同僚の中にも、携帯の着信音を一人一人変えたりだとか、カテゴリーごとに変えたりしているまめな奴がいる。
例えばサッチなんかは仕事場、プライベートの友人、それから合コンで知り合った女の子なんかで分けている。どの着信に対する反応が一番速いかとかは言うまでもないだろう。チャラ男め。
おれはというと、正直言って面倒臭がりなので今までそういうことはしなかった。歴代の彼女においても、着信音を変えるどころかスピードダイヤルに登録したことすらない。
いや、「なかった」。
さて、察しのいい奴ならもう気が付くだろう。約1ヶ月前からおれのスピードダイヤル0番はあの子。
着信音は、
「おい誰の携帯だ!鳴ってんぞ『愛しのエリー』!!」
「うぉおおおやべええええ!!!」
調子に乗って酒注いで回ってるうちにテーブルに携帯置きっぱにするなんておれとしたことが!!
「おお!!?エースが『エリー』!!?誰だ誰だ、出てやろーかエースー!!」
「ざけんなバカリーゼント燃すぞコラ!出んな触んな汚れる!!はいもしもし!!」
余計なお世話の権化みたいなサッチ(チャラ男)に対し、瞬発力で罵詈雑言の数を尽くした後、おれは毒牙に掛かる寸前の携帯を救出した。
エースひでェ、マジギレだよアレ、なんてサッチの嘆きが背中に聞こえたが知ったこっちゃねえ。大事な大事なこの子の声をチャラ男になんか聞かせてたまるか!!
『…エース?ゴメン、今忙しかったか?』
「全ッ然!!付き合いのつまんねー飲み会だから!!」
オイ!なんて息の合ったツッコミが同僚達から起こったが、構わず座敷を抜け出した。そのまま外に向かって歩きだす。
『ホントかぁ?めちゃくちゃ盛り上がってたじゃん。いいよおれかけ直すし、』
店の自動ドアを出て、今は誰もいない入店待ち用の椅子に腰掛ける。
殊勝な申し出も今はあんまりありがたくない。ルフィはおれが社会人だってことをすごく気にしているらしい、ということが最近わかってきたからだ。そんなのいいのに。大体、今のおれにとっちゃお前が仕事のモチベーションそのものなのに。とはまだ言えない。言えるようになる予定もないけどな。
「いいからそんなん気にすんな。おれはルフィと話したいからいいんだよ。」
うーん、なんてまだ渋るルフィに畳み掛ける。
「大体なお前、宅配便業者の飲み会想像してみろよ。体育会系筋肉野郎どもの集まりだぞ。しかもこの残暑の熱帯夜に!何の拷問だっつーの」
自分を差し置き、半ば本音で同僚を散々にこき下ろして、やっとルフィがけらけらと笑い声を上げた。
ひでえエース、冗談に聞こえねーぞ、なんて笑いに震える声がもうなんつーか、愛しい。
冗談じゃねーもん、なんて平然を装って返せば、また心底楽しそうに笑ってくれる。あーおれ、ほんとにこの子が好きだ。そう実感するのは何気ないこんな時だったりする。ルフィをもっと近くで感じたくて、小さな端末を耳に押し付ける。自分で言うのもなんだけど、今おれ結構優しい顔で笑えてるんじゃないだろうか。
「…で?どうしたんだルフィ、なんか言いたいことあったんじゃねえのか?」
実はルフィがこんな風に突然電話してくるパターンはあんまりない。何気ないことでメールしてて、そのうち大体どっちか(7割ルフィ)が「なあ、いま電話してもいい?」って聞く。そしたらどっちか(7割おれ)が返事すっ飛ばして電話掛ける。
何でおれから切り出すのが3割かって?チキンなんだよバカヤロー、言わせんな!
『……ん。あのなエース』
「うん。」
『こんなこと、わざわざ言わなくてもいいし大したことじゃないんだろーけど、』
「なんだよ、焦らさないで言えよ。」
安心させるつもりで笑い混じりに促したのが功を奏したか、ルフィが小さく深く呼吸をしたのがわかった。
『……あのな、あのなエース。おれ、免許取れたぞ。来週、そっちに帰るな。』
たっぷり十秒は沈黙した。いや、せざるを得なかった。驚きやら感動やら歓喜やら、もう色んなもんが一緒くたになっておれの喉を詰まらせていた。
エース、と不安げにルフィが呼ぶのは聞こえていたが、それでもどうしようもなく。
だってだって、あのルフィが!
「……すっ、げ、ルフィ、おま、頑張ったんだなあ!!一発合格だろ!?あんな筆記苦手だって言ってたのに!」
話を聞くかぎり実技だって相当怪しかったはずだ。たかが自動車免許と侮るなかれ。なんたって、当初電話で小テスト的な感覚で聞いた「黄色信号の意味は?」の問いに、この愛すべき常識しらずは「もうすぐ赤になるから全力で走り抜けろ!」とのたまったのだから。
どこの熱血スポ魂漫画だ。ウケ狙いじゃないあたりが恐ろしい。驚きも通り越して爆笑したのは言うまでもないだろう。
『…うん、結構頑張った。半分くらいカンもあるけど。』
「お前野生の鼻利くからなあ。でもそんだけじゃどうにもならねえよ。おめでとう、よかったな。」
『エースが問題出したりして手伝ってくれたし。ホントありがとな!!エースと飯食う約束してたし、早く帰りたかったんだ、おれ』
「……ん、そっか。そだな。」
ちょっとした沈黙を挟んでやっと絞り出したのはそれだけ。沈黙の間におれが何を耐えたかは推して知るべし。
ああ、会いてえなあ。
「…いつ、帰ってくるんだ?また夜行か?」
『うん、バスだな。土日は混むから、月曜の夜に乗って火曜の朝着く奴がいいんじゃないかってサボが言ってた。多分そうする。』
「じゃあ4日後だな。」
できるならもうその日のうちに会いに行きたいけど、まさかじいさんだって孫が帰るの追っ掛けて荷物送ったりはしないだろうし、おれがルフィに会えるのはもうちょい先…、
『………な、エース。うちに来るの、その日じゃだめか?』
あれ?今おれ願望口に出した?
『あのな、サボもな、そろそろ実験区切り付きそうだって言っててな、』
『……あ、エース次の日も仕事だろうし、無理だったら全然いいんだ。』
そう一息にまくし立てたあと、ルフィはただ、と言い置いてゆっくり続けた。
『……ただ、おれが早くエースに会いたい、だけ、だから』
ゴン!
「〜〜〜〜ッ!!」
『!!? なんだエース大丈夫か!? すげえ音したぞ今!!』
「……ッ、いや、大丈夫、ちょっと」
君の余りの可愛さに意識が遠のいて後頭部を壁に強打しましたその音です、なんて言えるかよ!
えーっと火曜日火曜日、飲み会とかなんか入ってたっけ!?いや入ってても蹴るけど!昼間の仕事だけだよな!?夜は空けられるはず!うん、行ける!!
「火曜日な!うん、行く、絶対行く!配達立て込んでも絶対終わらせて行くから!」
『まじ!?エース無理してないか?』
「してない!全然してない!」
むしろそれを楽しみにどんな激務でも耐えられる!
『…ん、わかった。よかったー、そしたら最短でエースに会えるな。』
しし、なんてホントに嬉しそうに笑ってくれちゃって。以前のおれなら、これだけで悶えてプレイバックして満足してた。
でももうそれだけじゃ収まらない、切ないような苦しいような、どうしようもない感情を自覚したのはいつからだろう。
脈ありとか可能性とか、それ以前に男同士だし、ただルフィが兄ちゃんもう一人できたくらいに思ってるのはわかってる。それでもこの子の仕種や言動に、一喜一憂したいおれを誰も咎める権利なんかないはずだ。
深く考えないほうがいい。おれはルフィが好き。おれがルフィを好き。それだけ。それしか、ない。
「……ありがとな、ルフィ。楽しみにしてる。」
いつの間にか身についた常識的な振る舞い。
これをぶっ壊したら何か世界は変わるだろうか。言うまでもない、間違いなく変わる。それもおれとルフィにとっては、恐らくマイナス方向に。
これを機会に、ここで収めるべきなんじゃないだろうか。ちょっと仲いい配達の兄ちゃんから、一緒に飯食う友達、もう一人の兄貴。これで充分じゃないだろうか。
現状維持。そんな言葉が頭をよぎる。
純粋に楽しみで浮かれる頭ん中のその反対で、引き際を探って静かに沈んでいく自分がいた。
当日仕事の目処が立ち次第連絡する、と約束して、やはりこちらの飲み会を気にしてかルフィは早々に電話を切った。
ぱたん、と携帯を閉じた後、なんとなくすぐ戻る気にはなれなくて、そのままパイプやら排気口やらがむき出しの飲み屋の天井を見上げる。
本気がこんなに辛くて怖いもんだとは思わなかったな、なんて、柄にもなくセンチメンタルに浸りながら。
「……お、偵察兵がお帰りなすったよい」
「おうどーだったサッチ、エース鼻の下伸ばして話してたか?」
「………いや、あれはからかっちゃなんねえ感じだと思う。」
「……?」
ありゃマジだと思ったよ、とはサッチの後日談だが、もちろんこの時のおれには知ったことじゃねえ。
*******
「…………だからな、おれも変わった名前だなーとは思いつつも伝票にはアルファベットで書かれてたから違和感なくて、外人さんなら珍しくもねえかなと思ったんだよな。で、表札にもてっきりアルファベットで書かれてるんだろうと思ってた訳よ。…ってバカルフィ、まだオチでもねーのに笑ってんな」
そういって、余計なくらいイケメンでスタイルのいい「配達のお兄さん」、エースは、うちの弟の頭を抱え込んだ。
持ち前の人懐っこさでエースの懐に飛び込んだ弟は、どうやら既にこの話を聞いているらしい。我慢しきれない笑いで肩が震えていて、オトす前に吹き出されては敵わないと、頭ごとエースに押さえ付けられている状態だ。
いつの間にこんなに仲良くなったんだか。これじゃまるでどっちが兄弟だかわかんないな、とサボは微笑んだ。
「……でよ、いざその家に着いて表札みたら、ご丁寧にカタカナで書いてる訳よ。『ゴメス』って。」
「ぎゃはははは!!」
「そう来るか。」
ずいぶん親切だな、なんてツッコミにもならないようなツッコミを入れてサボも笑った。
ルフィの方はついに耐えに耐えた笑いの堤が決壊したようだ。腹を抱えて、胡座をかいたエースの膝に突っ伏して笑っている。酒で笑いのハードルが下がっていることもあるだろうが、何よりエースがいるこの空間が楽しくて仕方がないのだろう。
そのエースはと言えば、そんだけ笑ってるお前見てる方が笑えるわ、なんて膝元のルフィの頭をぽんぽんやりながらこちらも爆笑中だ。
口元に笑いを残したまま、サボはふむ、と小さく唸った。
弟が、最近妙に楽しそうな事には気が付いていた。顔なじみの宅配便の配達員と仲良くなって、名前で呼び合うようになったこと、連絡先を交換したこと、時々メールや電話で楽しそうに会話していることも知っていた。
サボ自身も、弟の話題で少しずつ話すようになって、実は同い年だと知ったあたりから、エースという人物に興味を抱きつつあった。周りにはいないタイプの、真っ直ぐでからっとした人間性。もう一人兄弟がいたらこんな感じかな、なんて、勝手に想像してみたりした。
弟も同じだろう、きっと兄がもう一人出来たような気でいるのだろう。そう思っていた。数時間前までは。
(うーん、これは、違うよなあ……。)
最初にあれ、と思ったのは、エースが遠慮気味に我が家の玄関に現れた時だった。
いつもの制服ではない、胸元にさりげなくブランドロゴの刺繍が入った黒いポロシャツ、細身のジーンズという格好で現れた彼に、ルフィがほんの少し、見惚れていたような気がした。後でいつもの服じゃないからびっくりした、なんて当たり前のことを言って笑っていたけれど、あれはきっと「気がした」のではなく、その通り見惚れていたのだ。
一度それに気がついてみれば、色々と思い当たる節はあった。
大体にして弟はまめな性格ではないから、こんなに誰かと逐一連絡を取っていることなんかそうそうない。今日にしたって、夕食のお好み焼きを焼いている間も、腹が落ち着いて酒に移った後も、ずっと彼の傍から離れない。元々スキンシップは激しい方だったけど、それにしたってこんな、片時も誰かから離れないなんてことが今まであっただろうか。
何より、
(…なんか、かわいいんだよなあ、あいつ。)
兄の自分に向けるのとはまた違う、信頼と親愛、それから、まごうことなき好意。男の目線で見てみれば、持ち前の明るさと人懐っこさに加え、今の弟はひどく男の庇護欲を煽る。要するに、可愛い。
これはもう、決定だろう。
そして肝心のエースはというと。
(こればっかりは、何とも言えないんだけど。)
少なくとも嫌がっていないというのはわかる。むしろこれはいい感じなのではないかと、サボは思う。兄の欲目だと言われればそれまでだが、不思議とそういうことに対して嫌悪感は沸かなかったし、エースなら、大事な弟を任せてもいいと思った。いい奴だと、出来た男だとそう思った。
ただ、ルフィがそれ以上エースの側へ踏み込もうとすると、するりと身を引くのが気になった。
短い付き合いだが、律儀で真っ直ぐなエースの性格はある程度理解したつもりだ。彼は社会人、ルフィは学生。色々と考えることもあるのだろう。何より、エースの気持ちは不確定要素だ。サボの側から変に手を出して、話をこじらせたくはなかった。
(…しばらく、様子見かな。)
そう結論付けて、サボは缶ビールに口を付けた。笑い涙に滲んだ眼を拭う弟と、楽しそうに笑うエースを穏やかな気持ちで見守りながら。
そう、このときはまだ、穏やかな気持ちで。
******
「はあー、あっとゆー間だったなー。泊ってけよエース―。」
「そうしたいのはやまやまだけどな、明日も仕事だし。」
「だよなあ。」
酒を飲むつもりで電車で来たエースは、終電に合わせて名残惜しいけどそろそろ行くわ、と腰を上げた。その彼を送っていく、と申し出たのはルフィだった。
危ないから、と固辞するエースと、本音は少しでも長く一緒にいたいルフィとの押し問答の末、マンションの裏の公園まで、という条件でエースが折れた。公園を通り抜けると駅までは近道だ。
公園の出口で足を止め、エースはルフィに向き直る。
「ほんとありがとうなルフィ。おれ一人暮らしだし、すげえ楽しかった。サボにも言っといてくれな。」
「うん!またいつでも来いよエース。サボも楽しそうだった!」
おう、と優しく答えるその笑顔が、どうしようもなく名残惜しい。
エースは気付いているだろうか。ここまで歩く道すがら、ルフィが友達同士のそれより意識して、エースへの距離を詰めて歩いていたことを。
その手に触れることはできないけれど、せめて肩が一瞬触れる程度は、許してほしかった。
でもきっと気付いてないんだろうな、とルフィは思う。
こんなに触れたくて触れたくてしかたがないのは、きっとおれだけなんだろうなと、そう思う。
一度そう思ったら、なんだか無性に切なくて切なくて、泣き出しそうにすらなる自分がいて、ルフィは心底うろたえた。
じゃあな、送ってくれてありがとう。部屋まで気を付けて帰れよ。
大人の顔で笑ってそういうエースが、どうしようもなく切なかった。だから、
「……、ルフィ、」
とん、と軽く音を立てて、ルフィはエースの肩に額を当てた。
手も触れない。肌も触れない。15センチの距離は保ったまま。黒いポロシャツの肩に、額を寄せただけ。だがそれが、いまのルフィにできる精一杯で、ルフィがそれ以上踏み込んではいけない、ぎりぎりのラインだった。
「………ばいばいエース。またな。明日も、頑張ってな。」
そのままの姿勢で言って、かすかなエースの体温を感じて、ゆっくり離れた。
少しの沈黙のあと、おう、と答えたエースの声がかすれていたのは、きっと酒かなにかのせいだろう。女々しいことをした自覚はあって、エースが戸惑っているのもなんとなくわかったから、急に気恥ずかしさを感じてルフィはまともにエースの顔を見られないままだった。ぽんぽん、と優しく頭をたたく手に顔を上げた時には、エースはもうその広い背中を向けた後だった。そのまま見送っていたらどんどん切なくなるだけだから、ちょっとだけその背中を見つめてから、ルフィもそのまま背を向けた。
だからルフィは気付かなかった。背後でふと足を止めたエースが、何かを振り切ったようにこちらを振り向いたことを。
今来た道を大股で引き返し、ルフィの華奢な背に向けて、その両腕を伸ばしたことを。
少し早足の足音が聞こえたな、と思って振り向いたときには、きつくきつく抱きしめられた後だった。
驚きで身体が思わず強張ったが、首周りに埋められた髪や、広い肩から香る微かな香りが、初めて彼に触れたあの日と同じなことに気がついて、ルフィはほろりと力を抜いた。エースだ、と脳がやっと情報を処理した後、今度は心臓がじわじわとその拍数を上げてゆく。
エースに伝わる、と思ったけれど、彼の腕の力はルフィの細い腕が適う様なものでは到底なかった。
だがそれとは無関係に、抵抗する気力をも奪うほど、エースの腕の中は暖かかった。きつくて苦しくて暖かくて、どうしようもなく、嬉しかった。
嫌じゃない、嬉しい。そう伝えたくて、その広い背中に手を伸ばそうとした。
伸ばそうと、したのに、
「……ッ、ごめん……!!」
ルフィの肩を掴んで引き離すと、何かひどく苦いものを吐き出すようにエースはそう言った。
そのまま、ギリ、と歯を食いしばったかと思うと、ルフィの顔も見ないまま再び背を向けて走り去った。ルフィの宙に浮いた手も、そのままに。
呆然としたまま、動けなくなったルフィはその場にゆるゆるとへたり込んだ。
何が起こったのかよくわからなかった。わからなかったけれど、
なにか、大きなものが崩れて失われた。
それだけは、わかった。
(現状維持?)
(クソ食らえ)
サイレンスピンポン
ルフィー、マイラーブ、ソースウィート♪
予想以上に恥ずかしいエース。
「ゴメスさん」の話は後輩から聞いた8割実話。
全部全部台無しですみません。
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