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※愛さまのリクより「先生×生徒」(年齢操作アリ)





望みはないと、わかっていた。
頭でわかっていても、心が、感情が追い付かない。それは、ルフィが初めて直面する事態だった。

学校は、知らないことを教えてくれるところなんだろ?
どうしたらいいか、教えてくれ。なんでも聞けって、なんでも言えって、あんた言ったよな。

教えてくれよ。あんたを諦めるにはどうしたらいい?なぁ、

センセイ。




「…ルフィ。望みはないわ。酷なこと言うようだけど」
「解かってる」
「わかってない。…分かってないわ、ルフィ。」

放課後の教室。グラウンドで部活中の生徒の声。ホイッスルの音が遠く響く。真上の教室からは、受験を控えた3年生が受ける課外授業の音。教師の声と、チョークが黒板を叩く音。開け放たれた窓から、新鮮な空気が入ってくる。肌寒いほどに澄んだ空気は、頭を冷やすにはちょうどいいのかもしれない。少し残酷なほどに、澄んでいた。

「先生なの。…先生なのよ、ルフィ。」
「……解かってる…。」

机についた両腕に、そのまま顔を埋めた。言葉も絶えた。
遠く上から響くのは、低く張りのある強い声。ルフィの心臓が、鈍い痛みを増した。酸いような、苦いような、そしてどこか甘くすらあるような痛み。その痛みは、目の奥の熱に直結していた。
あの声で、名前を呼んでほしかった。この声で、名前を呼ばせてほしかった。
もう何も言わず、静かに髪を撫でるナミの柔らかい手を感じながら、ルフィは少しだけ泣いた。

エース。そうささやくルフィの唇は、だがしかし声を伴うことはなかった。


初めて出会ったのは、半年前の春だった。
副担任に宛てられた新卒採用の新任教師。それが、エースだった。

はじめは、人懐こい笑顔と、誰にも媚びないその立ち姿に好感を持っていただけだった。歯に衣着せないさっぱりとした物言いとは裏腹に、勉強が苦手なルフィが職員室で泣き付けば、しょうがねえなと苦笑して何度も何度も繰り返し噛み砕いて教えてくれた。時々遠慮なく頭をはたかれたが、それすらも兄弟か何かのようで嬉しかった。

職員室前の廊下の黒板は、エースがルフィのために書いた二次方程式やベクトルでびっしりと埋まった。立ったままのふたり。棚の上に敷いた課題プリントと格闘するルフィを、肩を並べて覗きこむようにしてエースが見守る。ルフィがひとつひとつゆっくり式を組み立てていく度に、励ますように、背中を押すように、うん、とか、そうそう、とか、低く穏やかな声で助走してくれた。

職員室や、朝のHR後の廊下でじゃれつけば、お前らまるで兄弟だなと他の教師に笑われた。ルフィはエース先生大好きだよな、と苦笑交じりに友達に言われれば、何の含みもなくおう!と笑って応えた。数学科準備室のエースの机には、いつのまにかルフィの文房具やノートが我が物顔で置かれるようになった。職員室ではあまりおおっぴらにできないけれど、腹減った、と訴えるルフィのために、エースの机には菓子の類がころころと忍ばせられた。

すぐわかんなくなるからどうせ家では勉強なんかしない。先生の隣ならやるよ、それでいいだろ?

そういえば、まったくお前は、とひとついつものように小突いたあと、エースは諦めたように笑ってあの大きな手のひらでこの髪をかき回した。エースの机には、椅子がふたつ置かれるようになった。

いつからだろう。あの椅子には、もうしばらく座っていない。


「―――ルフィ」
「…わり、ナミ。もう大丈夫。……ありがとな」

ルフィの机を挟んで向かい合ったナミは、ルフィが笑おうとするたびに彼女の方が余程辛そうな顔をした。ダーイジョーブだって、ちょっと考え過ぎちまっただけだ。慣れないことすると良くねえよな。そう茶化して、ルフィは立ちあがった。あらゆるものを振り切るように。

「帰ろうぜナミ。暗くなるとさみーじゃん」
「ルフィ、」
「げ、もうこんな時間かよ!何してたんだおれもったいねー!」

そういって足早に教室をあとにするルフィを、ナミは割り切れないまま追いかけた。何を言っても無駄なこと、何も言えることなんかないことを、彼女は自分で知っていた。

そうして階段を降り、薄暗い廊下を昇降口に向かって歩いていた時、ふたりは格技場へ続く渡り廊下を誰かが歩く音に気がついた。

「――あ、」
「あ、ゾロ―!」
「…おう、何してたんだこんな時間まで」

現れたのは、剣道の道着を身にまとったままのゾロだった。

「ちょっとナミとしゃべってたらこんな時間になっちまってなー。ゾロはサボりかあ?」
「ちげえよ。顧問呼びに来たんだよ」
「コウシロウ先生ならさっきすれ違ったわよ。たぶん職員室じゃない?」
「そうか。すまねえ」

そうしてふとルフィを見遣ったゾロは、訝しげに眉をひそめた。

「…ルフィ」
「ん?」
「どうしたんだお前」
「…え?」

「――泣いてたのか?」

ルフィの呼吸が一瞬止まったのに、ナミは気付いた。


ナミがそれに気付いたのは、きっとナミ自身がルフィのことを見ていたからだ。
ルフィが新任の数学教師に格段と懐いているのは知っていた。もともと教師たちとの距離が近い傾向はあったが、それでも、あんな風に課題を挟んでまで側にいたがるなんてことはなかった。あの、勉強嫌いのルフィが。

そのルフィが、全く彼に寄り付かなくなった。目の端でその姿を追いながらも、けして、自分から近づこうとはしなくなった。むしろ更に距離を取ろうとしているようにすら見えた。あの日を境に。

クラスの女子が朝登校するなり、友人グループに泣きついて騒いでいた。いわく、「エース先生が助手席に女性を乗せていた」。「腕を組んで駅前の店に入って行った」。
机にかじりついてナミのノートを写していたルフィの手がぴたりと止まったのを、前の席を借りて向かい合わせに座っていたナミが気付かない訳がなかった。そのまま、ごめん、ちょっと、と言って席を立ったルフィは、そのまま2時間目まで戻って来なかった。

それ以来、ルフィは一切エースに纏わりつかなくなった。
それでもきっと、ルフィなりに不自然に思われないようにしていたのだろう。当のエースに話しかけられればにこりと笑って応じたし、さすがにべったりすぎたよなおれ、なんていって他人事のようにけらけら笑っていた。
それがナミには、痛々しかった。

今日と同じように、誰もいない教室だった。3年生の課外のヘルプに入っていたエースの声を、夕暮れのオレンジ色の風の中でルフィはひとり聴いていた。机に一人腰掛けて、凛と外の夕焼けを見つめて。
偶然忘れ物を取りに戻ったナミは、それを見て胸が潰れた。堪らなかった。
だから問い詰めた。もう見ていられなかった。ナミはずっとルフィを見ていたのだから。


ルフィが泣くのを見たのは、あの日が初めてだった。

声も出さずに、ルフィは泣いた。
歯を強く強く食いしばって。俯いた前髪でその目元を隠して。
すきなんだ。
それだけを、囁くように零して、ルフィは泣いた。

ナミも泣いた。見ていられなくて、痛いほどに気持ちがわかって泣いた。けしてかみ合わないベクトルは、どんな方程式でも解けない。ナミは、何も言えずにルフィを抱きしめた。
ナミにはわかっていた。ルフィの隣に立つのは自分ではない。ただ、ルフィと一緒に泣いてあげられるのは自分だけだと。

だけど。


「…なんだよ、何かあったのか」
するりと、いとも簡単にゾロはルフィに触れた。竹刀を握りつづけて固くなった指の腹ではなく、比較的滑らかな指の背で、大事にやわらかくルフィの頬を撫でた。羨ましいくらい、自然に。
ナミは気付いた。彼も、自分と同じだと。誰も、今までナミ以外の誰も気付かなかったルフィの揺らぎを、彼はいとも簡単に捉えて見せた。かみ合わないベクトルが、もうひとつ増えた。もしこれがかみ合えば、ルフィにとってはなんて幸せなことだろう。余計なお世話だとは分かっていても、自分の想いが叶わないとわかっていても、ナミはそう思わずにはいられなかった。

ルフィが戸惑ったように、ゾロの目を見つめていた、その時。

「―――ルフィ」

きゅ、とスニーカーが床と擦れる音を立てて、教材を片手に抱えたエースが階段の上からこちらを見ていた。



「…、せんせ、」

ルフィの目が、怯えすらまとわせて彼を見たことに、ナミもゾロも気付いた。一瞬、お互いに視線をかわしたナミとゾロは、その刹那でお互いの胸の内を悟った。

「――ルフィ、行くわよ」
「え、ナミ、」
「じゃあねゾロ!先生さよーなら!」
「…!おい、」

戸惑うルフィの腕を掴んで走り去ったナミに、ゾロはおう、と答えてその背を見送った。
追いかけるかのように階段を駆け降りたエースに向かって、ゾロは口を開いた。

「――なあ」
「…、」

足を止めてエースはこちらを振り返った。

「…おう、ゾロ、お疲れ。部活か?」
「わかってねえんだな、アンタ。」
「……何が?」
「アンタがわかんねえままならそれでいい。おれはおれのやりたいようにやる。」

エースがゆっくりと体の向きを変えてゾロに向き直った。薄暗くなった校舎の中では、その表情ははっきりとしない。目の光だけが、こちらを見据えてひたりと当てられているのに、ゾロは気付いていた。

「わかんねえならそれでいい。ルフィにはもう構うな。あんな風に無理して笑わせんな。」
「…わりい、おれほんとに何の話かわかんねえ。ルフィが、どうかしたのか?最近来ねえなとは思ってたんだけど、」
「――あんたがそんなんだからルフィが泣くんだよ」

ふたりの影だけが長く伸びた校舎に、ゾロの声が尾を引いて響いた。

「…もう軽々しく名前呼ぶな。自分のもんみたいに呼ぶな。頭撫でたりすんな。その度にあいつがどんな顔してるか、あんた気付きもしねえんだろ」
「……。」
「もういいからほっといてやってくれ。頼むから。あとはおれが、全部忘れさせてやるから。」

エースが何か言おうと口を開きかけた、その時。
課外授業を終えた生徒たちが、階段を降りてくる音が聞こえた。はしゃいだ声と複数の足音が、ふたりの間の張り詰めた空気を解いた。
そのまま、ゾロは踵を返して廊下の奥に消えた。オレンジ色の空気の中に取り残されたのは、エースただ一人だった。



「――ルフィ、」
「…ん?何だーゾロ」
「お前、帰りちょっと待っとけ。部活今日はミーティングだけだから」
「?おう、いーけどめずらしーな?なんかあんのか?」
「なんもねーよ。お前と帰りたいだけ。」

終業のSHRが終わるなり、そう言いたいことだけ言い置くと、ゾロはぱちりと目を瞬かせたルフィには構わず鞄を置いて出て行った。

「――ビックリした。何だアイツ。なんかしたのか?」
「んー、強いて言えば遠慮がなくなったってとこかしらね。もともとあったのかどうかも微妙だけど」
「ぜんっぜん意味わかんねえ」
「いいわよわかんなくて。こうなったら私にもチャンスはあるわけだし?」
「はぁ?もーなんなんだよお前!わかるように言えよ!」
「やーよそこまで親切じゃないわよ私だって。まあでも、同志のよしみで今日は一緒に帰る権利を譲ってあげるわ」

そういうとナミは鞄を手にとって立ち上がった。抗議の声を挙げたのは置いていかれるルフィだ。

「えー!なんだよかえんのかよ!もうちょい付き合えよゾロ来るまで―!つーか一緒に帰ればいいじゃんか!」
「…無自覚とはわかっててもさすがに腹立つわね…。なけなしの気遣ってやってんのわかんなさいよ!」
「じゃーわかるように言えよもー意味わかんねえ!!」
「うるさい!私は帰るの!じゃあね、せいぜい優しくしてもらいなさい!」
「ナミのバーカ!気ィつけて帰ればーか!」
「あはは!」

ひらひらと手を振ってナミが出ていくと、それに続くようにクラスメイト達も次々と教室を出て行き、15分もすると残っているのはルフィひとりになった。
最後の友人をじゃあな、と手を振って送り出した後、ルフィは小さく息をついて耳を澄ませた。

今日の課外はエースの担当ではないらしい。この声はおそらく現代文のヒナちゃんだ。これがエースの声だったら、きっとルフィの心臓はまた彼への気持ちでいっぱいになってしまっていただろう。だけど今は、少しだけ空いたスペースに、ナミや、そしてゾロが入りこんで来ているようだった。
このまま彼らと一緒にいれば、もしかしたら忘れられるかもしれない。エースの背中を目で追うこともなくなるかもしれない。彼の声を、体温を、追いかけることもなくなるかもしれない。

いつか、面と向かって、彼女大事にしてやれよって、茶化して言ってやれる日が来るかもしれない。

机の上に突っ伏すと、色んなものを封じ込めるようにルフィは瞼を閉じた。そのまま、放課後の音を聞きながら、ルフィは少しだけ眠った。