「………エースどうした。具合でも悪いのか?」

事務所から車庫へ向かう途中の廊下。ちょうど入れ替わりで配達から引き上げてきたサッチが、すれ違いざま声をかけてきた。担当代わるか、なんてガチで心配してくれてるのがわかって、有り難いやら情けないやら。そんなに顔に出てるかな、おれ。

「……いや、大丈夫だ。悪いな。」

ちらりと笑って車の鍵を中指に掛けたままの右手を挙げた。そのまま背を向けて車庫へ向かう。

「……『エリー』のコか?」

傍目にも肩が揺れたのがわかったのだろう。それ以上畳み掛ける様な事をサッチはしなかった。チャラいチャラいと馬鹿にしても、こういう他人の感情の機微に聡い所は到底敵わない。

「………いいんだ。もう終わったようなもんだから。」

やっとのことでそれだけ返すと、振り返らないまま車庫へ続く鉄の扉を開けた。サッチがまだ何か言いたげにこちらを見ているのがわかったけど、これから苦行の様な仕事が待ち構えているおれにはそれに応えるだけの余裕はなかった。

いつもの業務用ワゴンにたどり着き、制服と持ち物の最終チェックをする。半袖シャツ、黒ハーパン、靴下スニーカー、ボディバッグ、中身も確認済み。よし、オッケー。
それから既に積んである荷物を再度リストと照合して確認する。リストを辿っていた指が、ある一点で止まった。荷物を積んだ時点で気付いてはいたが、改めて見ると結構きついもんがある。

あんなに嬉しくて嬉しくて仕方がなかったあの子ん家への荷物。それがこんなに重く感じる日が来るなんて。

おれはそんな自分を嘲るように笑うと、リストを折り畳んで運転席に乗り込んだ。全部自業自得だ。わかっている。それを理由に仕事を投げることなどあってはならない。

あの日以来、ルフィに会うのは初めてだった。







(………ばいばい、エース。明日も、頑張ってな。)



優しい柔らかい声。並んで歩いたとき、微かに触れた細い肩。この左肩に遠慮がちに預けられた額。

抱きしめたい衝動を、一度は抑えたはずだった。なけなしの自制心でブレーキをかけて、必死の思いで背を向けたはずだった。
なのに、じゃり、と砂を踏む音がして、名残惜しさから思わず振り向いた。振り向いて、しまった。心なしか切なげに見える街灯の下の華奢な背中を見た途端、なんだかもう、堪らなくなってしまった。一ヶ月振りに会えた、その喜びが今更の様に実感されて、それを手放すこの瞬間がどうしようもなく耐え難かった。
気付いた時にはもう、ルフィを腕の中に収めた後だった。

事故で抱き留めたあの時とは違う。おれは確かに自分の意志で、ルフィを抱き締めた。このまま力を込めたら折ってしまいそうな身体。掌に収まる細い肩。顔を埋めた首筋からは、太陽のにおいがした。

求めていたものがこの腕の中にあることを本能が嗅ぎ取り、全身に狂暴な程の歓喜をもたらしたのがわかった。好きだ。好きだ。ルフィ、好きだ。そう言えたなら。

その時、微かにルフィが身じろいだ。されるがままに拘束されていた腕をルフィが動かしたとき、瞬間的にその肩を掴んで引き離した。衝動に沸き立つ頭の中に、氷の塊を投げ込まれたかのようだった。

拒絶される。
そう思った。

あの細い腕で、自分より一回り小さな掌で、この胸を押し返されたら。
自分を見上げるその目に、怯えや嫌悪を見留めたら。

そうなる前に、引き離した。
そして逃げた。彼の顔を見ることも出来ないまま。


そのまま一切連絡も取らず、一週間が過ぎた。ごめん、酔ってたみてえ。そんな風にごまかす事も出来なかった時点で、本気だったと宣言しているようなものだ。決定的な何かが崩れた。もう、戻れない。


自嘲の笑みを浮かべてエンジンをかける。もう逃げられない。今日で終わりかも知れない。ルフィが望むなら担当区域を変えてもらおう。お客様の要望ならすぐ通るはずだ。
これが最後の仕事かも知れない。だったらそれこそ腑抜けた顔で行くわけにはいかない。

一度目を閉じて深呼吸をひとつ。フロントガラスに映る自分を一瞬見つめてから、シートに片腕をかけてバックで車を出す。

好きだなんて言えないくらい、大事だったのにな。
そんな心の中の呟きは、空気を抜いて沈めておく事にした。


******


「ルフィ?……大丈夫か。兄ちゃん行くぞ?」

ソファに横になってうずくまった自分に向かって、サボが優しく声を掛ける。心配させてるのはいくらなんでも気付いていたから、せめてもの気休めに顔を上げて笑って見せる。

「……ん、平気だ。いってらっしゃいサボ」

長年一緒に暮らしてきた兄の目はごまかせない。優しい兄は何も話したくない自分の気持ちもちゃんとわかっていて、何かあったのか、なんて絶対に聞かない。こうやって心配そうに自分を見つめ、大きな掌で何度も何度も柔らかく頭を撫でるだけだ。

「……辛かったら電話しろよ。絶対帰ってくるからな。」

実験があってむやみやたらと研究室を離れられないはずなのに、サボは自分が救いを求めればきっと何をおいても駆け付けてくれる。ルフィにはその確信があった。

ルフィが乾いた大きな手に頬を擦り寄せると、サボは親指の腹で弟の目元を軽く撫で、それを合図にゆっくりと離れた。

リビングのドアを閉める前にもう一度振り返って気遣わしげに微笑み、兄は二人で暮らす部屋を後にした。
玄関のドアが閉まる音を聞いた後、ルフィは再びうずくまって目を閉じた。

普通に過ごしているつもりでも、ふとした拍子にこんな風に深く沈み込むことが多かった。例えば、携帯に残った着信履歴。例えば、彼に渡したのと同じ銘柄のスポーツドリンク。例えば、他の宅配業者の配達員。そういったものを目にする度に、あの日のことが思い出されてこの心臓は絞られるように痛んだ。

強い腕に抱かれて歓喜したのはほんの一瞬。ルフィがそれに応えようと腕を持ち上げた瞬間、大きな掌がこの肩を掴み、温かな胸から引き剥がした。

ごめん、とひどく苦しそうに言われた時は、何に対しての謝罪かわからなかった。

混乱する思考の藪の中を必死で掻き分けて、「ごめん」の意味を考えた。
単純に考えれば、驚かせてごめん、なのだろう。しかし、ひどく苦々しげにそう告げたエースの声は、明らかにそれ以上の何かを含んでいた。

人の感情の機微を推し量るだとか、恋愛の微妙な駆け引きだとか、そういう複雑なことはルフィの苦手とすることだったし、良くも悪くも今まではそんなものが必要とされる人間関係を築いて来なかった。

だが、エースは違う。明らかに彼はルフィにとって唯一だった。だから考えた。必死で思考を掻き分けて。

その必死さゆえに、どんどん藪の深い方へと進み、その身に切り傷を刻みつけていることにも気付かずに。


ルフィがどうしても見過ごせなかったのは、自分が身じろいだ瞬間に彼が距離を取った事だった。

ルフィが応えようとした瞬間に、突き放されたことだった。


その事実は鋭い棘となってもがくルフィを傷付けた。ああだめだったのかと、やっぱりルフィの一方的な気持ちだったのだと、そう思った。
ルフィの気持ちにエースは気付いていたのだろうか。もしかしたらずっと気付いて黙っていてくれたのかも知れない。何が彼をそうさせたのかはわからないが、衝動的にルフィにああいう行動を取ったものの、いざルフィがその気になったらやっぱり違うと気付いたのかも知れない。

やっぱり気持ちには応えられない。思わせぶりなことしてごめん。
そういうことだったのではないだろうか。一度そう思い到ると、もうそれが唯一の正答であるように思えてならなかった。


(………馬鹿だ、おれ。ほんとに馬鹿で、コドモ。)


これが世に言う「シツレン」か。ルフィはクッションに顔を埋めて沈み込んだ。じわじわと堪えきれない涙が吸い込まれていくのがわかったが、顔を上げて水滴が頬を伝ったりしようものなら余計に打ちのめされる気がしたから、そのままクッションには濡れてもらう事にした。

と、その時。

ピーンポーン、とひどく軽々しい音が響き、ルフィは大袈裟なほどに肩を跳ねさせた。反射で目を向けたインターホンの小さな画面に映るのは、

(………、エース……!!)

あんなに会いたくて会いたくて、でも今は一番会いたくない、配達員の顔だった。

「……久しぶり。じいさんから荷物だぞ。」
「…ん、ありがと。ごくろーさん。」

ここで逃げるのも卑怯な気がしたから、及び腰で玄関先に出てみれば、彼はもう仕事用の落ち着いた笑顔と声音で現れた。彼は大人で社会人。自分とは違うのだ。そう突き付けられた気がして、ひどくいたたまれなかった。初めて触れたあの日以来、ルフィを気遣ってか荷物の手渡しはせず、廊下のフローリングまでエースが運ぶ。事故でもなんでも、もう彼に触れることはないのかもしれない。いまだにそんな女々しいことを考える自分にほとほと嫌気がさして、うんざりしながら判を押す。いつもならつらつらと出てくるはずの雑談も、今日は全くの無言のままだ。

「……じゃ、こっちが控えな。毎度ありがとうございました。」

そういって静かに笑うと、エースはそのまま踵を返した。どうして何も言ってくれないのだ。まだ自分に気を遣って、何事もなかったことにしてくれようとしてくれているのだろうか?これまでのことも、全部?

「…エース!!」

デジャブだ。いつかもこんな風に彼を呼びとめた。あのときと違うのは、自分の気持ちがマイナス方向に切迫していることと、エースが歩みを止めても振り返らないこと。

「…ああ、そうだルフィ。手数かけて悪ィけど、もしなんだったらうちの会社に電話入れてくれねえかな。伝票に番号入ってるから。そしたら多分、おれが言うよりすんなり担当区域変えてもらえるはずだから。」

気まずい思いさせてごめんな。今まで色々ありがとうな。そう言ってエースは背中越しに少しだけ顔をこちらに向けた。前髪で隠された表情がどんなものかはわからなかったが、小さく笑みを浮かべているのだけはかろうじてわかった。
なかったことにしようとしているのではない。彼はもう終わりにしようとしているのだ。胸の奥がどんどんつめたくなって行くのに対し、目の奥だけがどんどん熱を持っていく。さよならなのだ。きっともう。今までは爽やかながら温かかったその背中が、今は遠く冷たく見えた。

「………じゃあ、これだけ教えてくれよ。なんで、あの時抱き締めたりしたんだ…?男でもいけるか、ちょっと試してみたかっただけなのか……?」

その言葉で肩が強張ったのがわかった。図星だろうか。
自分の声があまりに平坦なことに気づいてはいたが、もう空っぽに近いこの心からはもうなにも出てはこないから、それは許してほしかった。半分投げやりな気分で言葉を紡ぐ。最後ならもうどうにでもなればいい、疑問だけは残したくない、そんな気持ちで。


「…エース、いつから気付いてたんだ…?ずっと気付いて、黙っててくれたのか?  おれが、エースをすきだって。」


******


抑揚も温度もないルフィの声に、身を切られるような痛みを感じながらひたすら耐えた。傷つく資格なんかない。兄のように慕う者から理不尽な裏切りを受けたのは彼の方だ。痛いのは、彼の方だ。そう、思っていたのに、

おれが、エースをすきだって。

耳を疑った。聞き間違えたかと思って反応が遅れたが、どう考えても聞き間違えなんかじゃないことに気がついて、弾かれたように振り向いた。

「ル、 ………!!」

ルフィ、と呼びかけようとした声は不自然に途切れた。
俯くルフィの頬を、透明な涙が静かに伝っていたからだ。満面の笑顔、ちょっと怒ったような顔、少し照れたようなはにかみ顔。今まで色んな豊かな表情を見てきたけれど、涙を見るのは初めてだった。こんなにはらわたを絞られるような切ない顔をするなんて知らなかった。
声はもう、出なかった。

「……、おれ、おれ、ほんとにエースがすきだったけど、…でも、っ、エースは優しいから、ずっと、気、遣って、黙っててくれたんだよな。」

ルフィが言っている意味がわからなかった。いや、意味としては理解していても、それはこれ以上なく自分に都合のいい内容であったから、自分の願望が生みだした幻聴かなにかじゃないだろうかと、信じることができなかったのだ。

「…っ、ごめ、んな、エース。でも、おれ、あえてよかった。エースに、あえて、よかった。……すきになって、ごめんな……!!」



「…ッルフィ!!」

やめてくれ。確かに終わらせようとしたのはおれだけど、そんな悲しすぎることを言うのはやめてくれ。おれも、おれが、おれだってお前が、
そう言おうと思って細い肩を掴んだ、その瞬間、

ピリリリリリ、と高い電子音が鳴った。仕事用の携帯の音だった。緊急か、割り込みの配達か。

肩を掴まれた瞬間に顔を上げたルフィの、涙に濡れたやっぱりきれいな眼からは目が離せないまま、仕事慣れした脳がどこか冷静に情報を処理して正答例を弾きだす。
今すぐにルフィの肩から手を離し、腰のサブバッグから携帯を出して電話に出る。配達員である以上それが正解。

……泣いているルフィを置き去りにして?
有り得ねえよ!

片手をバッグに突っ込んで手探りで携帯を捜しあて、一度開いてそのまま容赦なく通話を切る。
まだ涙も乾かぬうちに、おれを心配して戸惑ったようにエース、電話、と呼びかける健気なルフィを安心させるために一度小さく微笑んだ。そしてすぐさまシャツの裾に手をかけて、

配達員の証である制服を、思いっきり脱ぎ捨てた。

胸ポケットに入れていたペンやらハンコやらが、ばらばらとシャツと一緒に床に散らばるのが聞こえたが、今はそれどころじゃない。

「…っ、エー、ス…?」

黒い袖なしのアンダ―一枚になったおれを驚いて見つめたまま、ルフィが呆然と名前を呼ぶ。
そう、おれだ。「白ひげ宅配便の配達員」じゃない、「社会人」じゃない、生身のおれ。お前が気にすることは何もない。社会の常識とか世間の目とか会社のメンツとか、そういう冷たいめんどくさいことは全部おれが受け止めて呑みこんでやるから、これから一世一代の賭けに出るから、だから今はそのきれいな眼で「おれ」を見てくれ。

「……勝手なことして振り回してごめん、ルフィ。お前が何を勘違いしてるかおれどうしてもわかんねえけど、でも、お試しとか遊びとか遠慮とか、そういうのでおれがルフィに接したことは何もない。いっこもない。」


「ルフィ、好きだ。お客様だってことも弟みたいだってことも抜きにして、おれずっとルフィの事が好きだった。…付き合って下さい。お願いします。」

社内研修で叩き込まれた角度より深く深く頭を下げる。配達の神様には祈れない。おれはもうその立場を飛び越えちまったから。祈るなら神じゃない。今のおれの運命を握るのは、

「うそじゃ、ないよな……?」

は、と顔ごと上半身を持ち上げる。

「……………そうだったらいいのにって、ずっと、思ってた……。」


一言一句聞き洩らせない。逸る心臓を抑えてルフィを見つめた。きれいな涙がまたひとつ、またひとつと、宝石か何かの様にほろりと転げ落ちていった。もったいないな、この手で受け止めてやりたいな。頭の端でそんなことを思っているのは、余裕ではなく情報過多で思考停止に近い混乱からだ。


「そうだったらいいのになって、ずっと、ずっと、思ってた……!!!!」

そのまま、段ボールの横にしゃがみ込んで泣き出してしまったルフィにつられるようにして、おれもよろよろと玄関の床に膝をついた。恐る恐る、ルフィの小刻みに揺れる華奢な肩に手をかける。

「……ルフィ、抱き締めても、いいか…?」

さっきまでの勢いと覚悟はどこへ飛んで行っちまったのか、チキン丸出しのそんな笑える問いかけに、ルフィはやっと少し顔を上げて笑ってくれた。涙にぬれた笑顔も、どうしようもなくきれいで可愛い。愛しかった。それから、そのまま紡ぎ出した答えも。

「……、はやく……っ!!」

リミッターを振り切った嬉しさと喜びと幸福感が、まるで噴水のようにこの身を突き上げた。衝動のままに、力任せに腕に収めた細い身体はあの日と同じ、いやそれ以上に、どうしようもなく、愛しかった。

そろそろと細い腕が背中に回ったのを感じて、更に抱きしめる両手に力を込めると、ルフィがやっと安心したようにほっと息を吐いた。よくわからないけど、これでやっと色んなもんが溶けて、あったかい感情に紛れて行ったような気がした。そのままゆっくりとルフィの腕の力も強くなっていくから、頬に滑らかな彼の髪の感触を感じながら、もう幸せで死ねるなら今だと思った。



「ちくしょおおおおおおこの後仕事なんてやってられるかああああ!!!!!今すぐやめてやる配達員なんか!!!!!!」
「…! だめだぞエース、おれ配達してるエースも好きだ!!見られなくなったら嫌だからな!!」

泣く泣く車に戻ったおれが、それからマッハで仕事終わらせて会社を上がったその足でルフィのマンションまですっ飛んで行ったこととか、あのジャストタイミングの電話が、テンションどん底だったおれが事故って死ぬという最悪な妄想を完成させたサッチの余計極まりない安否確認の電話だったことが判明したから、感謝もこめて思いっきりボコってやったこととか、まあそれは言わんでもいいだろう。






とりあえずくっついたみたいです!
これからの二人もちょいちょい書いて行くつもりですが、一区切りということで。

このシリーズは、本当にお客様のお陰でここまでのものになりました。応援、本当にありがとうございました。