自分の血で主の顔が、手足が穢れていくのを見ているのは心地が良かった。腕の中にいる死にかけの歌仙兼定などには目もくれず、ただ俺の顔を呆然と見ているという事実、それだけで今までの心の中に溜まっていたどす黒い靄が晴れていくのが分かった。



思い返せば、俺が鍛刀されたその日も、隣にいたのは歌仙兼定であったと記憶している。

この本丸には初期刀以外に短刀しかいなかったらしい。やっと打刀が二振りになったと俺の手を握って喜ぶ主の後ろで、「主、喜ぶのは太刀以上を鍛刀してからにしたらどうだい」と呆れた顔をして主の顔を少しなりとも曇らせたその時から、俺はこの男が嫌いだった。
幸いにもこの男も俺が嫌いだったらしい。「主を甘やかすな」だの「主と適切な距離をとれ」だのと「俺と主」の関係を壊そうとしてくることが多々あった。加えて、まるで主のことを一番に考えているのは自分であるというような態度をとるのだから憎たらしい。

主のことを一番に考えているのは俺だ。
主の命であれば手打ちだろうが焼き討ちだろうが何でもやってのける自信がある。もちろん、自刃を命じられても躊躇う事などないだろう。心優しい主は俺にそういった類の主命を与えてはくれなかったが、どんな小さな事でも申し付けてくれるだけで、俺は頼られているのだという幸福感に繋がった。他の者に命じられていたならば、俺は小間使いではないと早々に切り捨てるところだが「主」、あの人の命であるからどんな事も受け入れ、許すことができたのだ。

ただ一つ、歌仙を近侍に命じていることを除いては


主は初期刀だからと歌仙以外を近侍にすることはなかった。二番隊の部隊長は任されても一番隊で歌仙と共に出陣する際には俺はその座を下げられる。悔しくて悔しくて、俺は何度も誉をとり主に俺がどんなに近侍に相応しいか分かってもらおうとしたが、主がくれたのは労りの言葉だけだった。

遠征の結果を報告に主の部屋を訪れ、頭を下げて部屋を出る瞬間いつも考える。報告を終えれば俺は部屋を出なければならないのに、主の隣に我が物顔で座り、あろうことにも主の編成はなっていない、資源管理を徹底しろと進言するこの男は何故部屋にいることが許され、主が就寝するその時まで共にいられるのだろうかと。


しかしどんなに歌仙を憎く思い、近侍に相応しくないと考えようと、主に俺を近侍にしてくださいなどと言うことはできない。
「歌仙兼定を近侍にする」という主自身が決定したことを俺が変えさせようとするなどおこがましい。
だから俺は待つだけだ、主が「へし切長谷部を近侍にする」と言うまでいつまでも





「主、今日の主命はまだですか」

部屋でどこか退屈そうにしている主に声をかければ「万屋に行こうか」と優しく微笑んでくださった。微笑みもそうであるが、主が外出する伴にさせてもらえたことに思わず「俺で、いいのですか」と言葉がもれ、嬉しさで手が震えた。
今まで主と外出したことがあるのは、歌仙兼定と燭台切光忠の二人であった。燭台切は食料の相談もあるのだろう同伴したことには目を瞑っていたが、歌仙に対しては憎らしく思う気持ちがさらに蓄積され、許すことなどできなかった。

しかし、主が「俺」を、伴に選んでくれたのだ!

誰に言われたのでもなく、まぎれもない主自身の意思で!
これが幸福でないとどうして言えるだろう。


軽い化粧をした主は俺が今まで見たどんな女人よりも美しく見えた。町に出れば薄汚い男共の視線に清らかな主を晒すのは忍びなかったが、それよりも人ごみに慣れずになかなか進めない俺の手をとって握ってくれた瞬間、そんな思いは吹き飛んだ。

主は他の男共の視線など全く意に介していない、俺だけを見てくれているのだとそう感じられて思わず主の手に指を絡ませる。恋人のような真似をするなど不躾だと手を解かれてしまうかと思ったが、主はそれをしなかった。

主、あなたも俺と同じ気持ちなのですね。

刀として生をうけ、刀剣男士として暮らすようになってから初めて覚える心の温かさに口元が緩む。主にとって俺が一番の刀であります。その想いを胸に秘め、しばし柔らかな幸福感に身を委ねた。


主と手を繋ぎ、心を繋いだあの日から俺の心は穏やかであった。近侍として歌仙が隣にいようとも短刀が不躾に主の体に触れようとも、心で繋がっているのは俺一人であると考えることができたからである。

しかし、そんな日々も長くは続かなかった。

ある日一番隊が戦場で「へし切長谷部」を拾ってきたのだ。
主が会議で本丸にいないことが幸いだった。俺は当然のように倉庫におかれた「それ」を見つけると躊躇いもなくへし折った。真っ二つに折れた自分であって自分ではないモノに対して何の感慨も湧かないが、ふと頭の中に「もし俺が折れたらどうなる?」と考えがよぎった。
「へし切長谷部」はいわゆるレア刀という部類のものではない。
もし俺が折れてしまったとしても、主の元にはまた俺と同じ顔をした刀がやってきて、俺のふりをして主につきまとうのだろう。
そうしたら主は折れた俺のことなど忘れて新しいへし切長谷部を想うようになってしまうのでないか?恐ろしい考えだ。素晴らしい主が俺を忘れるなどと考えることは、彼女への侮辱にもあたるかもしれない。だが悪い考えというものは、一度浮かんでしまえば消えることはない。消えたように感じてもそれは心の奥底に沈んでいるだけで、水面を叩けばすぐにでも浮かび上がってくるのだ。

俺は必死に胸の底にその考えを沈めた。
主は俺を見ていてくれる、大丈夫、大丈夫だ。
あの方を疑うなどとんでもない―――――――――


しかし、幸せに味をしめてしまった心はもう以前の自分と同じようには動いてはくれなかった。

誰かがへし切長谷部を拾ってくるたびに心は闇に染められ、主は俺と同じ顔をした刀を俺として扱うのかもしれないと日を追うごとに妄想は膨らんでいった。
もう自分の意思ではどうしようもなくなっていたのだ。





―――――その日は朝から雨だった。
主が見当たらないと本丸内を探していれば、瞳を涙で濡らす彼女を見つけた。普段涙など見せない彼女がそんな顔をするなどよほどの事に違いない。主の自室で見つけた掛け布を持って近づく。

「体が冷えます」と布を肩にかけてやれば、鼻をすする主はやはり泣いていた。少しでも温まるようにと傍に寄れば彼女は痛々しい笑みが俺の胸を痛めた。

「長谷部は、優しいね」

明らかに誰かと―――あの初期刀と比べられた言葉なのだとすぐに分かった。彼女は俺がこんなにも近くにいるのにその瞳は俺をきちんと映してはいない。

「そうでしょうか。主を思えば当然です」
心に灯る嫉妬に消えろ、消えろと念じながら笑顔を見せてやれば主は安心したように俺に頭を預けた。

「歌仙も長谷部みたいに優しくしてくれればいいのに」

ぽつりと、まるで独り言のように呟かれたそれは俺の脳内に刻み込まれた。



主もやはりあの男に辟易としていたのだ!
優しくない、主を敬うこともないあんな男を傍に置いていたのはきっと本意ではなかったのだろう。もしかしたら脅されていたのかもしれない。
かわいそうな主、脅されていて直接俺に命じることはできないのかもしれませんが俺は「きちんと」貴女の言葉を聞き届けましたよ

だから安心してください。ね、主。




主が部屋に戻ってから、俺は歌仙兼定を探していた。厨にいないことに舌打ちをしてからもしかして主の元へ行ったのかと先ほどの縁側に足を進めれば、内番姿の歌仙兼定が主の部屋の方へ歩いているのが見えた。

歌仙兼定を認識してからの俺の行動は早かった。
練度はこちらが多少劣るとはいえ丸腰の相手など赤子の手をひねるようなものである。後ろから近づいて切りつけると「ぐあ、っ」と醜い声をあげた。

主の部屋が近いのに、なんて汚い声をあげるのだろうと、ざあざあと先ほどより雨脚が強くなった庭へ放り出す。さすがに一撃では瀕死にもならないか。

がくがくとしながらも起き上がろうとする体に蹴りをいれ、「主に優しく接しろ」と言葉を投げかける。「はい」か「いいえ」かそのどちらかの答えが聞ければそれで十分だった。
「…、そんなつもりはないね…だいたいきみはっ」
案の定、反抗的な瞳をしてほざく戯言を聞いたと同時に、できるだけ声を出させないように顔を踏みつけ、何度も刀を振り下ろせばあっというまに動かなくなった。もし起き上がっても刀を振れないように両腕を切り落としておけば、その姿はまるで芋虫のようで雅だなんだと小うるさく言っていた姿の面影はない。

「醜いな」

言葉を吐き捨てるが何も返事はない。まだいたぶってやりたいところだったが、新しい「優しい歌仙兼定」を用意するところまでが主命である。

倉庫に置いてあった歌仙兼定を一振り手にする。鍛刀部屋に行き、神気を送るとどうにか歌仙兼定の人型を現すことはできた。やはり主がいないと完全に降ろすことは不可能か、ならば早々に主のもとへこれを連れていき、主命を果たさなければならない。

主の部屋へ赴くがそこに気配はない。どこへ行ったのか、と気配を辿ればあろうことか庭に主がいるのだと分かった。血まみれのあれを見たら優しい主は泣いてしまうかもしれないな、どうせなら片付ければよかったか。そう思いながら庭へと進めば、案の定憔悴しきった顔で歌仙を抱く主の姿が目に映った。


主大丈夫です、歌仙兼定はここにいます、と安心するように笑顔を浮かべながら主に近づけば、主は何故か恐ろしいものを見たかのような顔で俺を見ているし、主の着物を汚すその男はギラギラと自分を睨みつけていた。

「まだ生きていたのか」と芋虫のように這うことしかできない男を見下してやれば「…貴様に殺されてやる、義理はないね」とその顔色に似合わない強気な発言をした。
最期まで腹立たしい男だ。とどめをさしてやろうと刀を抜けば主は歌仙を守るようにその体に覆いかぶさった。

何故、疑問符が俺の頭を埋め尽くしていく


「主、そのような死にぞこないは捨て置きましょう。どうです?主のために優しい歌仙を連れてきましたよ」

震えそうな声を抑えて必死に言葉を紡ぐが、主はちらりと廊下見たと思えばこう叫んだ。


「優しい歌仙って何なの?!私の歌仙はこの歌仙だけだよ!」


その声を聞いた瞬間、思考は完全に停止した。この醜く、今にも死にかけているこの男が唯一の歌仙兼定だと主は言うのだ。いつも主に尽くし、主のためだけを想ってきた俺にはそのような言葉今の今まで一度もくれたことがないというのに…!

主にとっての俺はまだ唯一のへし切長谷部ではなかったのですね

心が酷く萎えていく。俺は勘違いをしていたのだ、おこがましい、恥ずかしい。主命も違えてしまった。いらないと言われた歌仙兼定の首を落とすが、また彼女は驚いた顔をした。

また俺は主命を違えたのか、許しを請わないといけない。俺は唯一ではないのだから、すぐに捨てられてしまう。刀の血を拭きとり、しゃがみこんでいる主の前に立つが彼女は俺に優しい視線を投げかけることはない。化け物でも見たかのような蒼白な表情を浮かべているだけだ。

「主、主命を違えたことをお許しください」

頭を深々と下げるが主が発した言葉は非情だった。


「長谷部もういい…どこかへ行って」


許されなかった、捨てられてしまった、とそう認識すれば何故か笑みがこぼれ、初めて主を憎いと思った。
こんなにも貴女を想っている俺を忘れようとする彼女を許すことなどできるだろうか。

刀を持ち替え、自分の首筋に近づけると主は面白いぐらいに表情を変えた。

主、あなたをお慕いしています。だからこそ貴女にとっての唯一に俺はずっとなりたかった。主命を違えるような無能な俺ではあなたの唯一の刀にはなれませんでしたが、貴女の前で自刃した「へし切長谷部」はきっと貴女の生涯で俺一人ですよね?

首筋に刃を突き立てれば面白いぐらいに血が噴き出す。

呆然と見つめる主の瞳には、誰と比べるでもないただ一人俺だけが映っている。
幸せだ。主の脳裏に、心の臓にまでこの姿を刻み付けられるのだから。


主は、主の腕の中で目を見開くこの歌仙兼定がもし生きていたとしても、こいつの顔を見る度俺が死んだことを思い出すのだ。
この庭を見る度に、雨が降る度に俺の血を浴びた事を思い出すのだ。


俺は今、どんな「へし切長谷部」よりも幸せだ。そう実感して心の底からの笑みを浮かべる。


「どうです。俺は主命を果たしましたよ」

唇だけでそう告げれば、俺の人型はあっけなく崩れ落ちた。
この世界で一番憎くて愛おしい主。安心してください貴女の『へし切長谷部』はずっと貴女の心の中にいます。
最後に触れられた手が貴女で良かったと心底思いながら、意識を、永遠に光が差すことのない泥の中に沈めた―――




雨など止まなければいいと心底願いながら





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