初老のマスターが営む小さな喫茶店、私はそこの従業員として雇われていた。

従業員とは言っても、働いているのは私1人である。狭い店であるし分かりにくい場所にあるせいか、お客さんも顔と名前を憶えてしまう程度には少ない。それでもこの店が続いているのは、きっと常連さん達が足繁く通ってくれるお蔭とマスターの人柄のお蔭なのだろう。
そんなマスターやこの店の雰囲気は非常に心地よく、週に2日、土日のみのシフトであるが、このバイトとは思えない心安らぐ時間を私はいつも楽しみにしていた。

「ブレンドコーヒーと本日のパイです」

「ああ、ありがとう」

本を閉じてこちらに顔を向けた男性は、最近常連となってくれた『ルシルフルさん』だ。黒髪が窓から入る光に当たって光り輝いているのだから男前とは素晴らしい。額にいつも包帯を巻いているのが気になるが、何か怪我でもしているのだろうか…?

見とれていることをばれないように早々にカウンターに戻ると、マスターが「今日も彼来てくれているんだね」と嬉しそうに目を細めた。

「はい。前回と同じコーヒーとパイのセットです。気に入っていただけたみたいでよかったですね!」

マスターは来店した人に合わせてコーヒーのブレンドを変えているのだという。何でも、人目見ればその人がどういう味が好みなのか分かると教えてくれたが、それは長年の勘というやつなのか。目をこらしてじいっとルシルフルさんを見るが、オーラも何も見える訳がない。
「名前ちゃんには難しいかな」

「ですねえ」

コーヒーの道を究めると超人的な見分けができるように違いない、一介のバイトの私には無理な話だ。諦めてコーヒーカップを洗い始めると、ドアのベルが鳴り数人の常連さん達が顔を見せる。「いつものやつで」と口々にかかる声に、忙しくなってきたぞとエプロンの紐を結び直した。

*

翌日、今日は日曜日。いつものように常連さんが朝から顔を見せるだろうと踏み、今日のパイを切り分けているのだが、12時を回っても誰も現れない。マスターも「誰もこないなんて珍しい日もあるね」と寂しそうにしているし、心配になる。
もちろん彼らにも事情はあるし、数か月顔を見せなかったと思えば急に毎日来店し始める常連さんもいたため怪しいことは何もないとは思うのだが…

しん、と静まり返った店内でコポコポとお湯が沸く音だけが鳴っているのは寂しいものだ。

13時を回ったころだった。ようやくドアのベルが1つ鳴り、ルシルフルさんがやってきた。

「あ!いらっしゃいませ!」

本日最初のお客さんに思わず声が明るくなってしまう。いつもと違い、かけよってくる私を見て彼は「ふふ、元気だね」と優しそうに微笑んだ。

「今日はお客さん全然来なくって!ルシルフルさんが来てくれて嬉しいです!」

「へえ。珍しいこともあるんだね。ああ、今日もいつもと同じので頼むよ」

「はい!」

伝票用にメモをとり、マスターに注文を伝えようと近づくが、何故かマスターは険しい顔をして彼の横顔を見るばかりだった。

「マスター?注文…いつものコーヒーでしたけど」

「…ああ。そうだね、いつもの…」

そう言って、コーヒーを煎れる手はいつも通りであるし、険しい顔はあの一瞬だけだったので何か気のせいだったのだろうか。切り分けておいたパイを皿に乗せている間、いつもの雰囲気がほんの少しだけ冷たくなったような気がしたことは頭の片隅に追いやられていた。


*

一週間後、バイトにやってきた私はまず違和感に気づいた。

「お店が開いてない」

一応働いているのが私しかいないため、合鍵ももらっていたのだがいつもマスターの方が早く来ていたし、私が合鍵を使う機会はなかった。先週常連さんが誰も来なかったことと言い、不思議なことが続くものだ、とドアを開けて店の中に入る。
開店準備中の札を下げて内鍵を閉めれば、マスターがいない以外には何ら変わりないいつもの店内が広がっていた。

「とりあえず準備準備…」

コーヒー豆を取り出して、秤にかけていると、リンと訪問を告げる鈴が鳴った。
鍵は閉めていたし、マスターが来たのだろうか。しかし鈴がつけてあるのは表の扉であるし、マスターは裏の入り口からしか入ってこないだろう。鍵をかけたつもりになっていただけか?と秤から目を離し、扉の方を向くと何故かルシルフルさんが立っていた。

「あ、こんにちは…まだ準備中なんです。もしよかったらまだどこかで時間を―」

「マスターはもう来ないよ」

「えっ」

「それに、他の客ももうここには来ない。死んだからね」

手形がついた本を片手にこちらに歩み寄る姿は、ただ歩いているだけのはずなのにこちらに異様な威圧感を与える。つう、とこめかみに嫌な汗がつたうのを感じた。

「運の悪いことに、盗賊団に襲われたらしい。マスターはそれの仇討ちに出て、……行方不明だ」

彼はマスターだけが使い方を知っていたコーヒーの機械を手際よく使いこなし、マスターが私に煎れてくれたものと同じ、良い香りのするコーヒーを一杯私に差し出した。

「飲むといい、最後の餞別だ。そして一時間以内にこの店を出て300m圏内にはいないことだ。分かったね?」

そう告げたあと扉から出ていく彼を見ながらコーヒーに一口、口をつけるとマスターが『私専用』にブレンドしてくれた味がして涙がぽろりと零れた。

「マスター…」

それ以上口をつけることができずにふらふらと荷物をまとめて外に出る。盗賊団が何者で、ルシルフルさんがどうして事の成り行きを知っているかは分からない。けれど、きっと彼がマスターをどこか遠くへやってしまったことは理解した。そして餞別を渡した今、マスターにはもう永遠に会えないだろうということも。

300mどころか、もっと遠くへ行きたくてタクシーに乗り込む。あの居心地の良い空間で、人の良いマスターと常連さん、そしてルシルフルさんが来るあの時間の上書きをしたくはなかった。「一時間くらい、ここから離れて、適当に走ってください」

タクシーの運転手は「はあ」と気の抜けた声で返事をして、不思議そうな顔をしながらも車を走らせる。
思い出を忘れないように眠ってしまおう。目を閉じて思考を止めようとする私の耳に、盗賊団が襲撃して周囲の建物が壊滅したとのニュースは聞こえなかった。






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