※「ラバーピンポンラバーズ」を先にお読みください。
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カチ、と音を立てて時計の長針が真上を指した。
誕生日も残すところあと数時間。
最悪の誕生日。早く終われ。呪うように時計を見つめて、おれは祈った。
(…―――エース…。ごめんな…。)
あの日から、もう何十回も何百回も繰り返したのに、直接彼の眼を見て言えたことは一度もない、その台詞。
今日も、自分のベッドにうずくまったまま頭の中で繰り返す。
エース。声には出さず名前を呼ぶだけで、飽きもせず次の涙が瞼の裏に滲み出す。
抱き締めてほしいなんて、死んでも言えない。
今日の日付に変わると同時に、携帯を鳴らしたメール。それに、おれは返事を返すことができずにいた。
ルフィ。誕生日おめでとう。
会いたい。直接会って言いたい。返事くれ。
エースがあんなにかなしい顔するのを初めてみた。怒りも悲しみも寂しさも戸惑いも全部ひっくるめて、全身でおれに行くなって言ってくれた。あんなにエースを傷付けたのはおれなのに、なんでこんな優しいメール打てるんだろう。そう思った。
心臓が握りつぶされるように痛んで、そこから絞り出された涙がじわりと滲んで溢れだした。
まだ答えも出せないままうじうじ悩んでる最悪のおれ。一体どんな顔して会えっていうんだ。返事なんかできなかった。
そんな資格なんか、ない。
そのあとも、エースからメールや電話の着信が何度もあった。一度も出られずに、おれはついに電源を切った。
一度だけ出たのは、ナミからの電話だった。
『……生きてたわね。とりあえず一安心だわ。最悪の誕生日おめでとう、ルフィ。』
「………ほんと、いい性格してんなお前…。」
『どうも。』
変に気を遣わない、歯に衣着せない物言いに、少しだけ気持ちが楽になった。久しぶりにちょっとだけ笑えた。何も話していないはずなのに、なんでおれが落ちてるってわかるんだろう。
『……エースさんと、なんかあったのね。』
「……。」
『……あんたが何日も練習来ないから、みんな心配してる。ひとりで考えるの苦手なあんたが何にも言わないなら、誰にも言えないことなんでしょうし、私も無理に話聞こうとは思ってないわ。』
その通りだった。
サボについていくということは、ナミやゾロ、サンジ、ウソップ、みんなと離れることだった。なのに、おれはそれに気がつくまで、色んな事がいっぺんに起こりすぎて、遠ざかって行ったエースの背中ばっかりが頭をよぎって、いっぱいいっぱいだった。
それが後ろめたくて申し訳なくて、おれはみんなとも顔を合わせられずにいた。
なにより、こんな情けない顔、誰にも見せたくなかった。
『だけどねルフィ。私前も言ったわよね。らしくないのよって。いいから言いたいこと言いなさいって。』
「……。」
『あんたの望むようにしなさい、ルフィ。あんた、無茶はしても間違ったことは絶対しないもの。私も、ゾロもサンジくんもウソップも、それだけはあんたを信じてる。』
「……、」
『好きなものは好きって言いなさい。傍にいたいならいればいい。――そういうあんたが、私は好きよ。』
ナミのやわらかい声。まっすぐなことば。それがどうしようもなく、泣けた。
『……誕生日おめでとう、ルフィ。私達がいること、忘れないで。』
サンキュ、と必死で平静を装った声が、それでも潤んで震えていたことなんか、きっとナミには気付かれていたんだろう。
(…――情けな…。)
ベッドにうつぶせて寝転んだまま、指先で携帯を転がす。
真っ暗な部屋の中で、携帯は当然のことながら沈黙したままだ。
サボがせっかく時間をかけて作ってくれた料理も、買ってきてくれたワンホールのケーキも、おいしかったのに嬉しかったのに、いつもみたいに全部平らげることができなかった。
ここのところまともに食べていなかったせいで、食べることを忘れてしまったみたいだった。
今までこんな経験なかったから、食べることにもエネルギーは必要なんだって、おれは初めて知った。
サボにも申し訳なくて、真正面から顔を見ることができなかった。
誕生日おめでとう、ルフィ。そういって、眼を合わせられないおれをやわらかく抱きしめてくれた。
やさしいサボのにおい。あったかい腕の中。
どれもこれも大好きなのに、エースの面影を重ねている自分に吐き気がした。
(……会えない。無理だ。)
もういっそこのまま彼の前から消えてしまおうか。そんなことまで考える。
エースなら大丈夫。彼は強い。周りにたくさんの仲間もいる。きっと、隣で彼を支えてくれるひともすぐにみつかるだろう。おれよりずっと、やさしくやわらかく。
ナミはああ言ったけど、もうおれは自分がわからなかった。
自分がどうしたいのか。どうするべきなのか。誰か教えてくれるならそうしてほしかった。
答えなんか、どこにもないことは解っていたけれど。
ますます自分が情けなくて、嫌いで嫌いで大嫌いで、おれはベッドの上で出来る限り小さくうずくまった。
このまま縮んで縮んで消えてしまえばいい。そんなことを思いながら。
そのとき、こんな夜更けには珍しい、ピンポン、という聞きなれた音が響いた。
「…――ルフィー!ごめん、おれいま手離せねえんだ!出てくれるか!」
「…!おう!」
正直めんどくさかったし誰にも会いたくなかったけど、洗いものをしてくれてるサボに悪いと思ったし、どうせ隣のおばちゃんが回覧板かなんか持って来たんだろうと思ったから、おれは重い身体をだるく起こして部屋を出た。
廊下を通ってリビングに入り、インターフォンをろくに見もせず通話ボタンを押す。がっしりした肩が男のもので、あ、隣のおばちゃんじゃない、と思った時、
『――こんばんは。宅配便です。』
少し遠慮気味の笑顔に、呼吸が止まった。
******
「……よ。ごめんな、急に。」
「………んーん。」
玄関の扉の隙間から、数日ぶりにルフィの顔を見る。
戸惑いにゆらゆら揺れる大きな眼。少し生気に欠ける表情。こんな顔をさせてるのが自分だと思うとやるせなかった。
顔も見たくないといわれてもおかしくない事をした自覚はあった。
会いたくないと面と向かって言われる覚悟もしてきた。
それでも情けないことに声が少し震えそうだったから、わざとおどけた台詞を被せた。多少自然さに欠けた自覚はあったが、どうやら誤魔化すことには成功したらしい。もっとも、ルフィの方もそれどころじゃないだけだったかもしれないが。
「……――お、エース来たか」
「……?」
「よう。」
怪訝な顔でルフィがゆっくり振り向いた先には、洗いものをしていたのだろう、まくった袖を直しながら廊下に出てきたサボの姿があった。
「ごめんなルフィ、ビックリしたろ。おれが呼んだんだ。兄ちゃんうっかりエースの部屋に忘れ物してさ」
いやいやどうしても今日中に必要だったから助かったよ悪いなあ、なんていけしゃあしゃあと言ってのけるサボに、苦笑しながら鞄から取り出した文庫本を渡す。
なんのこたあない。昨日コイツがわざとおれの部屋に置いてった適当な推理小説なわけだけど、さすがのルフィにも薄々感づかれたかな。
「ご苦労さん、あがってけよエース」
「……いや、もう遅いし、少し話したらすぐ帰るわ。」
「そうか?そんならいいけど」
そのまま不自然なくらいあっさりと背を向けて、サボはリビングに消えて行った。
ルフィが助けを求めるようにその背中を見つめていたのには、気付かないふりで。
「……ルフィ。」
「…!……、な、んだ…?」
おれの呼びかけに、ルフィは弾かれたように振り向いた。緊張感を隠せないその顔色に、今更ながら自分のしたことの残酷さと浅はかさを思い知る。覚悟はしていたはずなのに、それすらたちまち土台から歪む。
「…――おれが怖いか、ルフィ。」
「……、」
ぱち、と薄い瞼が瞬いた。
その少しだけ線が鋭くなった頬に、恐る恐る手を伸ばす。指先だけで触れた頬は、切ないくらいにやわらかい。
できる限り控えめにその輪郭を辿りながら、自嘲を込めて呟いた。怖いよな、そりゃそうだよな。
「……あんまり食べてないって聞いた。ちゃんと、寝れてもいないんだろ」
「…。」
「…――おれの、せいだよな。」
「…っ、ちがう、エース、おれが、」
「ごめんルフィ。謝る資格もねえような事したのはわかってる。それでも、」
「ちがう!エースは何にも悪くねえ!」
おれの手を振り切るようにかぶりを振ったルフィが、宙に浮いたままだったおれの右手を取って握り締めた。
「……おれ、おれが、何にも決めらんねえから。何も選べなくて、エースに悲しい思いさせて、こんなんじゃ合わせる顔なくて、…メールも、電話も、全部、…全部…!!」
ごめん。
耐えきれなかった涙を隠すように俯いて、ルフィが絞り出すように言った。
ぱたりぱたりと、大粒の涙がフローリングの床に落ちて行く。おれの手を握り締めたままの両手が切なく震えるのが、どうしようもなくやるせなかった。
「……ルフィ」
「……っ」
「…ルフィ、おれのこと、怖い訳じゃねえんだな…?」
「…!」
「避けてた訳じゃ、ねえんだな…?」
「…!!」
顔は上げないまま、それでもハッキリ首が縦に振られた。
この部屋の玄関。靴を履いたままのおれ。眼の前で泣いているルフィ。
「ルフィ」
「……?」
「……抱き締めても、いいか…?」
は、と息をのんでルフィが顔を上げた。
見開かれた大きな眼。一瞬だけ止まったかと思えたのに、眉根をきつく寄せたかと思った途端、新しい涙が湧くように溢れだしたのが見えた。
そのままルフィが胸に飛び込んできたせいで、それが見えたのは一瞬だったけど。
「ルフィ」
「……ッ」
「…ルフィ、ごめん。ごめんな…!!」
会いたかった。
胸の中で声も出せずにただただかぶりを振るルフィを、おれも泣きたいのを堪えてひたすら抱きしめた。
やっと触れることができた。その喜びと安心感。
そして、このあとに待ちかまえる決断。その覚悟と、切なさ。
あの時と同じだ。ここから全てが始まった。
あの時とはもう色んなものが変わっちまったけど、全てが始まったこの場所で、おれはもう一度ルフィと向き合いたかった。どんな形になるにせよ、ここから、もう一度。
「……―――ルフィ。そのまま、ちょっとだけ聴いてくれな。」
「……?」
「おれな、サボから聞いたよ。お前と、サボのこと。」
サボの名前を出した途端、少しだけルフィの肩が強張った。きっと、おれがこの前投げつけた言葉のせいだろう。いいがかりもいいところだと、今なら痛いくらいにわかるのに。
「―――ごめん。おれ、お前とサボ、二人とも侮辱する事言った。なんでおれを選んでくれねえんだって、ガキみたいなこと考えて。……お前を傷付けるために、あんな、最低な事言った。」
「…エース、」
「ごめん、ルフィ。おれ、本当にわかんなくて。家族とか、…兄弟とか。」
「…だけどな、」
赦してもらえなくてもいい。だけどせめて、この愛しさのほんの1ミリでも、腕の中のこいつに伝わりますように。
そう願って、腕の力を強めて、サラサラの黒髪に頬を押し当てた。
「…サボと、お前がどんなふうに生きてきたか、ほんの少しだけど、わかった気がすんだ。」
ただ守られるだけでも、守るだけでもない。
隣で、ただ隣でお互いを見つめて笑いあえる。そのぬくもりが、てのひらの感触が伝わる距離で。
「お前が、サボが、お互いをどんなに大切に思ってるか、わかった気がすんだ。」
ルフィはもう何も言わない。
何も言わずに、おれの腕の中で耳を傾けてくれている。それがわかった。
「そんでな、おれ考えたんだ。……おれにとっての家族って、なんだろうって」
ごく、と唾液を飲み込んだ。
思ったより大きな音がした気がする。ルフィに聞こえちまったかな。
「…おれにとって、家族とおんなじ位、大事な奴って考えたら、さ。……やっぱ、お前しかいねえんだわ。」
腕の中で、ルフィが顔を上げた。
エース、とささやくように呼びかける。
ゆっくりと身体を離した。細い肩に手をかけて、向き合う。真正面から。
どうあっても変わらない、黒々と艶やかな、透き通るような瞳。このきれいな眼に、おれは惚れた。
「…お前が好きだ。ルフィ。誰よりも自由で、自分の大切なもの全力で大事にできるお前が好きだ。」
「……ほんとは、力ずくで攫って囲ってやりてえけど。お前がいなくなるって考えただけで、死にたくなるくらい辛ぇけど。…でも、お前が泣きながら、あのお前が泣いて泣いてこんなになるくらい悩んで考えてくれたから、それだけですげえ幸せなことじゃねえかって、そう思えるようになったよ。」
「お前はお前の好きなようにすればいい。お前の決めた事なら、おれはもう何も言わねえから。お前が自分の望む場所で生きていくなら、それでいい。おれ、待ってるから。いつかお前から望んでもらえるくらい、いい男になって待ってるからよ。」
「―――だけど、ごめんなルフィ。最後の悪あがきさせてくれ。」
もう声もなく、おれをただただ見上げて立ちすくむルフィにひとつだけ笑いかけて、おれは手を離した。
ジャケットのポケットから、黒いベルベット生地の小さな袋を取りだす。
震えそうな手を必死で押しとどめて、しゃら、と微かな音がするそれを、ゆっくり開ける。
指に触れる、冷たい感触。
引きちぎってしまえそうな、細い細い華奢な鎖。
頼りない留め金を両手の指先でつまみ、ルフィのすんなりと細い首筋に回す。
最後にひとつ、銀色に光るそれに指先で触れて、離れた。
この手はこんなにも震えるけど、でも何でだろう。
今は、こんなにも穏やかな気持ちでこいつに笑いかけることができる。
「――――間に合ってよかった。誕生日おめでとう、ルフィ。」
呆然としたままのルフィの胸元に、チェーンに通した指輪がひとつ、揺れた。
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