺らしながら男が再び現れた。

「ゆ、幽霊…」

「幽霊?それより、さっきの男ちゃんと殺しておいたよ。それで報酬だけど、まけにまけて200万ジェニーでいいよ」

「えっ、殺しておいたってどういう…って200万!?」

私は確かに助けてくれと言ったけど男を殺してほしかったわけじゃない。
例えば正当防衛だったとか、私の事を証明してくれればいいだとかそんなことを考えていたのに…!
まさかの事態に腰の力が抜けてしまい、地面に座り込む。自分のせいで他人まで巻き込んで人殺しをしてしまったという罪悪感と、何故か報酬金として200万も要求されている事実。これは口止め料ということなのだろうか、しかしそれにしたって高すぎる。


「無理です…そんなお金ないです…」

「これでもかなり割引してるんだけど」

座り込んだ私の前に、同じようにしゃがみ込むこの男は本当に人を殺したのか分からないぐらい平気そうな顔をしている。…もしかしてこれは本当は男を殺してなんかいなくて、単に私が恐喝されているだけなんじゃ?訝し気な視線を送ると、「殺したか疑ってる?ほら」とおもむろに手を差し出される。

促されるままに手のひらを開いて彼が渡すのを待っていると、ぽとりと手の上になめくじのような感触をしたナニかが乗った。

「ひっ」

慌てて、その感触のものを地面に落とす。砂埃と血で汚れた、それは確かに「人の眼球」だった。

「これなら証拠になるでしょ?それに死んでないことはないと思うけど、もし生き返っても目がなければお前の顔も分からない」

「こんな、こんなこと頼んでない……」

震えが一向に収まらない体を必死に止めようと、腕を擦ってみるがゼンマイの壊れた玩具のようにがくがくと揺れるばかりだ。
「あれ?俺のこと知ってて頼んだんじゃないの?さっき針も避けたし」と不思議そうに首をかしげながら何か言っている男の言葉などまるで耳に入ってこない。

何を知っていて頼んだというのか。私は、偶然傍を通りかかった男に助けを求めただけであり、針を避けられたのもまったくの偶然。そもそも目の前にでかい針が迫っていたら、誰だって避けるだろう。

「…全然知りません、あの、私どうしたら」

「てっきり俺が殺し屋だって知ってて頼んだかと思ったのに。じゃあ殺り損だったなあ、依頼でもないのに殺しちゃったよ」

どこにも笑う要素がないのに男は棒読みで笑ったままであるし、もうどうしたらよいのか分からない。現実逃避しそうになるが、地面に転がり落ちた眼球を見つけると、これが夢なのだとは言っていられない。

この男の勘違い、いや私がさっさと自首せず正当防衛で済まそうとした結果人1人の命があっけなく散ってしまったのだ。もう、警察に行くしかない。
ふらりと立ち上がるが、そんな私を見て男は「死体ならもうないよ」と言い出す始末である。

死体もなく警察に行って誰が信じてくれるだろうか。もしかしたらありもしない殺人を犯したと出頭してくる女に「お姉さん、疲れてるんだね」と憐れみの視線が向けられるぐらいだろう。
もはや家に帰るぐらいしかなくなった私と、殺し屋だという名前も分からない男。
何もなかったかのように立ち去る後ろ姿を見て、これで会うのが最後であればいいと思う心とは裏腹に、また会う運命にあると―――第六感は告げている。






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