※亜城さんのリクで、「ピンポンエールでどちらかの浮気疑惑→喧嘩→仲直り」です。
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―――そしてそれは、あまりにも突然だった。
「…――!おっと」
突如鳴り響いた電子音に、おれはカップ麺を口に運ぼうとしていた箸を止めた。仕事上がりの夜遅い時間。可能性としてはルフィだが、この着信音はルフィのものじゃない。
(……だれだ、サッチか?)
またいきなりの合コンの誘いじゃねえだろうな、このままシカトしようか、などと薄情丸出しのことを考えながら腰を上げたおれは、無造作に布団の上に放り出した携帯を手に取った。
今思えば、そのまま何気なく開いたその瞬間が、全ての始まりだったのだが、この時のおれには知る由もない訳で。
「……―――!」
そこに表示されていたのは、付き合って2週間で指輪を要求され、一番最近に別れた年上の元彼女の名前だった。
「…………はい、」
『……――あ、エース?いきなりごめんね、今大丈夫?』
『…あー、うん、それは大丈夫ですけど、……どうしたんすか」
『何よ敬語なんか使って。』
「……いや、一応お客さんだし…。」
『やめてよ、別に担当って訳じゃないんでしょ?……ね、今度会えない?』
「…………は?」
誰もいなかったからよかったけど、いたらおれは口をぽかんと開けたままの間抜け面を晒すことになっただろう。だが無粋とか鈍感とかどう罵られようと、それくらい、彼女の言い出したことの意味がおれにはまったくわからなかったのだ。
「…――ご用件は?」
『なーにそれ、冷たくない?会いたくなっただけじゃだめ?』
――いやいやいや。何を言ってるんだこの人。
結婚する気なんか1ミリもないことを散々思い知って別れた男相手に。つかラーメン伸びる。
とっくの昔に向こうに彼氏がいることは、風のうわさで、というか、サッチという女の子のいるところにだけ吹き込む風が運んできた情報で知っていた。ていうかおれがルフィとこうなるよりかなり早かったはずだ。どうせ喧嘩して腹いせにおれを使おうとしたとかそんなとこだろう、お役に立てなくてすんません、とかひねくれたことを考えていたおれは、とにかくもう目の前のカップ麺を、ふやけてしまう前にかきこんでしまいたかったのだ。
「……すみません、おれ最近忙しくて時間取れないんで」
『じゃああたしが行くから。』
「…どこに」
『お家に』
おれの?―――いやいやいやいや。
「それは無理」
『あ、やっと敬語取れた』
話を聞いてくれ。
「――家は無理。ていうかせっかく誘ってもらって悪いけど、おれもう会う気はないから」
『ねえエース、ハッキリ言うわ。やり直しましょう。』
さっきまでのどこか軽い調子が消えた。
このまま切るか。それもできた。でも、今のおれは、人を傷つけてないがしろにしてばかりだったあの頃のおれじゃない。わりと気に入っている今の自分を、そしてそれを愛してくれているルフィを、おれは裏切りたくなかった。
おれは、右手に持ったままだった箸を、ゆっくりカップ麺の上に置いた。
『ごめんなさい。私が焦りすぎたのがいけなかったの。もう一度チャンスを頂戴、エース。私やっぱりあなたしかいない。ほかの人と付き合ってやっとわかったの。だから、』
「――――ほんとにゴメン。会えない。やり直す気もない。」
『ねえエース、お願い、私、』
「大事な奴が、いるんだ。」
間髪入れず巻き返していた彼女の呼吸が、止まった。
「―――本当に、大事な、子なんだ。そいつを悲しませたくないから。大事にしたいから、…だから、やり直すことは、できない。」
『……。』
「だから、ゴメン。」
返事はない。
「ホントにごめん。…もう一度、おれじゃなくて、彼氏とちゃんと話してみた方がいいと思う。余計なお世話だと、思うけど。」
『……。』
「じゃあ、切るな。……元気で。」
半呼吸ほど待ってみたが、待って、と彼女が呼び止める気配はなかった。おれは、そのまま静かに通話を切った。
もうふやけてべちゃべちゃになってしまったカップ麺を無理矢理胃に流し込んだあと、おれはルフィに電話をかけた。ルフィの声が聞きたくて、そして、どうしても言いたいことがあったから。
ルフィ、大好きだからな。そういうと、ルフィはくすぐったそうにくすくす笑った。
どうしたんだよ、変なの、と言っていたけど、無意識に過去の自分の情けなさにほんのりダメージを受けていたおれの、自分でも気付かないような微かなマイナスの気配に気付いてくれたのだろう。ふんわりやわらかい声で包み込むように、おれもだいすきだぞ、エース。そう言ってくれた。
それで終わりのはずだった。
はずだったのに。
「――――来ちゃった。」
玄関を開けたその向こうに立っている彼女を見て、おれは完全に固まった。
「―――――な、んで、」
「何よその顔。ひどい男ね。貸したCD、返してもらいに来たの。」
「……言ってくれたら、送ったのに」
「忘れ物くらい取りに来させてよ。――ついでに、最後に少し話したいの。上がっていい?」
まだ店も開いている時間帯とは言え、もうとっくに日は落ちている。相変わらず女性らしいパステルカラーの服に身を包んだ無防備な姿を見て、おれは溜息をついた。
「――どうぞ。散らかってるけど。」
「ありがとう。」
「………CD、テレビ台の下に、多分そのまま入ってるから」
ええ、と軽く返事をして、数回来ただけのはずのおれの部屋を、まるで勝手知ったるといったふうに歩いていく彼女の背中を見て、おれはまたひとつ溜息を吐いた。予定ではあと数十分もすれば、フットサルの練習帰りのルフィがやってくるはずだった。彼女をルフィに会わせる訳にはいかない。おれはパーカーのポケットから携帯を取り出して、そのまま廊下で電話をかけた。
3コール。4コール目。
『…―――はいもしもし!エース?』
「お疲れルフィ。今どこ?」
『今練習終わって、体育館出るとこ!どした?何かあったか?』
「…あー、いや、ちょっと突然客が来ちまって。悪いんだけど、少し駅らへんのどっかで時間つぶしててくれねえ?あとで迎えに行くから。」
『そうか!うんいいぞ!だいじょぶなったらまた電話くれ!』
「さんきゅ。またあとでな。」
どうかしたかー?という友人の声に答えるルフィの声が遠く聞こえて、通話は切れた。パクン、と携帯をしめて、軽くもう一つ溜息。これで最悪の事態は免れたはずだ、と安堵したその時だった。
「―――ねえ、」
「…! 何?」
「今の、こないだ言ってた『大事な子』?」
「……うん。そうだけど」
いつの間にか、ちょうどふすまの辺りにもたれて、彼女が廊下に立ったままのおれを見ていた。ふーん、と興味なさそうにつぶやくと、そのままぐるりと視線をめぐらして部屋の中を見た。
小さな食器棚に収められた、オレンジ色と赤色のペアカップ。流しに置かれたままの、2膳の箸と2組の食器。タオルハンガーにかけられた、2枚のバスタオル。それらを見つめながら、彼女は無表情のまま口を開いた。
「……大事に、してんのね。」
「…―――うん。」
「私の事なんか、頼まなきゃ部屋にも連れてきてくれなかったくせに。ひどい男。」
「……。」
ごめんすらいえない。それは正当な詰りだった。おれが甘んじて受けるべき批難だった。
「―――はじめからわかってた。あなた、大して私の事すきじゃなかったものね。」
「……。」
「帰るわ。突然ごめんなさいね。」
「―――送ってく。」
「要らないわよ。やな男ね。」
おれの横をすたすた通り過ぎ、そういってあっさり玄関でハイヒールを履きはじめた彼女を見ながら、おれは何か違和感を感じた。何か、来た時と違う印象を受けた。まるで何かを脱ぎ捨てたかのような。清々した、とでもいうかのような。
「―――あれ、そういえば、CDあった?」
「……私勘違いして捨てたかも知れないわ。もし出てきたら捨てて頂戴。」
「は?でも、大事なやつじゃ、」
「…――ほんと、やな男ね。」
長い茶髪の隙間からニヒルに笑う彼女を見て、おれは今度こそ言うべき言葉を失った。
「……せいぜいお幸せにね。配達のお兄さん。」
ぱたん、と閉まった扉の向こうに消えて行った華奢な背中を見ることは、もう二度とないだろう。
******
約束通り迎えに来てくれたエースは、どこかいつもより固い笑顔で現れた。
そんなに仕事が大変だったのだろうか。寒くて表情が凍ってしまったのだろうか。
なんかあったのか?と聞くおれに、何でもねえよ、ちょっと疲れただけ。そう言ってエースは笑って、おれを抱き締めて黙り込んでしまった。
急なお客さん、と言っていた。あまり会いたくない人だったのだろうか。おれは、今日エースの部屋に入った途端、あんまり嗅いだ事のない甘い甘い香りが鼻を掠めたことを思い出した。ちょっと人工的に強い花の香り。見る人が見れば、何かいつもと違うことが起こったということに気がついたのかもしれない。だけど、どうしたって鈍いおれは、この時になっても全く何も気付いていなかった。
「―――ん、エース…、」
「…、…ルフィ…。」
こたつとエースの脚の間にちょうど良く収まって、おれは首を横に向けたまま、後ろから与えられるエースのキスに応えた。
全身があったかくてほかほかする。口の中をするする動き回るエースの舌が気持ちいい。エースの大きな手が、抱き締める力を少し緩めて、胸の辺りを探り始めたのがわかる。
思わず、甘えるみたいな声が鼻から抜けた。それを聞いたエースが低く喉で笑ったのが悔しくて、俯いてキスを逸らそうと思ったけど、追いかけて顎を掴まれてそれも叶わない。もっと深くくちづけられて、おれはそのまま身体の力を抜いた。がっしりしたエースの胸に全部預けて、もう好きにしてくれ、なんて柄にもないことまで考える。
だって仕方ない。エースとのキスが気持ち良くて、エースに触ってもらうのが気持ち良くて、エースが好きでたまらない。
無理矢理身体をひねってエースの首に腕をまわすと、エースはそのままおれを両手で抱え上げて、すぐそこに敷かれたまんまの布団の上に運んでくれた。おれは腕を回したエースの首ごと後ろに体重をかけて、ふたりまとめて布団の上に倒れ込む。おれが自分からそうしたのに、頭を打たないようにエースは手のひらでしっかり後頭部を掴んで守ってくれた。
意味もなく二人声を立てて笑いながら、くすぐりあいみたいにしてお互いの服を脱がしにかかる。ひとつひとつ、いやなことも一緒に脱ぎ捨てていくように。
エースがおれの最後の1枚のTシャツの裾を持ち上げた、その時だった。
(…―――――あれ…?)
ふと投げ出した片手に、あまり感じたことのない種類の手触りを感じて、おれは首をかしげた。
二人分の体重とじゃれあいを受け止めてくしゃくしゃになった布団の、その隙間。薄い、何かの膜のような、紐のような、これは何だ?
「…―――エース、ん、なあ、なんか手に引っ掛かって、」
「……ん…?手…?」
何だ、とエースが少し身体を浮かしてくれたその隙間で、それを掴んで引っ張った。左手にするりと巻き付いて引き抜かれたのは、
「…―――――、」
「……………ッ、………う、そ、」
肌色の、ストッキングだった。
おれの知らない女の人のものだ。そう脳が理解した瞬間、ヘビの抜け殻が絡み付いてるみたいに、何か忌まわしいもののように思えて、ぞっと鳥肌が立った。
「――――ッ!!」
「……――ルフィ!!待て!!!」
身体を強張らせたエースの下から瞬間的に抜けだす。投げ出したままの鞄と上着を引っ掴んで立ち上がる。腕を掴もうとするエースの手から、するりと身をよじって逃げる。
「ルフィ、頼む話を、」
「―――触んな!!!!」
ぱしん、と乾いた音がした。おれが手の甲で、エースの手を払った音。
腕を掴んだエースの大きな手のひら。大好きなはずのそれが、今はどうしようもなく怖かった。
「……ル、フィ、」
「…―――ッ、ごめ、…なんかの間違いだって、信じたい、し、わかってるつもり、だけど」
堪らず俯いた。エースが痛いくらいにおれを見つめているのがわかったけど、それでも顔が上げられない。
心臓がぎゅうぎゅう握りつぶされるように痛む。そこに直結した眼の奥が、じわりと熱を孕んだ。下まぶたに盛り上がる涙が、耐え切れない。
瞬きをしないように頑張っていたのに、ついに、それがつうと頬っぺたを伝って、落ちた。
「……!!」
「…ごめん、エース。今は、…エースの側にいるの、…つらい……!!」
やっとのことでそれだけ絞り出すように伝えると、後ろ手にドアノブを探り、そのまま外に飛び出した。冷たい外の風に、涙が冷えて後ろに流れて行った。胸の中がぐちゃぐちゃで、頭の中がぐるぐるで、どうしていいかわからなかった。
エースがどんな顔をしていたか。おれはついに、見ることができなかった。
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