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「…―――っは、はぁ、…ッ、…は、」

重力に逆らわず降り続けて、全ての衝撃を受け止めていた足が熱く重くなり始めた。
それでもかまわず、おれはひたすら階段を降りつづけた。時々数段上から飛び降りて足がじんじん痺れようが、呼吸困難寸前で肺のあたりが痛もうが、かまわなかった。

エース。エース。行くな。待って。祈るようにただひたすらそれだけを頭の中で繰り返す。
手のひらの中に大切な指輪を握りしめて、おれは走った。
一度背中を押されたら、もう止まりそうになかった。想いがあふれて止まらない。坂道を転げ落ちるように、気持ちは加速するばかりだった。
向かう先は、たったひとり。

(エース、エース、エース!!)

おれは、今になって気付いた。自分が甘えていただけだってこと。
大好きなサボ。大好きな大好きなエース。大好きで大切なふたりを天秤にかけるのが嫌で、目の前の現実から目を逸らして、このままずっと変わらずにいられる方法はないのかなんて、ありもしない可能性ばかりを無駄に探し続けて逃げていた。

だけど、もう逃げない。
サボが背中を押してくれた。どこにいても大丈夫だって言ってくれた。
エースが待ってるって言ってくれた。あんな風に想ってくれるひとが、ほかにいるわけがない。

これ以上逃げ続けて、ふたりの気持ちを、覚悟を踏みにじるようなことをしたら、おれはもう二度とおれ自身を許せない。そう思った。

サボが気付かせてくれた、ホントの気持ち。おれの胸ん中の、深い深い真ん中のところに、あったかくうずくまって隠れていた気持ち。
エースのそばにいたい。エースと生きたい。
これがすべてだった。はじめから、これが全てだったのに。

(…――エース…!!)

おれはまだ、なにひとつ大事なことを言えてない。何も伝えていない。
もう迷わないから、甘えも迷いもためらいも、なにもかも全て捨てて行くから、だから、

「……ッ、…エース…!!」

階段を降り切ってエレベーターホールに出た。見渡してもエースはいない。息が尋常じゃなく荒いのは自覚していたが、足を緩めずにそのまま走る。
帰り際らしいいつもの警備のおっちゃんが、階段から飛び出してきたおれを驚いて見ていたが、立ち止まって事情を説明している余裕はなかった。

「…おい兄ちゃん、」
「おっちゃんごめんな、お疲れさん!」

自動ドアの反応速度さえもどかしくて、開ききらないところをこじ開けるように外に飛び出した。
暗い駐車場。街灯のささやかな明かりを頼りに必死で目を凝らすけど、求める姿が見当たらない。バイクもない。

すう、と血の気が引く。激しく上がる息と体温とは逆に、心臓が金属みたいな冷たさで縮み上がった。
間に合わなかったのか。嘘だ。嫌だ。そんなのいやだ。
じわ、と目頭が熱くなった、その時。

「―――兄ちゃん!!」
「……!?」

涙目で振り返った先には、少し息を荒げて、おれを追いかけて出てきてくれたらしい、警備のおっちゃんの姿。

「裏の公園だ!」
「…え…?」
「白ひげの兄さんだろう?歩いてきたようだったから、裏の公園を通って帰ったかもしれん!さっきまで私と話していたからまだいるはずだ!」

「行きなさい!まだ間に合う!!」

どくん、とひとつ心臓が大きく鳴った。

「おっちゃんありがとう!!」

もう半分泣き声みたいな情けない声でお礼を言って、おれはもう一度走り出した。
駐車場を通り抜けてマンションの裏へ回り込む。表より数の減った街灯に、木々の緑が透けるように照らされる。
初めてエースに興味をもった、あの時の階段。あのときエースが軽々と上って行った階段を、おれは必死で駆け上がった。

揺れる視界。涙でぼやける景色。それでも、おれの目は求めた背中を瞬時に捉えた。
遠ざかっていく街灯の下の広い背中に向かって、おれは荒い息の下から声を振り絞った。
届け。届け。エースに届け。

「…――――エース!!」

振り返ったエースの姿が、スローモーションで見えた。


******


ルフィ、とつぶやいた声は、我ながら笑えるくらいに掠れて震えていたが、おれもあいつも、そんなことにかまいやしなかった。
肩を上下に大きく揺らして、涙を夜の明かりにきらきら光らせて、夢のような存在感でルフィはそこに立っていた。

一歩、ルフィがおれに向かって踏み出した。
また一歩、二歩。

すぐに加速したそれにつられるように、おれも数歩前に出て、半分反射で両手を広げた。
どん、とまっすぐにぬくもりの塊が胸の中に飛び込んでくる。
あまりに久しい、ぎゅう、と遠慮なく腹に巻きつく細い腕の感触。華奢なからだの、背中のジャケットを握りしめる手の、胸に押し付けられる小さな頭の感触。
懐かしくすらあるその愛しいささやかな束縛に、血が逆流して目眩がする。

抱きしめていいのか。応えていいのか。抱き返したら、この腕に力を込めたら、途端にコイツはするりと溶けて消えてしまうんじゃないか。

「エース…!」

腕の中でルフィが顔を上げた。おれが馬鹿げた想像に戸惑って反応できずにいるのにも構わず、ルフィは腕一本分の距離を離れた。きらきら揺れる瞳でおれを見上げて、握った右手を突き出した。
その意図がわからないまま、おれはゆるゆると手のひらを受けるように開いて差し出した。
する、と開かれたきれいな手から、ぽとりと落ちたものがひとつ。

さっき渡したはずの、指輪。

(……―――まさか、)

突き返されるのか。心臓が冷たくざらりと波立った、その時。

「――――つけて。」

え、と聞き返した先のルフィは、溢れる寸前まで涙をためて、それでも強い意志を秘めた艶やかな瞳でおれをみつめていた。今までと同じように。いや、今までよりずっと強く、まっすぐに。
左手を、ゆっくりと持ち上げておれに差し出す。
なあ、おい、お前、その意味わかって言ってるのか。

「……エースが、着けて。ちゃんと。指輪。」

お願いだ。
懇願するような声音に、おそるおそる手を持ち上げる。
かすかに震えて強張る手を必死でほどいて、小さなそれを手に取った。男にしては華奢な、きれいなルフィの手を取って、指先で指先を支えるように持ち上げる。薬指の先に、ゆっくりと、輪を通す。ルフィの眼が、それを食い入るように見つめているのがわかる。

「……、」

浅く上ずったような呼吸をしたのはどちらだったか。
貝殻みたいな爪を滑り、関節をゆっくり通り過ぎ、おれの指が、ルフィの薬指の深いところに、あの指輪を嵌めた。夢のような、現実離れしたその光景を、おれは何も考えられずにただただ網膜に焼き付け記憶した。
細い銀色の輝きを載せた左手を、ルフィがゆっくりと持ち上げてまじまじと見つめた。

そのまま、右手でその手を握りしめ、うつむいて小さく震えだした。
どんな宝石もかなわない光の粒が、ひとつ、またひとつと落ちていく。

おれは一生、このうつくしい光景を忘れないだろう。

「……ッ、おれ、まだ全然子供だし、…っこんな、弱くて、なんにも持ってなくて」

「家事も、料理も、なんにもできねえし…!…ッ!エースに、迷惑、ばっかり、かけるけど、」
「―――ルフィ、」

涙に濡れた頬に触れる。は、と上げた顔は、あの時の、胸をえぐられるようなかなしい泣き顔じゃない。
なあ、そんなのどうだっていい。今はただ、なあ、ルフィ。

「……ルフィ、」

笑ってくれよ。

「…おれの、家族に、なってくれるか…?」

一瞬だけ目を見張ったルフィは次の瞬間、ひどくうれしそうにふわりと微笑んだ。
無理に感情を堪えていた笑顔はやっぱりもろくて、溢れ出した涙のせいで、それが見られたのはたった一瞬だったけど。

「……っ…!」

唇を噛んで顔を伏せたルフィ。
とん、とおれの胸に、静かに額を当てて寄りかかる。
ありがと、エース。声にならない声で、ルフィは言った。

遠く響く電車の音。街灯に揺れる透明な緑。暗い夜空に淡く浮かぶ、マンションのあかり。
遥かに透き通るような風が、ルフィの髪を揺らす。
五月の風。澄んだ風。ルフィが生まれた日の、風。

ゆるりと、手を繋ぐ。

「……よろしく、おねがいします…。」




この時の感情に、名前はきっとつけられない。
言葉は意味をなくした。知識も理性も過去でさえも、全てが歓喜に敗北した。
ただただこのひとつのキスに愛情をぶち込みながら、おれはルフィを抱き締めた。手のひらに収まる頭を上半身ごと抱え込んで、息も止めるほどに抱きしめて、ただキスをした。

絶叫したいほどの愛情を一滴も残らずルフィに伝える方法が、それしかなかった。

角度を変えるごとに、合わせた唇の隙間から、ルフィが言う。
吐息に涙を混ぜた声で、ありがとう、ありがとうと、何度も何度も囁いた。
その声が、眼の奥から何か熱いものを誘い出した。

自分が泣いていることにも気付かずに、おれはルフィにキスをした。
ありがとう。そんなのおれの台詞だ。そうは思えどついに言葉は一言も出やしなくて、せめてもの代わりに抱き締める腕に力を込める。
塩辛く甘いキス。一体どちらの涙だったろう。

まあ、でも、どうせならルフィに貰ったこれからの時間をすべて懸けて、この愛情を伝えて行くのもいい。あいにくこのひとつのキスじゃ、こんな爆発しそうな愛しさは伝わりそうもない。
なあ、だって、ルフィ。傍にいてくれるんだろ。これから、ずっと。

答えの代わりに、背中に縋るルフィの指に力が籠った。
その薬指が、返事をするように一瞬光ったのを、おれは見ることができなかったけれど。


だけど、眼の奥に焼き付いた、ルフィの指を廻る光の輪を脳裏に浮かべながら、おれは宝石も何もついていないそれにしたことに安堵した。
だってそうだろう。

キスの合間に、しあわせそうにくしゃりと笑ったルフィの涙。
きらりと光って消えたそれ以上に、綺麗なものなんかない。










(鐘を。)

大切なあの子へ、大切なふたりへ、全力の愛情を込めて。
幸せになれ。

しあわせに、なれ。


Happy birthday dear Luffy,
happy birthday to you.


20120521.Joe H.
金環日食の日に合わせたのだということでひとつ