※※※名前も何もないモブキャラ視点です!すみません!


都心からは少し離れた、しかし主要路線の沿線のこの駅は、快速電車も有料鉄道も通る利便性から利用者は多い。とはいえ、今日は日曜日。始発が出たばかりのこの時間帯ならば、改札を通る人影は疎らだ。

夜勤終了まであと数時間。改札脇の窓口に座ってちらほらと通り過ぎて行く客を眺めながら、私はあくびをかみ殺した。60の定年まで10年もない、中年もいいところのこの弛んだ身体には、夜勤はそろそろ荷が重い。とはいえ、隣に座る二回りも若い後輩の手前、居眠りなんかもできやしないから、こうして利用客の観察がてら暇潰しというか、真面目に勤務している振り、というか。

切符制がメインだったころならまだしも、最近はICカードが主流になって改札業務もめっきり減ってしまった。あの小さい切符に入場スタンプをついたり、ペンチで切り込みを入れたり。あの作業に憧れて、この仕事についたようなものだったけれども。時代の流れってのは冷たいもんだ、なんて感傷に浸るのは年寄りの悪い癖だろうか。

まあどちらにしろ、帰っても特に何がある訳でもない。息子二人は無事独立し、ごくごくたまにふらりと帰ってくるくらいで、家で待つのは物静かな妻ひとり。帰っても結局趣味の釣りに出たりして、実際家にいて何が楽しいかと聞かれれば返答に詰まるのは目に見えている。

昔は二人でよく旅行もしたのになあ、と思考はあらぬ方向へ飛んだ。那須の高原、伊豆の温泉、富士の麓。若くて金も無い時代だったから遠出はできず、在来線で地道に進む道程だったが、それでも二人で行けば楽しかったし、知り合いもいない土地で年甲斐もなくはしゃいで、妻の手を握って歩いたりもした。全くいつの間にこんな寂しい生活に浸っちまったんだか。時代の流れってのは冷たいもんだ。

「……先輩すんません、用足してきていいっすか」
「おう、行ってこい。ついでに休憩入れてきていいぞ、改札こんな感じだし」
「はは、そうっすねー。じゃあお先に入れさしてもらいます。20分くらいでいいっすか?」
「了解。」

軽い敬礼で後輩を送り出すと、いよいよ疲れが確かな質量を持って肩のあたりに乗っかってきた。若い頃は、夜勤なんぞ文字通り朝飯前だったのになあ。

(………と、)

大きな荷物を持った若い男が、俯き加減に改札に向かって歩いて来ていた。そのスポーツバッグの大きさ以外は特に不審とか変に目立つことはなかったが、同性の目にも羨ましい背の高さと均整の取れた筋肉質の体つき、そしてそばかすの散った端正な顔立ちが目を引いた。

(……あの兄さん、何回か見たことあるなあ)

時間帯は異なるものの、この改札やホーム業務の最中などに、何度か見かけたことのある青年だった。特徴的な男前だから印象に残っている。
何より、

(………今日は、一人なんだなあ)

その傍らに、もう一つの影がないことが妙に気になった。
20かそこらの青年ひとり、連れなしに出歩くことなどいくらでもあるだろう。ただ、今日の彼の場合は少し引っ掛かるものがあった。

いつもその傍らで、頭一つ分高い青年の顔を見上げて楽しげに寄り添っていた兄弟らしき少年。自分にも息子が二人いるから余計に気になったのだろうが、妙齢の男兄弟があそこまで仲が良いのも珍しい、というくらい、本当に楽しげに連れ立って歩く二人だった。
お互いの迎えか、この改札の前で携帯片手にどちらかが待っていることも多々あった。終電も間近の兄の帰りを、弟が華奢な手に白い息を吐き吐き待っていることもあれば、突然の夕立の日に兄が傘を片手に様になる立ち姿で佇んでいることもあった。

そして、改札の向こうに片割れの姿を認めるなり、意外にもよく似た笑顔で相手の名前を呼ぶのだ。飼い主を見つけた子犬のように、ころころと駆け寄るのは決まって弟の方だったが、それを大きな掌で迎える兄の方も、嬉しげに微笑むその顔は、紛れも無い愛情そのものだった。
それが。

(あんな大きな荷物持って。あの兄さんが弟置いて一人で旅行もないだろうに)

そういえば、ここのところ二人連れ立って歩く姿を見ていなかった。何より、その表情が暗く沈んでいるのが気にかかる。青年は券売機にゆっくり歩み寄ると、ICカードを入れて現金分をチャージしている。毎日あらゆる人がそうするのを見ている自分には、彼が操作するタッチパネルの位置で大体の金額が読める。青年は、一度の操作でチャージできる最大額を入れた。一体どこまで行くつもりだろう。

(……それ、帰りの分も入ってんだろうな、兄さん。)

どこか思い詰めたような表情でICカードを見つめるその顔が、言いようもない哀しさを湛えている気がして、無関係である自分の立場をわきまえながらもわけのわからない焦燥感を持て余していた。

青年は改札の前で足を止め、ゆるゆるとした動作でカードを財布に収めると、携帯電話の画面を一度だけ確認し、そのまま静かに閉じた。
いつもなら兄弟ふたり、連れ立って消えて行く北口の方をしばらく黙って見ていた彼は、切なげに目を伏せると、何かを振り切るように荷物を手に取り、抱え直した。

足早に改札に向かう足取りは、まるで何かを置き去りにして立ち去る時のそれのようだった。ICカードの入った財布を改札機に押し付け、電子音と共に開くそこを突き抜けて行く。振り返らないまま。
ああ、もしかしたらもうあの青年がここを通ることはないのかもしれない。長年の勘か何かだったのだろうか。漠然と、そう思った。

その孤高の広い背中を、何かやり切れない思いで見送っていた、その時だった。

「……―――エース!!!!」

人気のない構内に、少年然とした高い声が反響した。

弾かれたように青年が振り返った先には、肩をはずませて荒い息をつく、あの少年の姿があった。驚きに目を見開き、少年の名を呟いたらしき青年は、それでも苦しげに歯を噛み締めると、自分を呼ぶ声には応えないまま背を向けた。

「―――――ごめん…!!!!」

再びその足を止めたのは、やはり悲壮な響きを纏わせた少年の声だった。
しかし頑ななその背中は、彼を振り向くことはない。少年はそれに傷付きながらも、それでもその背中に向かって、全身全霊をかけて呼び掛けているようだった。

「―――……わがまま言って、意地張って、……ひでえこと言ってごめん……!!!!」

「もう、こんなこと言う資格ないって、わかってるけど、でも、エースなんかいらないって言ったのだけは、それだけは、全部全部うそだから!!」

少年の頼りない肩が、傍目にも震えているのがわかった。必死に泣くのを堪えているのだろう。その拳が、血の気が引くほどに強く強く握られている。

「………おれ、エースにお荷物だって思われたくなくて、…ッ、ひとりでも、生きていけるって、エースがいなくても大丈夫だって、意地張って、」
「……エースに、負担に思われたくなかった。重いって、めんどくさいって思われるのが、怖かった……!!」

「………ッ、ごめん、エース…!!もう、こんなこと言っても、無駄なのかもしんないけど、」

その時、堪えにこらえていた涙が、ついにぼろぼろとこぼれ落ちた。


「………だいすきだ…………!!!」


頑なだった青年の肩が、揺れた。

「………いらないなんてうそだけど!エースがいなきゃ、おれ全然だめだけど!!……でも、もう、いかないでなんて、言えないから。…ッ、おれにはもう、そんなこと言う資格ないから、だから、いつかもっと強くなって、エースの隣に立てるくらい強くなって、会いに行くから!!」

「――――ごめん、エース、ごめんなさい…!!エース、エース、だいすきだ。だいすきだ!……大好きだ……!!」

げんきでな。
心臓に直接訴えかけるような、潤んで震える声で彼がそこまで言った時。
構内に聞き慣れたメロディが鳴り響き、平坦なアナウンスが間もなく電車が到着する旨を告げた。

「………!!」
(……おい兄さん!行っちまうぞ!!)

勇気とか愛情とか、色んなものを振り絞って送る言葉を叫んだ少年は、それでも愛するその背中を見送るのは耐え切れなかったのだろう。アナウンスを振り切るように背を向けて、出口に向かって走り出した。

―――思わず椅子から腰を上げかけた、その時。

「――――行くな、ルフィ!!!」

凜とした怒声が、走り去ろうとする少年の肩を掴んだ。振り返ったその白い頬に、涙の筋が幾本も伝っているのをこの目が確かに認めたその次の瞬間。

どさ、と重たい音がした。
改札の外側に投げ出された、大きな荷物。青年がそれを放り投げたのだと、脳が理解したかしていないかの瀬戸際。走り出した青年は、そのままスピードをゆるめずに改札に向かい、

けして開くはずのない仕切りを、ふわりと空を飛ぶように飛び越えた。

(…………な……、)

呆気に取られる自分をよそに、青年は荷物も置き去りに堂々と窓口の前を駆け抜け、そして、
驚きに目を見開く少年を、強く強く抱きしめた。

まるで映画のワンシーンを見ているようだった。

こちらからは、青年が何を囁いているのかはわからなかった。だが、肩越しに見える少年の目に、みるみるうちに新しい涙が溢れ出して行くのは、この衰えかけた目でも確かにわかった。

細い肩を掴んで、癖の無い黒髪に頬を押し付けて、青年は静かに何かを語りかけていた。こらえきれない涙をひた隠すように広い肩に顔を埋めた少年は、小さくふるふると、何度も何度も首を横に振っていた。

その動きを押さえ込むように、青年はその大きな手のひらで小さな頭を包み込み、もう一度強く抱え直した。

その仕草で、ああ、と思った。
余りにも愛おしげに、大切そうに触れるその様子で、気づいてしまった。

推測でしかない。憶測でしかないが、きっとあのふたりは、兄と弟、それ以上の絆を持っている。そんな気がした。

同性。それに対する戸惑いや驚きは拭えない。だが、お互いにとってどうしようもなく唯一で、不可欠なのだと、それ以上でもそれ以下でもないのだと、髪を掻き乱す大きな手が、背中に縋る両の手が、その全てを物語っていた。きっとこれ以上ないくらい純粋な想い。忘れかけていただけで、自分の中にも確かに存在したその想い。それを否定することなどできはしない。
それは、過去の自分を否定することだ。
その上に築き上げてきた、愛する家族と共にある今を、踏みにじることだ。

内容はわからない青年の言葉に、少年がためらいがちに、しかし確かに頷いたのを認めてから、私は先程上げかけた腰を、今度こそゆっくりと椅子から離した。なるべく無粋な音を立てないように窓口を離れ職員出入口から外へ出る。

一歩一歩をふみ締めるように、抱き合う彼らに近付きながら、帰ったら久しぶりに、妻の作る食事に「うまい」と一言かけてやろうと思った。

そうだ、来月の結婚記念日には、久しぶりに温泉旅行にでも誘ってみよう。今更何を言ってるんだか、と妻は笑うだろうが、それでもいい。
在来線の長旅は疲れるから、新幹線で駅弁でもつまみながら、長男がこの間連れて来た、きれいな娘さんの話でもしてみよう。

「………お客さん。邪魔して悪いが、ICカードを拝見してもいいですかね。」
「――あ、すみません…!えっと、入場券分の引き落としって、」

声を掛けられて初めて自分の状況を思い出したのだろう青年は、みるからにうろたえて後ろのポケットから財布を取り出した。少し気遣わしげにこちらを見遣る少年にひとつ笑いかけ、青年の手からICカードを受け取った。私はそのままそばかすの散る整った顔を見上げ、言った。


「――――入場取り消しで、よろしいですね。」


一瞬その言葉を反芻していた青年は、次に柔らかな笑顔で、はい、と頷いた。

その横顔を見つめていた澄んだ瞳から、最後の涙が一粒転がり落ちたのには、見て見ぬ振りをした。





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