踵が石畳を叩く音が壁に反響する。
暖かい色を湛えた街路灯の明かりに、寒さで縮んだ胸の奥が息を取り戻す気がした。

まだこの街にこんな場所があったのかと、かすかな衝撃さえ覚えるほどこの通りは静かで安らかだ。


(………星も見えない)


雪でも降るのかもしれない。
緩くウェーブのかかった長い髪を揺らしふと見上げた灯の向こうは、真っ暗な空が深く沈むだけだ。

夜の底。そんな感じ。



視線を空から戻した拍子に、通りの向こうの店が目に入った。
さりげなく視界に侵入したその明かりに照らされるのは、アルファベットひとつ。

(…゙D゛、バーかしら。)



こんな夜にセンチメンタルに浸るのもいいかもしれない。
どうせ帰っても有益な思考など浮かびはしないのだ。

引き寄せられるように、鈍く金色に光るドアノブに手をかけた。

「お、いらっしゃい!」

飴色のカウンターテーブルに同色のスツール。10席に満たないカウンターのみの、黒を基調とした落ち着いた小さな店内。

そこに場違いなほど快活な声と鮮やかな笑顔が、まるでドアベルの代わりのように反響した。

艶やかな黒髪と漆黒の瞳が柔らかく明かりを跳ね返している。

「…いらっしゃい。お好きな所へどうぞ。」

奥から落ち着いた声音を返すのは、背の高い、彼と同じ色彩を持つ青年。
彼より少し鋭い、でも温かい光を湛えた黒の瞳。
頬に散るそばかすが、どこか親近感をもたらしている。



「この店、メニューは置いてねんだ。ごめんな。
でも名前を言ってくれれば大体のカクテルは作れるし、この店オリジナルの奴もあるから好みがあったら教えてくれよ。

…あとは、お客さんひとりひとりに合わせたのも作る。
おれはそっちのほうが得意だな!」

「おれはルフィ、あっちがエース、おれの兄ちゃん」

よろしくな、なんてそんな満面の笑みで言われても、

「……ナミよ。よろしくルフィ、…エースさん。」


(あ、返事しちゃった)


対面数秒で彼のペースだ。他の男にこんな振る舞いをされたら間違いなく電光石火で店を出る。

とはいえ、なぜか悪い気のしていない自分が一番不可解なのだが。

「…とりあえず、ジントニックお願いしようかしら」
「あいよ!エース、ジントニひとつー!」
「聞こえてる。お前ね、居酒屋じゃねんだから。…すんませんね、接客がなってなくて」

口調の割には笑顔が温かい。


瓶を傾けグラスに注ぐ手が滑らかだ。
きっと何百、何千と酒を調合してきたのだろうその手。
迷いも躊躇いもない。


ジンとトニックウォーターだけのシンプルなカクテル。だがそれゆえにバーテンの力量が出るとナミは思う。

誰かの受け売りだった気もするが忘れた。
とにかく一杯目と決めている。


「ジントニックです。どうぞ。」

細身で上品なグラスに注がれた透明な液体。気泡がささやかにきらめいては上を目指し、そして消える。添えられたライムがほのかに香る。

まずはライムを搾らずに。


「…おいしい」
「そりゃよかった。」

にか、と歯を見せて笑う。
なぜか、ふたりそろって。

笑った顔は思ったより似ていて、ああ兄弟なのだな、と胸のどこかわからない所が柔らかく滲んだ気がした。


今日のジントニックは、いつもよりほんの少し舌に甘い。









ひととき、おつきあいねがいます