ラムコークの最後の一口を含む。
ルフィの話が途絶えた今は、エースがアイスピックで氷を砕く、涼やかな音だけが控えめに響いていた。
ナミは長い髪を揺らして改めて店内を見回した。
余計な装飾は一切ない。飴色と黒、金具やサーバーの金色で構成された内装。カウンターの上のホルダーから逆さに吊されたカクテルグラスやワイングラスは、透明な光を砂子の様に反射する。二人の背後の棚やカウンターの上に無数に並べられた酒だけが店内に彩りを添えていた。
この店が、この二人の望んだ未来。勝ち取った現在。絶対的な二人の空間。そう思うと、奇跡的にすら思えた都会の喧騒の裏に紛れたこの店が、あるべくして在るものに感じられる。
そのまま視線を廻らせていたナミは、ふとある一点に目を留めた。
彩の中で異色を放つモノトーンのラベル。棚の中央最上部に、まるでこの店を見守るかのように置かれているその瓶は、
「…ねえ、あれ?エースさんも手を付けなかった訳ありのお酒。」
「ん?…ああ、ジャックダニエル。うん、そうだぞ。」
聞けばそのウイスキーはエースが生まれた時のものらしいから、ざっと23年ものだ。
今度はエースに向かって問い掛けた。
「……どうして開けられないのか聞いてもいい?」
彼はアイスピックを持ったその大きな手を止め、ふと顔を上げると虚空を見つめた。
まるで、届かぬ過去に思いを馳せるかのように。
「……親父の形見みてえなもんなんだ。『その時が来たら、開けろ』って。」
そう言うと、彼はその重厚な瓶に目を向けた。
「瓶の口に、カードが付いてるの、見えるか?」
「…、黒いカード?小さな…」
「そう、あれ。」
光沢のある細長い黒のカードが、細い凧糸のような物で結び付けられているのがわかった。
「あれの裏に書いてあるんだ。『全てを手に入れるそのために』って」
「……『全て』…。」
「それが何なのか、おれにもわからねえけどな。」
エースは肩を竦めてそう言った。
「…じゃあ、いつ開けるのかわからない?」
「ああ。もしかしたら一生開けねえかもな。前にクソ親父の言うことなんか聞いてられっかと思って開けちまおうとしたんだけどな、コイツが止めるから。」
「駄目だぞエース、エースの父ちゃんがこの店と一瞬に遺した酒なんだから。」
「わかってるよ。」
今一その意味はわからないが、遺言であるということと、最愛の弟の反対で結局そのままにしているということか。何だかんだ言っても律儀な男だと、頬杖をついたままナミは笑った。
その笑みを口元に敷いたまま、彼女はある決断を胸に刻んだ。
彼らの歩んできた道程をわずかながら知るうちに、彼女は彼女自身を捕らえていたしがらみが、いつの間にかどこかへ消え去っているのに気が付いていた。
形は多少違えども、ルフィの言うことは正しかった。何を血迷っていたのだろう。自分らしくもない。何よりこの私の姉なのだ、あのひとは簡単に屈したりしない。折れたりしない。例え私が側にいようと居まいと。
だから私は、自分のやりたいようにやろう。自分のやり方で、生きよう。姉には出来ないやり方で、故郷を守ろう。
他の何にも歪められない、自分自身の望む絶対的な未来を、勝ち取ろう。
「ルフィ」
「ん?」
「次で最後の一杯にするわ。リクエスト、聞いてくれる?」
「おう!」
満面の笑みを浮かべるルフィを見ながら、ナミは思った。目を逸らさないでいよう。この眩しさに負けないように。恥じないように。
「私、明日カメラを買い戻して来る。そして、その足でそのまま帰るわ、あの村に。」
「…うん、そっか!そうだな!」
彼は本当に、自分の事のように嬉しそうに笑う。なんて素直で得難い人物だろう。エースの気持ちもわかる気がする。
(……、あれ?)
「……だからルフィ、応援して頂戴。私が怖じ気づかないように。ちゃんと、向き合えるように」
彼の黒曜石で誂えたような瞳を見つめて言った。気付いた芽には触れないままに。
ルフィはその眼で真っ直ぐに注文を受け取り、そして
「…かしこまりました!」
またあの笑顔で応えた。
よく見ればエースの物とは微妙に形の異なるシェイカーを手に取る。ルフィのものは、より円みを帯びているようだ。
少し伏せた目元に、艶やかな前髪がさらりと落ちる。暖色の明かりがそこに反射するのを見て、ナミは素直に、きれいだな、と思った。
ベースにホワイトラム。カクテルの色を損なわないためだろうか。
そこに、パイナップルジュースとオレンジキュラソーを。グレナデンシロップで味を整えるその前に、
(……え、)
ルフィが冷蔵庫から取り出したのは、なんの変哲もない、だがナミにとっては大きな意味を持つ、この国に深く根付く果実だった。
「……みかん………。」
「ん、嫌いだったか?」
「いいえ、…いいえ、気にしないで。」
「?、おう!」
彼にしては意外な程の丁寧さでみかんを搾ると、他の材料と共にシェイカーに注ぐ。
トップを閉め、両手でそれを包み込むと、
中で氷がぶつかり合う、軽やかな音を立てて、ルフィはシェイカーを振り始めた。
まるで、そこだけが巨匠の描いた絵画のようだった。無償にカメラが欲しかった。この景色を切り取って収めたい。忘れかけていた熱い衝動が蘇る。
ああ、何故この情熱を棄てようなどと思ったのだろう。世界には、こんなにも美しいものがあるというのに。
ナミは、震える指先を反対の手で握り込んだ。
そうしないと、そのこれ以上なく完璧な存在に、手を伸ばしてしまいそうだったから。
見るものを魅了するルフィの姿。その呪縛から一足先に逃れたのはエースだった。音もなく動き、ホルダーからカクテルグラスを一つ手にとると、ルフィの元へ、静かにその手を滑らせるようにしてそれを差し出した。
二人の視線が絡まったのは、そのほんの一瞬のこと。
だが、ルフィが見たこともない艶やかな微笑みを浮かべたのを、ナミは確かに認めたのだった。
「…バーディーです。どうぞ。」
その鮮やかなオレンジ色で、夢から醒めたようだった。
その色から目が離せないまま、微かに震える声でナミは問うた。
「……ねえ、なんで、みかん……?こういうのって、普通オレンジジュースで作るんでしょう…?」
ルフィの顔は見られないままだったが、その声の調子で彼が笑みを敷いたままでいることはわかった。
「何となく。ナミの髪の色に似てるからかなあ。特に意味はないけど、ジュース使っちゃうと、いくら100%でもいろんな種類のやつが混じっちゃうんだ。バレンシアオレンジとか、夏みかんとかって意味だけど。」
「……ナミには何となく、これだけで作ってやりたかった。」
その回答には応えないまま、震える指先でグラスを持ち上げる。冷たい硝子の縁に唇をつけ、鮮やかな甘露を、口に含む。
「………おいしい……。」
それは、涙がでる程に懐かしい味がした。
誰にも話していないはずの、故郷の農園の香り。今は亡き母が愛した、ささやかな楽園の味だった。
せっかくのカクテルが温んでしまう。そうは思えど、一度溢れ出た涙は簡単には止まってくれなかった。
せめて洩れ出す嗚咽だけでも抑えようと、ナミは両手で顔を覆った。
ルフィは、カウンターの向こうから静かに手を伸ばした。
そうしていつまでも柔らかに、彼女の長い美しい髪を撫でつづけていた。
バーディー・イン
・ノスタルジア
ふるさとは、とおきにありておもうもの。
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