「ジャックダニエルの憂鬱」後日談です。



都会の喧騒から逃れた裏通りの小さな店、"D"。今日も今日とて黒一色のシャツとスラックス、ギャルソンエプロンを身につけて、兄弟務めるバーテンダーが客に酒を振る舞っている。
が、今日がいつもと違うのは、週の中でも土曜日の夜であるということ。そして、日付もとうに変わった閉店1時間前。この曜日のこの時間帯はエースにとって鬼門だ。

なぜなら。


「ルフィ、来たわよ。」
「おーナミ!いらっしゃい!」

エースの大事な大事な熱帯魚を虎視眈々と狙う、カワセミがやってくるからだ。


「こんばんは、お兄さん。」
「……毎度どうも。」

君にお兄さんと呼ばれる筋合いはない、なんてどっかのホームドラマのワンシーンじゃあるまいし、とてもじゃないが言えやしない。
せめてもの仏頂面で、不本意ながらも覚えてしまった彼女のファーストオーダーを作りにかかる。ジンとトニックウォーター、マドラーで2、3回ステア。ジントニックが嫌いになりそうだ。

今日は客の掃けがよく、彼女の他には会社帰りとおぼしき30代くらいの男女が一組いるだけだ。その彼らも終電に合わせてそろそろ帰る気配を見せている。
一方ナミや兄弟の家は、方向や距離は違うもののお互い歩いて行ける距離にあるので問題ない。

「…ジントニックです。どうぞ。」
「ありがとう」

にこり、と笑って受け取るその姿は文句なしに美しい。まったくもって、うちの熱帯魚は厄介な相手ばかり魅きつける。エースは嘆息した。

ナミが客足の途絶えるこの時間帯を狙ってやってくるのも、他の客の注文に邪魔されずにルフィと言葉を交わしたいからだ。
なんで解るかって?そんなのおれでもそうするからだ。

エースの機嫌はナイアガラ並に急降下した。ナミがそれをわかっているであろうこともそれに加速をつける。するとそこへライフブイのように投げ込まれた、弟の弾んだ声で意識が感情の滝壺から浮上する。

「なあナミ!写真見たぞ、雑誌で!やるなあお前!」

「見てくれたの?ありがとう、よくわかったわねー」
「あんなおっきく載ってたらわかるって!…つっても、見つけたのはエースなんだけどな」
「……あら。」

緩く波打つ長い髪を揺らしてナミがこちらを振り返った。長い睫毛に縁取られた眼が軽く見開かれたのは、皮肉でも何でもなく純粋に驚いているようだ。
エースは若干重く感じる口を開いてその驚きに答えた。

「……おれも、目に入ったのは偶然なんだけどな。表紙に、ナミちゃんの名前があったから。」

本屋でたまたま眼にしたグラフィック雑誌。表紙の写真に目を惹かれ、ふと手にとるとそこには表紙の撮影者として、見知った彼女の名前があった。
どうやら雑誌主宰のフォトグラフコンテストの大賞作品だという。

数ページめくると見開きサイズにまで引き伸ばされた件の一枚が掲載されており、縮小され文字に埋もれた表紙ではわからなかったその細かな情景と含められた意味に、図らずも胸が熱くなった。
そして迷わずそれを購入し、複雑な感情も忘れ真っ先に弟に知らせたのだ。

「……こういうことだったんだな。ナミが、選んだ方法。」
「…ルフィのおかげよ、何もかも。………それから、エースさんも。感謝してるわ。」

ありがとう、と微笑むその顔はいつもと違って何の含みもなく、そしていつも以上に美しかった。

ナミが被写体に選んだのは、故郷のみかん畑だった。
山の斜面に沿って植えられた幾本ものみかんの木が、通路を開けて左右に広がる。その向こうには、更に遥かに広がる海と、全体をたわわに実った果実と同色に染める、沈みかけた夕日。丘の上からそれを見下ろす構図で撮られたその風景。

通路の奥には、夕日で逆光になった華奢な背中。細く伸びた長い影。彼女の細かろう腕には、きっと豊かな実りが抱えられている。

題名は、「パラダイス・ロスト」。


「……どうなったんだ、親戚のほうは。」

問い掛けたのはエースだった。彼女の抱えていた事情は、彼自身も知るところであり、だからこそこの写真の持つ意味に胸打たれたのだから。

「……雑誌見てもらったんならわかると思うけど、開発で農園が危ないってことは解説で載せてあるの。読者からの反響も結構あって、編集部にも開発に反対してくれる投書が集まってる。」

「ただ、まだこれだけじゃ弱いわ。最終的には『パラダイス・ロスト』を利用して観光地化まで行きたい。映画のロケ地とか提供してる会社にも売り込んどいたわ。農業体験もできるように姉と企画立ててるとこ。観光地としてある程度軌道に乗ったら、もう二度とあんな馬鹿な開発に乗せられなくて済むようになる。」


あとは、私達が折れないだけ。

強い光を宿した瞳が、決意の笑みを浮かべて煌めいた。


******


「ねえルフィ、何かご褒美くれない?」

(…………!!)

来店して数十分がたったころ、たった今思いついたかのようにナミが口にした一言で、危うくグラスを取り落とす所をエースはかろうじて踏み止まった。
何かとてつもなく不穏な単語が聞こえた気がする。


(………ご、)
「ご褒美?」

きょとん、と首を傾げてルフィが問い返す。深入りするな、と抱きしめてその口を塞ぎにかかりたいが、もはや手遅れだ。

「そ、ご褒美。私結構頑張ったんだから、ちょっと褒めてよ。」
「ご褒美かあー。いーけど何すりゃいーんだ? あ、バーディーサービスしようか?」

それもいいけど、と前置いて唇に敷いた笑みは完全に悪女のそれだ。嫌な予感しかしない!!

「デート一回」
「駄目だ!!!!!!」

もはや脊髄反射で応えたのはもちろんエースだ。
割合ドスの聞いた大きめの声だったが、幸いほかの客はもう立ち退いた後である。


「なーによー、いつも一緒にいるんだからいいじゃないデートの一回や二回。」
「絶対許さねえし行かせねえ。」
「男の嫉妬は見苦しいわよー」
「余計なお世話だ!誰が何と言おうとルフィは行かせねえ。」
「ルフィが行きたいって言っても?」

この時のエースを映像で表現するならば、さしずめビキ、と音を立てて固まり、ついでに心臓あたりにヒビが入ったといった所だろうか。

本人そっちのけの舌戦に置いてきぼり気味だったルフィは、唐突に回ってきたお鉢に大きな目をしばたいた。

「ねえルフィ、ルフィはどうなの? あんたが嫌だって言うんなら、私も無理にとは言わないわ。」

まあ、かなりショックだけど、と言い添えて罪悪感を誘発させるあたりは、もう称賛に値する抜け目なさだ。

こうしてエースの心の平穏は全てルフィの選択ひとつに懸けられた。ルフィの気持ちを疑う訳じゃない。だがそれとこれとは話が別だ。
ルフィはカウンターに両肘をついて軽く乗り出したまま、小首を傾げて一時思案した。

「……んー、別にイヤじゃないけどな。ナミだし。」

がん、と音を立てて後頭部に大きな石が落ちてきたようだった。カウンターに両手をついて崩れ落ちるのを耐える。

マジか。嫌じゃないか、そりゃそうだ。あんな美人だもんな。

「……でもな、エースがこんな感じだから」

苦笑を滲ませた弟の声に顔を上げる。己の前髪越しに見たその顔は、慈愛すら浮かべた「恋人」の顔だった。

「ナミのことは大事だけど、エースを不安にさせたり悲しい思いさせたくねえから。だからデートは無理だ。ごめんな。」

ルフィ、と思わず声に出して呟くと、恋人はゆっくりこちらを向いて真っ直ぐな瞳でエースを見つめ、
いつもの眩しい笑顔で笑った。

「………そう、わかった。残念だけどしょうがないわね、ルフィがそう言うんなら。」

ナミはため息混じりにそういうと、カウンターに手をついてゆっくり腰を上げた。

「だけど、」

思わぬ幸福感と、ただならぬ安堵に警戒心を収めていたエースは気づかなかった。立ち上がったナミの艶やかな口元に、薄く笑みが敷かれていたことに。

ナミは、左手をカウンターについたまま、両肘で身体を支えるルフィの頬に向かって右手を伸ばした。わざと、エースの視界からルフィの口元を隠すように。

そして、

ちゅ、と音を立てて、完全に無警戒だったルフィの唇の横にキスをした。

「……〜〜〜〜〜〜!!!!!!!」

エースは絶叫した。声にならないほどに絶叫した。エースの側から見れば完全にルフィの唇が奪われた様に見えたからだ。
未だに何が起こったかよくわかっていないルフィと、状況は理解しているものの脳が受け入れを拒否しているエース。石像と化したバーテンダー二人をよそに、ナミは満足げに微笑んだ。

「ごちそうさま。また来るわ。」

代金をルフィの黒いシャツの胸ポケットに差し入れた後、含みのある言い方をして、ナミは颯爽と店を出て行った。
発つ鳥、後を濁して去りぬ。

鼻歌混じりに去ったその背中をしばらく呆然と見送った後、ルフィはこの後の展開を思って戦慄した。
兄兼恋人が固まっているうちに安全を確保しようと、その顔も見られぬままそろそろとカウンターを出ようとするが、

「…………ルフィ………?どこ行くつもりだ………?」

終わった。これはもうキスしたかしてないかとか誰が悪いとかのレベルじゃない。

地を這うような低音で呼び掛けられたルフィは、その瞬間己の運命の全てを悟った。明日大学が休みであることを、せめてもの救いと思いながら。

帰り道のナミが清々したとばかりに背伸びしたとか、兄弟の部屋から聞こえる悲鳴紛いの嬌声が朝まで絶えなかったとか、それは全て当人達と神のみぞ知るところである。


(………何か言い残すことは?)
(…………せめてベッドにしてください……。)







「キングフィッシャー」、「コブラ」、両者ともにインドビールの名称。