(――――…あったかい…。)

髪を撫でる温かい手のひらの感触に、ふわりと意識が浮上した。時々、気まぐれに頬に触れる指は、少し乾燥して固い。起きなければ。ゾロが帰ってきた。目を開けて、起きて、ゾロに「お疲れ、帰ろうぜ」って言って、

「―――――ルフィ。」



ルフィが飛び起きると、エースは一瞬見開いた目をすぐに緩めて、風邪引くぞ、と言って笑った。いつもはナミが座っていた前の席。生徒用の椅子に後ろ向きに腰掛けて、オレンジ色の光の粒子の中、教師らしくもない自然さでエースはそこにいた。微かにチョークの粉が残る指で、エースは寝乱れたルフィの髪を梳いた。それは、ルフィの知らない彼の仕草だった。わしわしと頭を撫でるいつもの彼の手つきとは、雲泥の繊細さだった。

ゆめを、みているのかとおもった。


「せん、せ」
「……なんか久しぶりのような気がすんな。お前に呼んでもらうの。」

当たり前だ。自分からはけして話しかけないようにしていたのだから。必要以上に近づかないようにしていたのだから。それが、その彼が、なぜ、

「せんせ、なんで、…ゾロは」
「……ゾロ、待ってたのか」
「…一緒に、帰る、から」
「………そっか」

そういうと、エースは口元に笑みを敷いたまま、少しだけ目を伏せた。重たくやわらかい沈黙が、ふたりを包み込んだ。髪から離れたエースの手は、机の上で所在なげにしているルフィの華奢な手の横に着地した。その時、ほんのかすかに、指と指が触れた。
それだけで、ルフィの手は反射的に慄いたように逃げた。は、とした時にはもう遅かった。エースが気付いていないといい。せめて、嫌な思いをさせてなければ。祈るようにルフィが思ったその時、エースがセーターの袖に隠れた手の甲に、すこしためらいがちに触れた。

ルフィが、身体を強張らせはしても逃げないのを確かめると、そのままエースの大きな手が、ルフィの手をすっぽりと包みこんだ。あたたかい手だった。

「―――せん、せい、」
「昨日な、ゾロに言われた。……『アンタがそんなんだからルフィが泣くんだよ』って」
「…っ、」

エースは視線を上げて真っ直ぐにルフィの目を見た。

「…泣いたのか、ルフィ。……おれのせいで?」
「……ちが、」
「言えよルフィ。おれのせいだって言え。おれのために泣いたって言えよ。」
「…?せんせ、」
「―――おれに彼女がいるって知って、泣いたって。そう言えよ。」

ひゅ、と喉が鳴った。
逃げたい。逃げたいのに体が動かない。鋭く光る黒い瞳から目が逸らせない。空いていた左手で、エースはルフィの頬を包み込んだ。昨日、ゾロが触れた方とは逆の頬を。
そのままゆっくりと近づいて、

「な、に言って、」
「言ってくれ、ルフィ。……頼むから。そしたら、お前が望む答えをあげられるかもしれないから」
「……、先、生」
「言って。ルフィ。」


「―――……エ…」


突然、激しい音を立てて教室のドアが開いた。驚いて振り返ったふたりには構わず、ゾロは荒い足取りで机の列を縫い、ルフィの机に歩み寄った。目を見開くルフィの腕を掴み、立ち上がらせる。

「帰るぞルフィ」
「……、まって、…ゾロ…ッ」
「ゾロ、」
「センセイサヨウナラ」
「ゾロ!!」

二人分の鞄を掴み上げると、ゾロはそのままルフィを引きずるように教室を後にした。ルフィが、ギリギリの所で振り返った先。

エースの顔は、見えなかった。


「ゾロ…ッ!いてえよ、ゾロ、……ッ!ゾロ!!」
「…。」
昇降口にきてやっと、ゾロはルフィの腕を離した。しばらくは、ふたりとも何も言わないままだった。ルフィの呼吸が整った頃、ゾロは口を開いた。

「――好きなのか。あいつのこと。」
「……。」
「あいつじゃなきゃ、だめなのか。」

ルフィは、貼り付きそうな喉を無理矢理はがすようにしてやっと答えた。

「……うん。」
「彼女いんだぞ」
「…うん。」
「…おれじゃ、だめなのか。」
「…………うん……。」
「――そうか」

ひとつ、ゆっくりと深く呼吸をして、ゾロはがしがしと自分の頭をかき混ぜた。

「…、ゾロ、」
「『ごめん』とか言うなよ。おれまだ諦めてねえから。」

え、と声を漏らしたルフィに向き直ると、ゾロはもう一度繰り返した。

「おれ諦めてねえから。お前があいつに惚れてんのはわかった。でもな、彼女いてお前にあんな思わせぶりなことするようなヤツに、負けるつもりねえから」
「……。」
「…今日は、帰るわ。行くなら行けよ。あいつんとこ。」
「ゾロ、」
「そんで遊ばれてあいつの最低なとこ散々見てくればいい。また泣かされてくればいい。嫌いになるまで。そしたらおれんとこに来ればいい。そんときこそ、力ずくでもなんでもおれのもんにしてやる。」

待ってるからな。そういうと、ゾロはニヤリと口の端を持ち上げて、悪い男の顔で笑った。



ゾロの背中を見送った後、ルフィは動けないままそこに立ち尽くしていた。ぎゅ、と靴底と床が擦れる音がして、背後に誰かが立ったのがわかったが、ルフィは振り向かなかった。それが誰か、一番近くで彼の気配を感じていたルフィにはわかっていたからだ。
無言のまま手を引かれて歩き出す。繋がれた手は、一回り大きい。そこから辿り、視線をゆっくり上げていく。スーツの袖に、擦ったのかチョークの粉がうっすら付いている。広い肩。大きな背中。少し癖のある黒髪は、無造作に整えられている。

数学準備室の戸を開けて、ルフィを中に促す。後ろ手にエースがドアを閉め、鍵をかけたのを、ルフィは背中で聞いていた。

「――――ゾロはどうした。」
「………置いてかれた。『待ってるからな』って」
「…ふーん…。」
「―――せんせ」
「…ん…?」

「……おれ、遊びでもいいよ。」

準備室の中はもう暗い。ルフィは、薄暗がりの中にまだ置かれたままの二つの椅子を見ながら言った。頭の中はからっぽだった。どこから来るのかわからない言葉を、流れに逆らわずに紡ぐ。

「遊びでもいい。先生がおれを見てくれるなら。…わかってるんだろ、先生。」

ゆっくりと、気配が近づく。長い腕が、ルフィのからだに絡みついて、じわじわと力が込められる。
ルフィは目を閉じた。その腕の感触だけを感じていたかった。からだが震えそうなほど、その感触が愛しかった。ゆっくりと吐いた吐息は、すでに震えていた。

「――わかんない。教えてルフィ。」
「………うそ、つけよ…。先生は、なんでも知ってるんだろ」
「教師にだってわからねえことはあるさ。…な、教えてルフィ」
「……。」
「…言って。ルフィ。」

肩に埋められた顔から直接響く声は、くぐもっている。後ろから抱き締める腕の力は、もう逃げられないほどに強い。逃げ場なんか、はじめからどこにもなかった。
ルフィの閉じた目から、涙が一筋、伝って落ちた。


「………すきだ……。」

先生の事が、すきだ。

震える声で、やっとの思いでそう言った。耐え切れなかった涙が、堰を切って溢れだした。嗚咽すら漏れる。想いが溢れて止まらなかった。しゃくりあげるルフィをエースはゆっくりと解放して、その身体をこちらに向き直らせた。頬を濡らす涙を、大きな手が掬い取ってゆく。

「……あの人の名前、教えてあげようか、ルフィ。」
「…?だ、れ」
「おれが一緒にいたひと」
「…ッ!ふざ、けんな…!!要らねえよ!!」

頭に血が上った。笑みさえ浮かべて毒のような言葉を吐きだす目の前の男を睨みつけて、ルフィは拳を振り上げた。どこまで最低なのだこの男は。遊びでもいいと言ったのは自分だけど、だけどこんなの、

「ポートガス・D・ルージュ」

「…―――え…?」

ルフィは、エースの胸を叩き付けた拳を止めた。エースは、その痛みすら喜ぶように更に笑って言った。
「ポートガス・D・ルージュ。おれの母親。彼女なんかいない。あの日は、母親の誕生日祝いにメシ食いに行っただけ。」
「……う、そ」
「ほんと。若作りで困ってんだ。昔から『お姉さんですか』、とかザラで。いい年して腕組んで歩いたりな。」
「……せんせい、マザコンってやつ…?」
「コラ。どこで覚えたそんな言葉」

ぺし、と軽く頬を叩いたその手つきは、だがしかしかつてのそれより甘い仕草で。

「…わかったかルフィ。全部ただの勘違い。」
「―――――……わかんねえ」
「んだと。」
「わかんねえ。先生の気持ち。おればっか全部言わされて、っ」

悔し紛れの悪態は、合わせた唇に呑みこまれた。
少しつめたい感触は、ほんの数秒。静寂の中、3度やわらかくルフィの唇を食んだあと、わざと小さな水音を立てて、エースは唇を離した。目を見開いたままのルフィを見つめて笑う。

「――わかった?おれのキモチ。」

オトナになるとな、あんまり堂々と口に出せないことも増えてくるんだよ。そう言って、教師の顔ではなく、悪い大人の顔でエースは笑った。男の顔で笑った。
未だ呆然としたままのルフィの目元を撫でて、眼ェ落ちる、と言ってまた笑う。
だって、だって、こんな都合のいい展開、あるわけが

「……もうひとつ、いいこと教えてやるよルフィ」
「……なに…。」
「こういうときは、眼ェ閉じるもんだ。」

ささやくようにそういって、エースは大きな手のひらでルフィの目元をやさしく覆いかくした。
そのまま、何か言いかけたルフィの唇を自分のそれで塞ぐ。

その手がゆっくりと外されて頬に移っても、ルフィの瞼は閉じたままだった。





「――――げ、」
「おうゾロ。お前今期ちょっとやべえぞ。ルフィほどじゃねえけど。期末頑張れよ」
「…っせーな…。センセイの教え方が悪いんじゃないデスカ」
「お前度胸あんなコラ」
そりゃどーも。苦々しく吐き捨てて横を通りすぎた。
生徒の風上にも置けないこの不届きな数学教師は、まんまとルフィという無垢な子猫を捕まえたらしい。彼女がいるという話も勘違いだったと聞いたが、どこまで本当か怪しいものだとゾロは思っている。できるならば極力近づきたくない。いっそ消えてくれたらこれ以上嬉しいことはない。

「―――なあ、ありがとな」
「…は?喧嘩売ってんのかアンタ」
「まあそう言えなくもないけど。結局お前がきっかけになったわけだし」
「抜け抜けと…。言っとくけどおれ諦めてねえからな。」
「おう、生徒の成長が間近で見られて教師冥利に尽きるぜ」
「言ってろ。いつかリストラさせてやる」
「楽しみにしてるわ」

ひらひらと手を振って、エースはそのまま廊下の奥に消えていった。その大きな背中を見ながら、ゾロはいつかそこに思いっきり拳か蹴りを入れてやる光景を思い浮かべた。その想像でほんの少しだけ気分が晴れるのを知ったゾロは、そのまま全ての鬱憤を晴らすべく、格技場へ向かった。



だからゾロは知らなかった。背を向けたエースの笑みが、確信犯のそれであったことを。いつか昇降口で同じように彼に背を向けた時、エースがそれと同じ、不敵な笑みを浮かべていたことを。

そして数学準備室で彼を待つルフィも知らなかった。ゾロに連れ去られて後にした教室の中で、エースが薄く微笑んでいたことを。本当の意味で、逃げ場などはじめからなかったことを。
無垢な生徒たちは、知らない。

全てのベクトルは、彼の手の内にあった。



(ずっとすきだったよルフィ)
(…ずっと?)
(そう、…ずっと。)





the perfect vectors





先生の言うとおり。


長らくお待たせいたしました。
例によって長くなりましたが素敵リクを思う存分消化させて頂きましたモグモグ

愛さま、素敵なリクをありがとうございました。

20111220 花村ジョー