雪が降っていました。

しんしんと降る雪はあらゆるものを真っ白に包み込み、凍てつく空気とホッとするようなあたたかな電車の空気が、車窓をやわらかに曇らせる。その向こうの雪景色が、淡くやさしく滲んで見える。そんな、少し薄暗い、雪国のまだ春も遠い日でした。

雪道は、この身体の老いをまざまざと見せつけます。田舎の無人駅ばかりのこの路線。たった2両編成のこの電車は、平日のこの時間、しかもこの雪の中ではあまり乗客はおらず、遠くの座席に二人ほどが腰掛けているだけで、ひっそりとしていました。

毎月一回。亡くなった夫の月命日に、こうして電車に乗って墓参りに行くのが、私の決まった予定となっています。ただ、今日は供えてきた花束がふたつ。
ひとつは、夫のための。そしてもうひとつは、先月亡くなった、幼馴染のものでした。

もう治る見込みのない病気。最後は、自宅で奥様と二人の子供、そして孫たちに見送られ、安らかな最期だったと人づてに聞きました。

幼馴染であり、そして、初恋の人との最期の別れに、わたしは出向くことができませんでした。
亡くなった夫と同じお寺にお墓があると知って、やっと花を手向けた。今日は、その帰りでした。

幼い頃から一緒だった彼。
子供ながらに、大人になったら彼と一緒に生きるのだと、そう心に決めていたこともありました。
都会の大学で勉強がしたいと、彼がひとりこの街を出た時も、きっと帰ってくる、待っていてくれと、そう言った彼の言葉を信じて待っていました。
今ほど連絡手段もそうそうない時代です。手紙のやり取りもそのうち途切れがちになり、2年、3年と経つ間に、彼からの手紙は途絶えました。
お互い手に職を付けたころ、この街に帰ってきた彼の隣には、見知らぬ女性が寄り添っていました。優しげな、都会の香りの漂う様な、きれいなお嬢さんでした。

よくある話だと、いまならよくわかります。

彼のところに一人目のお子さんが生まれた頃、わたしも職場で出会った男性と結婚しました。仕事一筋で、ぶっきらぼうで、彼のように優しい言葉一つかけるでもない。それでも、まなざしがやわらかくて、手が大きくて、たまに聞かせてくれる「ありがとう」があたたかい、そんな、やさしい人でした。

思えば彼とは、ずっと一緒にいたようで、その実ほかの誰かと共にいた時間の方が、いつのまにかお互い長くなってしまっていた、そんな間柄でした。わたしの中にいる彼は、学ランを着て、この電車に乗って大きな街へ出て行ったあの日のまま、時間が止まっているのでした。

片手に持った傘から、溶けた雪がぽたりぽたりと雫となって、リノリウムの床に落ちていきました。

それを何とはなしに見つめていた、その時でした。

『――――対向列車との待ち合わせのため、少々停車致します』

もの思いにふけっている間に、もう道のりを半分ほど来てしまっていたようでした。雪国の電車は、止まっても自動ではドアが開きません。冷たい空気が車内に流れ込むのを防ぐためです。
ホームで、小柄な影がボタンを押し、反応の悪いドアが開くのを待っているのがわかりました。

(―――あら、)

と、そこへ乗り込んできたのは、寒さに頬を染めた少年でした。大きな荷物を持って、艶やかな短い黒髪にうっすら雪化粧をして、白い息を吐き吐き、ゆっくりと電車に乗り込みました。
私が彼に目を止めたのは、それまでにも何度か見かけたことのある少年だったからです。

地元の高校の制服を着て、友人らしいもう一人の少年と、楽しそうに笑いながらこの電車に乗る姿を、何度か見たことがありました。もう一人の少年は、彼と比べてたいそう身体のしっかりした、背の高い、それでいて親しみやすい笑顔を浮かべていました。この小柄な少年を、まるで兄のように大切にしているのがよくわかる、そんな触れかたをしていました。

思えば3年ほど前の春、座席に座った小柄な彼の髪に、桜の花びらがひとつ載っていたのを、背の高い彼が笑いながらつまんでやっていたのを見たのが、最初だったような気がします。

夏。真っ白な半袖のワイシャツを日光に反射させて、灼熱のホームに悲鳴を上げながらふたり降りていく背中を、微笑ましい気持ちで見送った朝がありました。

残暑も和らいだ秋に、線路を囲むフェンスに二人寄りかかって、電車の通り過ぎていく様子を眺めている姿を、車窓から見かけた夕暮れがありました。

さびれたホームのベンチで、ふたり缶コーヒーを掌に包み込みながら話し込んでいた、冬。
その時は、ふたりとも止まった電車には乗り込みませんでした。

そして、今日。ひとり電車に乗ってきた彼は、制服を脱ぎ、大きな荷物を抱え、空港のある街へ向かう電車に乗ってきました。私の斜め向かいに座った彼は、寂しげな、切なげな顔で俯きながら鞄を抱き締め、厚く巻いたマフラーに口元を埋めていました。その下では、小さな歯が下唇をかみしめていたかもしれません。

ああ、このときがきたのかと、そう思いました。

彼の切符は片道切符。もう、彼らが制服を着て肩を並べる姿は見られないのだと、そうわかりました。
あの日の彼が、学ランを着て電車に乗って行った彼の姿が、脳裏にちらつきました。

と、背後を貨物列車が通り過ぎて行ったのを確認して、車内アナウンスが入りました。間もなく発車します、というその平坦な声を聞いて、少年が更に顔を伏せました。強張るその華奢な肩が、縋るように荷物を抱き締めるその細い手が、微かに、震えている様な気がしました。
見ているこちらが泣きたくなるような、そんな切ない姿から目が離せなかった、そんな時でした。

「…―――!!」

顔を伏せた少年の背後。曇る窓ガラスの向こうに、無人改札を駆け抜けて迫る姿が見えました。
曇る車窓に必死で目を凝らす彼が、この目の前の少年の姿を求めているのだと、私にはわかりました。私は老いた膝を叱咤して立ち上がり、向かい側の彼の肩に手をかけました。

「ねえ、あなた!」
「―――?」
「あれ、お友達じゃないかしら。あなたを捜しているのじゃないかしら」

見開かれた黒い大きな瞳に見とれる間もなく、彼は弾かれたように背後の窓を振り返りました。曇る車窓をあわただしくてのひらで拭って、その向こうの彼を見留めました。

エース、と声もなく呟いた声は、掠れて震えていました。

その声が聞こえた訳はないのに、それに呼ばれたかのように、ホームにいる彼も少年に気付き、外側から彼の縋りつく車窓に駆け寄りました。窓ガラスをたたき割る勢いで中を覗きこみ、少年のきれいな瞳を見つめると、「エース」と呼ばれた彼は、少年の名前らしき言葉を、声もなく零しました。
そして、寒さに赤くなった、それでももう大人に近い大きな骨ばった手を、窓ガラス越しに少年のてのひらに合わせてそっと置きました。まるで、車窓越しにぬくもりを感じたいとでもいうかのように。

声もなく、ふたりはお互いの姿を目に焼き付けているようでした。
ガラス越しのくぐもった声で、背の高い彼は言いました。

「…がんばれ、ルフィ」
「――うん」
「応援してる」
「うん」

「メール、するな」
「…うん」
「電話するな」
「……うん、」

「おれ、待ってるから」
「……。」
「ずっとずっと、お前のこと待ってる。ここで、待ってるから!」
「…ッ、」

もう声もなく、何度も何度も頷く少年の眼からは、堰を切ったようにきらきらと大粒の雫が頬を伝って落ちて行きました。それを見ながら、私もなぜか、熱くなる瞼を抑えきれませんでした。
ただでさえ涙で滲む彼の姿を、曇る窓ガラスが更に滲むように覆って行きます。外の彼も、もう言葉もなく、少年の涙を食い入るように見つめるばかりでした。

プルルルルル、と、高い電子音がホームに響き渡ります。黄色い線の内側にお下がりください、という車掌のアナウンスが聞こえました。電車が動き出す、その合図でした。

エースと呼ばれた彼が、苦しげな表情で目を伏せて車窓から離れようとした、その時でした。

外の彼を覆いかくそうと曇る窓ガラスに、少年がその細い指先を走らせました。
ほんの、二筆ほどの、それ。
それを見た外の彼は、驚きにその切れ長の目を見開くと、次の瞬間、くしゃりとまるで泣き笑いのような、それでいてひどく幸せそうな笑顔を浮かべて頷くと、声もなくささやくように言いました。

「おれも」、と。

そのまま、一歩、二歩とゆっくりと離れた彼を確かめた後、車掌が発車の合図の笛を鳴らしました。
ゆっくりと動き出した電車を追って、ホームの彼は数歩だけ駆け、そのまま立ち尽くして電車を見送りました。
後ろに流れていく小さなホーム。立ち尽くす人影。覆うように降り続く雪。それを食い入るように見つめていた少年は、ついに車窓に縋りついたまま、ずるずると顔を伏せて泣きました。


窓ガラスに描かれた小さなハートマークから、まるで涙のように、結露がいくつもいくつも筋を描いて、滑り落ちていきました。






押し殺した嗚咽を漏らし、華奢な肩を震わせて泣く彼にハンカチを差し出しながら、私は言いました。
あなたたちなら大丈夫。彼はかならず待っていますよ。私にはわかる、と。

「……?」
「わかるのよ。―――わたしも、彼と同じだったから。」

そう、彼はかならずあの駅で待っているでしょう。
そして、あなたも必ず帰る。彼のもとへ。彼の隣へ。

「わかるのよ。…あなたなら、きっと大丈夫。」

そう、だってあなたの瞳は、こんなにもまっすぐだもの。
曇りのない、澄んだ瞳から、透明な雫が音もなく転げ落ちて行きました。


そうして数十分ほど電車に揺られたあと、空港のある静かな駅で、彼はひとり降りて行きました。

まだうっすらと赤い目で、小さく笑って手を振るその姿を見送りながら、私は、「彼」を見送った時のことを思い出していました。

彼らほどの強い絆ではなかったかもしれない。確固たる信頼はなかったかもしれない。
それでも彼はあの時、確かに私に、何もない私のもとへ、帰ってくると約束してくれた。待っていてくれと、そう言った。その気持ちは嘘じゃなかった。それだけでいいと、そう思いました。あの時流した涙の温かさを、思いだしました。
今になってやっと、冷たいばかりだと思っていた記憶が、あたたかい思い出に変わったような気がしました。
私の中で学ラン姿のまま時間が止まっていた彼が、そしてセーラー服姿のかつての私が、やっと背を向けて自分の道を歩きだし、そして光の中へ消えていった。そんな気がしました。

なぜ驚かなかったのか。それは今でもわかりません。
ただ、どこまでも透明なものを見たとき、うつくしいものをみたとき、ひとは驚きよりも先に感動が来るのだと、ただそれだけだと思います。
次に彼らが会えた時は、少女だった私が夢見たように、彼はあの広い胸にまっすぐに飛びこんでいくのだろうと、その時は、強く強く抱き締めてあげてほしいと、お恥ずかしながら、そう思いました。

そして、今度お墓参りに行く時は、あんなこともありましたねえと、天国の彼に少し長話を仕掛けてみようかと思いました。

もし、それを見た夫が空の上で不機嫌になってしまうことがないように、帰ったら仏壇に向かって話しかけてみることにします。

ねえあなた。いま無性に、あなたに会いたいんですよ、と。











お降りの際は、お忘れ物のないよう、ご注意ください。