「長谷部は可愛いね」

いつも俺に対しては眉を下げて困った顔を見せ、他の刀剣達に見せる花のような笑顔を向けたことのなかった主が、初めて微笑みながらこの言葉を下さった時、嬉しさを表すよりも先に「はあ?」と忠臣あるまじき声をあげた過去の自分を殴りたい。

俺の訝しげな声を聞くと主はすぐにはっとしたような顔をして、どこかへ足早に去ってしまったため訂正をすることも適わなかったが、あのような声が出てしまうのも仕方ないだろう。
『可愛い』という言葉が通常俺のような男に向けるべきものではないことはなんとなく分かる。主が去ってしまった後、もしかしてその言葉の意味の勘違いをしていたのかと辞書を引いてみたが、『幼いものや小さいものに対する愛着』だとか『近しい人、恋人などに感じる愛情』のような意味合いが掲載されている。前者は俺が人の形をとった年数から言えば赤子のようであるとは思うが、見た目は完全に成人男性のそれであるため絶対にありえないだろう。では後者は、と考えるがこちらも俺は主と決して親しいとは言えないし……ましてや恋人でもない。どちらも当てはまらないのなら、何故主は俺を『可愛い』などと評したのか。何度も何度も辞書を引き、見返すが答えなど出るはずもない。

ぼんやりと考え続けていればいつの間にか夕暮れを迎えていた。今日は当然出陣も内番も通常通りあったはずなのに、それらをしていた記憶がすっぽりと抜け落ちている。もしかすると俺は出陣をサボってしまったのか、とも考えたが右腕と左足の痛みにようやく気付き、なすべきことはしていたと安堵する。軽傷ではあるが、朝にはなかった傷があることから戦場には行っていたらしい。
手入れをした方が良いのだろうが、今主に会うことはなんとなく気が引けてしまい体が鉛のように重い。しかし、欠かしたことのない帰還の報告に行かなければ、優しい彼女は俺に何かあったのかもしれないと気を回すことだろう。主に余計な負担をかけるわけにはいかないと、ゆっくり立ち上がれば急に襖越しに声がかかった。

「…長谷部、いる?」

控えめだが、透き通る声に心臓がびくりと今までに聞いたことのない音を立てる。
傷があるのかと思ったが、内臓が損傷していればもっと切り裂くような痛みがあるはずだ。何故か震える声を抑えながら「はい、長谷部はここに」と返すと、安堵したような小さなため息が聞こえ、襖が開かれた。

「今日はまだ報告に来ていなかったから、心配したよ。傷の手入れもしなきゃね」

また俺に向けられる微笑みに頭の中は疑問符で溢れていく。今まで主は俺に微笑んで下さらなかったのに何故、と口内で小さく呟くが、そんな呟きなど聞こえるはずのない彼女は、優しく手を引きながら手入れ部屋へと俺を連れていった。


ぽん、ぽんと優しく触れる動作をじっと見つめるが主と視線は合わない。
いつもなら手入れ札を使って一瞬で終わらせてしまうのに何故今日は丁寧に手入れをして下さるのですか、何故俺を可愛いと言ったのですか、何故、何故。
聞きたいことがたくさんあるのに一つも言葉にはならず、俺の口から出るのは今日の戦況報告だけだ。…やはり、場を和ませる小話もできずにただ淡々と仏頂面で話し続ける男のどこが『可愛い』のだろうか。もしかして主が言葉の意味を違えているのか―――

「ふふ」

一通り戦況を伝え終わり、沈黙が訪れた部屋の中で可愛らしい声が耳をくすぐった。

「…主、どうかしましたか」
本当に今日の主はおかしなことだらけだ。一つ考えられるとすれば食べ物に当たったのかもしれない、だとすれば早々に食事当番をしていた光忠の手打ちに向かわなければ。
もう手入れは終了間近である。すぐに行こう、と立ち上がろうとした時だ。

俺の右手は主の白い手によって掴まれ、その場から離れることは適わなかった。
右手が熱い、と感じるよりも先にどうしてか顔に熱が集まるのを感じている。加えて汗が額に滲んでいるのだから本当に訳が分からない。心臓がまた嫌な音を立てているのを聞いて、いよいよ俺の体は爆発してしまうのではないかという錯覚に陥る。
爆発に巻き込まないためにも、主から早く離れなくては、ぐるぐると様々な思考が飛び交う脳内は「長谷部のこともっと知りたいの」という主の言葉によって一瞬にして停止した。

恐る恐る主の顔を見れば、頬に先ほどはなかった桜色が乗っており、少し汗ばんだような掌の感触から俺と同じ症状が出ているのだと分かった。
すとん、と主の前に座り直し正面から彼女を見据えると、黒い瞳が俺を一直線に見つめていることに気づいて、目が逸らせない。柔らかい雰囲気の中主に対して想う、むずむずとせり上がってくる感情に名前を付けるならそれは―――――『可愛い』


主と俺の気持ちが同じであると理解してしまえば、心も頭もどちらもごちゃごちゃとしていたのがすっきりとした。
そう、主と俺は恋人なのだ、とそう確信する以外に思うことはなかった。
赤らめる頬、優しい笑み、『可愛い』と評する言葉、全てが恋人に対するものであるというのなら全て合点がいく。主が俺にそうしてくれたように、俺も主に同じ気持ちを抱いて同じ行動を返せば、それはあるべき恋人の姿だろう。

彼女の瞳をじっと見つめて、今度は俺からも手を握り返すと彼女は一層嬉しそうな顔をしており、その表情を見ていると胸に浮かんでくる気持ちは『可愛い』『愛おしい』それしかない。
俺は自分にできる限りの笑みを浮かべ、「長谷部のことをもっと知りたい」という彼女の要望に応えるべく、前の主の話から始めた――――





「長谷部くん、最近主と仲が良くて羨ましいよ」

鍋をかき混ぜながらも、ちょっと嫉妬しちゃうなあ、と軽口を叩く光忠に「まあな」と包丁を動かす手を止めずに答える。主と俺は恋人なのだから仲が良いのは当然である。
隣でごちゃごちゃと話し続ける言葉を軽く流していると、ふと主は俺を閨に呼ばないのだろうかと疑問が生じた。あまり思い出したくはないが、前の主が所謂恋人であろう者を呼んでそういった行為にふけっていたことから、人が恋人とどのように夜を過ごすのかを俺は知っている。
そこで俺はとんでもない過ちに気づいたのだ。主は女性であり閨に自分から男を呼びいれることはしないのでは、と。そうすれば、男である俺が主の部屋へ赴くことが当然である。俺が気づかないせいで、幾夜も寂しく彼女が過ごしたのであればそれを謝罪しなければならない。今夜皆が寝静まる頃に部屋へ向かおう、主が待っている、そう決意すれば思わず包丁を握る手に力が入ったらしく、手元で嫌な音をたてた。「ちょっと長谷部くん!包丁壊さないでよ?!」と光忠が五月蠅く喚くが、もう俺の耳には入らなかった。



夜更け、体を念入りに清めてから主の自室がある方へと歩いていると、わずかに零れる光が目に入る。まだ仕事をしているなど体に悪い、こんな夜更けに部屋を訪れている自分のことなど棚に上げ彼女を諌めようと障子に手をかけようとした時だ。


「―――――――――清光は世界一可愛いよ」


鈴のような声と共に、彼女の初期刀の嬉しそうな声が鼓膜にへばりついた。
真っ暗になった視界に思わず彼女の部屋の前からすぐに飛び退き、元来た道を気づかれないように早足で進む。耳に残る違和感に頭を掻き毟るが「世界一可愛い」という言葉だけがいつまでも頭の中から離れてくれない。消えろ消えろと願いながらゴツ、と柱に頭を打ち付ける。

大丈夫だ、彼女の初期刀があのような言葉を求めるのはいつものことだ。

ゴツ、もう一度頭を打ち付ける。
先ほどより鈍い音がするが気にもならない。
大丈夫だ、彼女は俺が好きで、恋人で、…嘘を吐かない。

また頭を打ち付ける。ぬるぬるとした感触が額から顔をつたって首筋にまで流れ落ちる。今日わざわざ体を清めたのは何のためだったのか、思い出せない。

「長谷部は可愛いね」と主が言った言葉が何度も何度も何度も頭の中で繰り返される。次第に呼吸が落ち着き、視界がクリアになったと思えばそれに反比例するように脳内は黒く染まっていった。
そんな頭で考えつく彼女にとっての一番になるための方法はたった一つ。

通常の俺ならば考えもしないだろう行為に、やめろという声がいくつも頭の中で反芻して気が狂いそうになる。しかし、そんな喧しい脳内で、救世主かのように囁くたった一つの声は――――彼女と同じ声をしていた。

『殺せ』

無言で自室に戻り、抜き身の刀を利き手に握る。
これから向かうべき場所は、すべきことは、もうとっくに決まっていた。






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