「……怒るなよエース」
「怒ってねえよ」
「じゃあ拗ねんなよ」
「拗ねてもいねえ」

ふむ、とルフィは腕を組んだ。日付もとうに変わった深夜。今日最後の客を送り出した直後から、仏頂面のまま作業を続ける兄を見ながら。

(でもフキゲンにかわりはねえんだよな)

怒ってもいない、拗ねてもいない、だとしたら、


「……なんか焦ってんのか?エース。」

ぴた、とグラスを休みなく磨いていた手が初めて止まった。かと思うと、兄は大きく重たく、溜息をひとつ長々と吐いた。
不機嫌を表す凶悪な目付きのまま、少し長めの前髪越しにこちらを振り向いた。

「…あのな……。あんな美人に真っ正面から宣戦布告されて平気でいられるほど、おれあ大人じゃねぇんだよ」

ルフィはそんな兄の怒気もさらりと流し、小首を傾げた。センセンフコク?


「なんだそりゃ」
「馬鹿かお前!まぁ気付いてねえんだろうとは思ってたけど、無自覚もいい加減にしろよ!!」

エースは気が気ではなかった。
先程までそこに座っていたナミが、去り際に妙に清々しい顔で告げた一言のせいで。

ただでさえ他人を魅了すること甚だしいルフィは、本人の意向に関わらず、恐らくエースが知らないところでも他者の好意を煽っている。赤髪の男に至っては今でも虎視眈々と隙を伺っているような気がするし、それだけでもエースは時折ただならぬ焦燥感に襲われる。

なのに、雨上がりの様な美しく清々しい顔で礼を告げ、こつん、と小さく弟と拳同士を突き合わせた後。ナミは、一度背を向けたその足を止め、艶やかな微笑みと共にエースにこう言ったのだ。


今日からライバルよ、お兄さん、と。


「ああ、何だったんだあれ?」
「おれに聞くな、冗談じゃねえ」

そう吐き捨てて、彼にしては珍しく荒々しい手つきで洗ったグラスの水分を拭き取る。そんな兄を見て、ルフィはまたひとつ、ふむ、と小さく息をついた。

要するにこの男は、


「…不安なのか?」

ガチャン、と少し大きな音がした。

「……お前おれに何言わせたいんだよ。」

グラスをカウンターに押し付ける様にしたまま、低く唸るような声でエースは言った。
嫉妬と焦燥感と不安で腹の中が真っ黒だった。なんて醜い。自分が一番よくわかってる。

エースはグラスから手を離した。カウンターの上で強く強く握り込む。そうしないと、大事なガラスの杯を割ってしまいそうだった。


すると、自らの掌を傷つけようとするその拳を、やさしく包み込む両手があった。
ルフィの、兄より一回り小さく薄い、だが同じ様に美しいその手。

は、と顔を上げたエースだが、ルフィの顔は見えなかった。額をその肩に擦り付けるように、ルフィはエースに寄り添った。

「…大丈夫だよ、エース。言っただろ。エースじゃなきゃだめなんだ、おれ。」

知ってるだろ、と優しく諭すその声に、エースの拳もゆっくり解けた。解けたその長く骨張った指に、ルフィは自らの指を絡め、再び結ぶ。
そうしてルフィの体温を感じてやっと、エースは深く息をついた。久しぶりに呼吸をした気がした。
エースはルフィに向き直り、その華奢な肩に頭を預ける。空いた腕を細い腰に回し、軽く引き寄せた。優しい「家族」の、そして甘い「恋人」の匂いがして、エースは頑なだった胸の奥が、ゆるゆると柔らかさを取り戻すのを自覚した。
指を絡めたのとは反対の手で、恋人が己のくせ毛をゆっくり撫でる、優しい感触を感じながら。


「……ホント心狭いな、おれ。」

でも駄目なんだ。お前の事に関しては余裕が無い。お前だけは譲れない。本当に、みっともないとは思うけど。

店は閉めたとは言え、ガラス戸や窓から中は見える。誰か来たらどうしようか。そうは思えど愛しい体温を手放せない。エースはせめてもの予防線にと、ルフィの首筋越しにガラス張りの扉に視線を当てていた。


「……おれは、そういうエースが好きだ。カッコ悪くたっていいよ。『いい兄貴』されるより、こうやって側にいてくれるほうがずっと嬉しい。…幸せだ。」


「兄弟」のみならない関係となって、2年。

兄の矜持は未だ根強くエースの中にそびえ立つが、それ以上に、パートナーとしての信頼が二人の間にはあった。エースが、こうして己の弱みや甘えを表に出すのが、何よりの証だった。


「……それに、エースばっかり不安みたいな言い方するなよな。おれだって知ってんだぞ、エース目当てで来てる女の子いっぱいいること。」

ルフィにしては珍しく、マイナス感情を露にした。言葉にしたことで、鳴りを潜めていた切ない感情がじわ、と滲んで来るのをルフィは感じた。慣れない感情を処理しきれないルフィは、俯いて目の前の広い肩に顔を隠した。

きっとおれいま、やな顔してる。


なのに、強引な恋人はそれを赦してはくれなかった。自分の頼りない肩から顔を上げたかと思ったら、わざわざ隠したこの頬を大きな手で包み込み、間近に覗き込んできた。


「…何だルフィ、妬いてくれてんのか?」

少し意地悪な笑みさえ浮かべて、そんなことを言う。

「……あたりまえだろ」


おれをなんだと思ってるんだ。むかつく。

いつの間にか逆転した立場に気付かない振りをして、ルフィは全力で「弟」と「恋人」の特権を活用することにした。


「……はは、怒んなよ。ごめんなルフィ」
「………。」


絡めた指も顔を包む大きな手も振り切って、おおらかな腕の中へ飛び込む。いつものほんのり香る香水と、染み込んだ酒の香り。エースの香り。朗らかに笑う低い声。広い胸、強い腕。
あいしている。このひとを愛している。全身の細胞がそう叫んでいるような錯覚を、ルフィは覚えた。


「……ルフィ、…ルフィ、顔上げろ」

耳元でそんな風に囁かれて、従わない奴がいるなら見てみたい。
どんな顔をしていいかわからないながら、ルフィはゆっくり顔を上げた。しかし目線は、合わせないまま。


「…、ぁ、!」


ルフィが顔を上げきるのを待てないとでもいうかのように、エースは身を屈めて唇を寄せた。
そのまま強引に顔を上向かせ、己の背丈に合わせて引き寄せる。どこまでも力強く、強引に。自分のものだと、ルフィ自身に刻み込むように。

のけ反るような体制で引き寄せられたルフィは、酸素を求めて口を開けた。そこをめがけて、肉食獣のように再びエースが食らい付く。舌を絡め、口腔を奥まで味わい尽くし、あからさまな意図を持ったキスを仕掛ける。

右腕全体でルフィの二の腕ごと上半身を支え、左手はその身体を自由にまさぐる。

しゅる、と音がして、腰周りの重みがひとつ消えた。足元に、漆黒のギャルソンエプロンが落ちた音だったが、エースの深い口づけに翻弄されるルフィには、知る由もないことだった。

「…っふ、エース、や、だめだって、…ん…!!」


黒のシャツがスラックスから引き抜かれ、エースの乾いた大きな手が直接背中から腰を這いはじめる。ささやかな抗議の声は口づけに飲み込まれた。

力ずくで抵抗しようにも、いつの間にか壁際まで追い込まれ、腕一本で押さえ込まれてはせいぜいその背中のシャツにしがみつく事しかできない。

強引で巧みな左手の動きはますますエスカレートしていくばかり。激しい口づけは完全に情欲を引き出すためのものだ。まずい、兄は完全にスイッチが入っている。

「…はぁ…っ、エース、だめだってば、店ではやだって、言った、…あ!んっ!!」

口づけを中断したと思ったら、抗議に構わず今度は首筋に顔を埋める。襟元を器用な手つきではだけられ、舌が這う感触に肌が粟立った。
ルフィ、と囁く兄の声も、鼻を抜ける己の声も、最中のものと大差ない事に気付いてルフィは心底焦った。このままでは、兄はこの場で一線を越えてしまう!



「……ッ、だめだってばエース!ジャックダニエルが見てるぞ!!」



ぴた、と
エースの動きが全て止まった。
ルフィの荒い呼吸音だけが、二人だけの空間に甘く響いていた。のろのろと鈍い動きでルフィの首筋に埋めていた顔を上げたエースは、心底辟易した表情で弱々しく抗議した。

「………お前……萎えること言うなよ………。」
「萎えさすために言ったんだよばかエース!!店ではやだっておれ言ったよな!!」
「おれだってやだよ、あんなクソ親父の分身みたいのがいるトコで。最後までする気はなかったっつの」
「うそつけ―――!!!!!」

また何かの拍子にスイッチを入れられてはたまらないと、ルフィは温かい檻の中から逃げ出し、カウンターの反対側へ避難した。走り際台拭きをしっかりつかみ、カウンターの拭き掃除という正当な理由を裏付けて。

未だ引かない身体や顔の熱に動揺しながら向こう側の兄を見遣れば、自分で落としたルフィのエプロンを拾い、畳んでいるところだった。

耐え切れないとでもいうかのように、くつくつとなんの陰りもない笑いを零しながら。

その顔を見ていると、何だか全てどうでもよくなって、しあわせだなあ、なんて思ってしまうから、自分もつくづくどうしようもないな、なんて、ルフィはそう思うのだった。


「…さてルフィ。今日の仕事上がりのご注文は?」
「……バーディーで。」

「…よしわかった、帰ったら今日一日足腰立たなくしてやる。」




「彼」に意志があったなら、恐らくやれやれと溜息をつきながら言っただろう。

全く傍迷惑な恋人達もいたものだ。
『全て』だと?
全くいつになったら詮を開けられるのかわかりゃしない。


まだ奴らは、始まったばかりではないか。
気の長い話だ。全くもっていつになるのかわかりゃしない、と。


明かりの消えた"D"の店で、ジャックダニエルの瓶が、物憂げに次の客を待っている。


「いらっしゃい!」
「お好きな席へ、どうぞ。」








...and next guest is, u.
お付き合い、ありがとうございました。