大学から最寄りの駅まで歩く道すがら、頬に一つ冷たい水滴を感じたと思ったら、鉛色の空から次々と雨粒が降ってきた。あーあ、と心で呟いて、おれは空を見上げた。
まわりを見渡せば、同じように歩きながらうんざりといった様子で空を見上げる人が何人か。
最近はこうした突然の雨が多い。季節柄仕様がないのかもしれないが、この勢いと予告なしの唐突さにはほとほと辟易する。折り畳み傘なんて気の利いたものを自分が持っていないのはもはやテンプレートだ。
(…って、うわ、結構来たな…。)
みるみる間に雨粒は大きくなり、水滴がアスファルトを叩く音も随分大きく強くなってきた。
とはいえ、ここで大学に引き返したり、どこか店に入って雨宿りをするのも癪だ。駅はこの交差点を渡ればもう目の前なのだから。
(……っつっても、この信号長えんだよなあ…。)
おれはせめてもの雨よけに、筆記用具やテキストが入ったプラスチックのケースを頭に乗せた。携帯やら財布やらは、背中に回したエナメルのボディバッグに入れているから、まあ大丈夫だろう。赤信号は、未だ変わる気配はない。雨はますます勢いを増し、半袖のシャツの胸から上を染め上げていく。まだ濡れの目立たない黒のTシャツで良かった。が、そんな悠長なことを考えているうちに、ケースを掲げた右肘から水滴が滴った。
これはさすがに電車で目立つかも、なんてちょっと後悔し始めたころのことだった。
通行人の少ないこの時間帯、やたら近くに人の気配を感じるな、と思った途端、肌を叩く水滴が遮られたことに気がついた。だれか友人が救いの手を差し伸べてくれたかな、と思って振り返ると、
「……え…」
見知らぬ少年が、何の変哲もない透明なビニール傘を差しかけてくれていた。
「風邪引いちまうぞ。駅までだろ?一緒に行こう。」
同じ大学の学生だろうか。恐らくおれよりは年下だろう。もしかしたら新入生かもしれない。それほどまでに少年は少年然とした幼さと純粋さでそこに立っていた。人懐っこく笑った顔は、そこだけ雲間から太陽が顔を出したかのようだった。
「……、あ、ありがとう…。悪いな、駅すぐそこだから大丈夫だと思ったんだけど」
「ほんと急に降ってきたよな―。おれもこの傘さっき買ったばっか!」
いつもならおれも走ってくんだけど、今日は友達にマンガ借りちったから、と手に提げた紙袋を少し持ち上げた。
あ、そのマンガおれも持ってる、なんて戸惑いながらも会話を続ける。まるで数年来の友人の様に、えーまじかよおれいまから読むんだから続き言うなよ!なんて壁も何もあったもんじゃない反応を返してくれる少年に、おれも自然と笑みが零れた。
改めて彼を見やると、荷物はリュックひとつ、片手でマンガの入った紙袋を胸元に抱えて雨から守るように持ち直した。その仕草ではじめて、少年がおれの方に傘を軽く傾けてくれているのに気がついた。細い肩が濡れている。抜かった。
「…なあ、傘貸して。おれが持つよ。」
「え、いーよすぐそこだし」
「いいから、持たせて。マンガぬれちまうだろ。」
ちょっと強引かな、と思ったけど、傘の柄を持つ小さな手を上から半分包み込むようにする。直接触れた手に驚いたように、ぴく、と細い指先が緩んだ隙に、その白い柄を奪い取った。
「ごめん、手え冷たかったか?」
「…、あ、ううん平気だ。…ごめんな、ありがとー。」
「いーえこちらこそ。」
ここで信号がやっと青に変わった。二人並んで横断歩道を歩きだす。こころもち、傘は少年の方へ寄せる。左肩が濡れるのがわかったが、それは今さらだ。広い横断歩道を渡りきり、駅の軒下に潜り込む。
「はあ、助かったわ、ほんとありがとな。」
傘を畳んで水滴を振り落とし、ビニール部分を巻き留める。安堵の溜息混じりにそう言って少年に傘を返すと、どういたしまして、とあの晴れ間の様な笑顔で応えてくれた。
「な、何線?」
「地下鉄!」
そうか、残念。おれはJRだからここでお別れだ。
訳も分からず名残惜しくて彼を引き止めたくなるが、このままカフェに連れ込むのもなんだかチャラくていけ好かない。そこまで一人悶々としていると、少年はおもむろにこちらに向かって手を伸ばした。とっさのことにおれが反応出来ないでいると、彼はいまだ水滴が滴っていたおれの前髪を一房掴み、
軽く絞るように細い指先で髪を梳き、滴る水滴をぬぐい取った。
「……早く帰って乾かさないとだな。」
そんな風に笑って言う顔は、さっきまでのなにもかも蒸発させそうな明るい笑顔ではなく、どこかみずみずしい、いうなればちょっと艶さえ感じさせるような、そんな笑顔だった。
一度どきん、と大きく鳴ったのを皮切りに、じわじわと高鳴っていく心臓。それを自覚する前に、呆然としたままのおれを取り残し、じゃあな、と声をかけて少年はくるりと背を向けた。何か言わなければ。この動悸が何なのかわからないけれど、今なにかアクションを起こさなければ彼が行ってしまう。でも何を?
「……おい!お前、」
そこまで声に出して後が途絶えた。ボキャブラリーの貧困さが恨めしい。どうしたらいいのだろう、こんな感情、こんな状況、いままで経験したことがない。
改札に降りて行く階段の手前で足を止め、うろたえるおれをしばらく黙ってじっとみていた彼は、ふ、と笑うとおもむろに口を開いた。
「またな!風邪引くなよ!」
2,3度大きく手を振ると、明るい笑顔の残像を残し、彼は風のように去っていった。
しばらく呆然としたまま立ち尽くすおれを、迷惑そうに何人かが避けて行ったけど、そんなこともう、構っちゃいられなかった。
雲間から光が差し、空は大分明るくなってきた。雨はもうすぐやむだろう。
今思えば、一年前のこの時のことが始まり。その数日後、大学内を捜してさがして捜しまくった彼を構内で見かけた時、全力ダッシュで追い掛けてその手首を掴んだのが、きっと2度目の始まりだった。
今ルフィはおれの隣で完結したあのマンガの話をしていて、おれはコンビニで買ったビニール傘をルフィの側に傾けている。濡れるから、と言い訳して抱き寄せた細い肩が、ほんとはただ彼に触れていたいからだって、そんなことはきっと言わなくても彼も分かっている。
would u like to get under my umbrella?
ひねりのないタイトルワロス
どしゃぶりの雨ん中魔が差してチャリで外界へ飛び出した花村に、交差点の信号待ちで傘をさしかけて下さったマダムに土下座したい。
すみません、馬鹿なんです。
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