「ありがとうございましたー…」

配達先のビルから出た途端、もわんと襲い掛かって来る熱気。日差しは文字通り半袖の腕を焼く。セミの鳴き声もこれはもはや物理エネルギーだ。音が空気の振動だとこれ程までに実感させる生き物もなかなか居ない気がする。長々と柄にもなく前置きしてみたがつまりなにが言いたいかと言うと、

暑い。

おれは以前暑い分には平気みたいなことを言った。仕事柄土砂降りとか吹雪よかありがたいと。確かに言った、それは認める。だがそれは、業務用の車の空調がイカれていなければの話だ。

(逃げ場がねぇ…。)

これじゃ走るサウナだ。蒸し器だ。棺桶だ。お姉様奥様方にさわやかと評判らしい制服が、汗でじっとり張り付くのがわかる。さわやかもなにもあったもんじゃねえ。

とはいうものの、明日には何とかするから頼むと上司に言われちゃ、高校卒業後入社してまだ3年ちょっとの若造が断れるわけもない。いや言ってやっても良かったんだけど、オヤジと慕う社長直々に悪いなエース、頼んだぜなんて言われちゃどうしようもない。畜生マルコ(上司)め、根ェ回しやがって。

おれはぐったりとハンドルにもたれかかった。蒸してうめえのは野菜と飲茶と茶碗蒸しぐらいなんだよ覚えとけ。

だがしかし。

おれには今冷えピタもひんやりクールなスプレーも、どんな素敵アイテムも及ばない最強兵器がある。おれはダウン寸前の顔をゆっくり上げた(その拍子にこめかみを汗が伝う。忌ま忌ましい)。

それは、ワゴンカーの後部に積まれた、(伝票の文字が些か豪快な事を除けば)何の変哲もない段ボールの荷物。


宛先は、今おれが一番会いたいひと。


あれは3日前のことだった。いつものお得意さんのお宅の玄関先で起きたハプニング。恋の三条件の一つとどっかで聞いた、ハプニングとフィーリングと、……………、あと何か。とにかくそのうちの一つが確実に起きた。ここんとこ恋愛でちょいと怖い思いはしてもあまりいい思いをしてなかったおれは、そこで予想外の事態に直面したわけだ。

今こうして思い出すだけでも甘酸っぱく心臓の辺りが疼く。「甘酸っぱい」とかいつぶりに使ったっけ?

おれの腕ん中にすっぽり収まった細い身体。
抱き留めて頭を守った時に手に触れた、滑らかな頬。

びっくりしておれを見上げる、大きくてきれいな眼。

帰り際、まだ半分呆然としたおれに、玄関から半身を乗り出してかけてくれた、「またな!」の澄んだ声。

その夜はそれらの一つひとつを思い出すたび狭いアパートの床でのたうちまわった。真下のおっちゃんごめん。キモいと言われても仕方ない。おれも半分位は思ってる。だが仕方ない、何とでも言え。おれは名前もわからないあの子にフォーリンしちまった。事実。以上!

ちなみに、配達員であるおれが何故名前がわからないかと言うと、豪快な字を書く荷物の送り主は、伝票に住所と「サボとルフィへ」、「じいちゃんより」しか書いてないから。つまり、おそらく兄弟二人暮らしということは知っていても、どっちがどっちかわからないのだ。「ルフィ」っぽいな、とは思ってるんだけど。


まあこの恋にはいろいろと障害は多い。相手が男だとか、男だとか、男だとか。それと客、あと学生(未成年)っぽい。自分の性格的には他の奴らがどうだろうとまあどうでもいい、って程度。今まで普通に彼女いたし、まさか自分が男に転ぶとは。人生何が起こるかわかんねえもんだ。

だがしかし今んとこ、これ以上どうにかなりたいとは思ってない。まだ21の若造だが、このままとんとん拍子に物事がうまく行くと思えるほど楽観的な人生は歩んで来ていない。残念ながら。

せいぜい「ちょっと仲の良い配達の兄ちゃん」から「一緒に遊びに行く程度の友達」になれたら上々。とりあえず今のおれを生かすのはあの子に会えるという甘酸っぱい(2回目)期待だけ。配達が立て込んでる訳でもないし、今日はちょっと長話してもいいかな、なんて思ってた。
……思ってたんだけど。

『はい、……ああ、「白ひげ」さん?少々お待ちください。』

いつものようにエントランスでインターフォンを鳴らしたら、応えたのはいつもとは違う、穏やかな低い声だった。

あれ?と思いながら開いたエントランスをくぐり、いつものように警備さんに頭を下げる。笑顔の下で嫌な予感を感じながら。

「あ、どうもご苦労様です。」
「いえ。毎度ありがとうございます。印鑑かサインお願いできますか」

柔らかい笑みを浮かべていつものドアから顔を出したのは、色素の薄い髪色の上品な男前。

ああ、出たよこのパターン。
ファッキン15分前までのおれ。
これはあれだ、お兄様のほうですね。今まで応対してくれてたのがあの子だったとは言え、なぜこの可能性を考えなかったのだ。バカバカおれのバカ!期待しまくっちゃってただけにダメージはでかい。これはまずい、営業スマイルモードを発動させなくてはテンションガタ落ちなのが顔に出る。

頑張れエース。お前はやれば出来る子だ!

「はい、ありがとうございました。またよろしくお願いします。」
「ご苦労様でしたー」

ハイ、回れ右。さよならおれのときめき。めくるめく昼下がり。

しかしそこで往生際の悪いおれの恋心が待ったをかける。
もしかして体調崩して寝てるとかじゃないよな?あの元気っ子に限ってそんな事ないとは思うけど、万々が一そうだとしたら、お大事にの一言くらい言っておきたい。

「…あの!」
「?」

突然振り返ったおれに、貴公子系男前は少し驚いたように閉めかけたドアを止めた。

「すみません、突然こんなこと聞いて申し訳ないんスけど、…あの、弟さん?今日は、いらっしゃらないんですか?」

「…ああ、ルフィですか?」

ビンゴ。速攻インプット。あの子はルフィ!

「そっか、いつもあいつが受け取ってるんですよね。あいつ今日はフットサルの試合に助っ人で駆り出されてるみたいで。」

いつもすんませんね、うちの弟なんか失礼なことしてないですか?なんて笑う貴公子にいえいえとんでもない、病気とかじゃなくて良かったですなんて営業トークを返しながら、そっか、やっぱいないのか、と内心駄目押し喰らってシュンとする。
仕方ねえ、大人しく帰るとしよう。仕事はまだあるんだし。
なけなしの精神力振り絞って貼り付けた笑顔で一礼。今度こそきびすを返す。

エレベーターに乗り込んだ途端、どっと虚無感が押し寄せる。まあ世の中こんなもんだ。めげるなしょげるな強い子エース。うん、ちょっとダメージ強すぎてテンションおかしい。

チン、と音がして扉が開く。これを降りたらまたあの焦熱地獄に戻らなければ。
鬱々として顔を上げた。
そのドアの向こうには、


「……あ、」
「…あー!!」

宅配便の神様ありがとう。
ロマンスの神様ありがとう。
こうなりゃもはや腐れ上司マルコすらありがたい。

タオル地のヘアバンドで生え際を隠す程度に前髪を上げ、白いポロシャツの半袖を肩まで捲っている。膝丈のジャージにビーサン、ひまわりの様な黄色のナイロンリュック。夏の申し子みたいな姿をして扉の向こうに立っていたのは、魂抜かれるくらい会いたかったあの子だった。

「にいちゃん来てたのかー!こないだありがとな!ちゃんとお礼言いたかったから、今日会えて良かった!」

しし、なんて無邪気に笑う。その笑顔が見たかった!

「どういたしまして、怪我しなかったか?…って今日フットサルしてきたんなら大丈夫だよな」
「んあ?なんで知ってんだ?」
「さっきお兄さんとちょっとしゃべった。イケメンだなー。」
「しし、だろ?自慢の兄ちゃんだ!エースも男前だけどな!」


こんな弟いたら超可愛いな、お兄さん羨ましいなどと油断していた処へ剛速球ど真ん中ストレート。多分150キロは出てた。

なにいまの!なにこの子おれをどうしたいの!

…って、え?

「え、あれ?おれ、名前…」
「あ、ごめん勝手に呼んじった!」

これ、と言って指差したのはおれの左胸。名札!見ててくれたのか!

「いい!つーかその方が嬉しい!名前でいいから!」

やばい、必死なのがバレたかな。でもそんなのどーでもいい!八百万の神様ありがとう!

「ほんとか!?ありがとな!んじゃおれも!おれは、」
「ルフィ、だろ?」


今度は彼がぽかんとする番。
お兄さんとしゃべった時に聞いた、というと、みるみるうちに頬があかく染まる。あれ、見たことない反応だ、と思っていると、「ルフィ」は顔をくしゃ、とさせて心底嬉しそうに笑った。
そんな顔のまま、やった、なんてちょっと肩を竦めて言われた日にゃあ、

(何だこの子…!天使か……!!)

断言しよう。おれは少なくとも以後数日、幾度となくこの瞬間をリプレイし六畳間をのたうちまわるだろう。真下のおっちゃんマジごめん。今度酒でも持って遊びに行くから。


ぎゅんぎゅん心臓が捩られるような感覚におれが必死こいて堪えていると、ルフィはあの大きな眼をぱちぱち、と瞬いておれをじっと見た。

「…エース、どした?汗すげえぞ?」

名前呼び!万歳!
いやいやそれは君の一挙一動に死にそうな位ときめいてるからですよとは言えない。ええ言えませんとも。

「…あー、そうかも。今おれの車壊れててさ、クーラー効かねえんだわ」
「うわまじか、こんなあっちいのに!」
「こんなあっちいのに走り回ってきたのは誰だよ」

思わず笑いながら突っ込むと、確かに、なんてルフィもからからと笑う。

「でも走り回ってりゃあんま気にならね…、あ、そーだ!」

なにか思い付いたような顔でそういったかと思うと、リュックの肩を片方外し、胸の前に回して中身をガサゴソやり始めた。ほんとにくるくるよく動く子だなあ。表情も身体も。

「あーあったあった、ん!!」

ずい、という感じで差し出されたのは、一本のスポーツドリンク。ペットボトルの外装は冷たそうに汗をかいているが、よくみれば中身がちょっと凍って、氷の芯が残っているのがわかる。

「試合のごほーびでもらったんだ!焼肉弁当はもう全部食べちゃったんだけどな、これは凍ってて飲めなかったんだ。」

でも今なら大丈夫だ!だからエースにやる!
そういってルフィはにしし、と機嫌よく笑った。眩しい、ほんとにいい子だ。だけど、

「ルフィのご褒美だろ?もらえねえよ、大事に飲みな。」
「……仕事中だから?」
「いや、それは別にいいんだけどな。気持ちだけで充分だ、ありがとうな。」

こんな暑い中頑張ってきたんだから、これはこの子のもんだ。でも嬉しいな、とおれが一人ほんわかしていると、むー、だかうー、だか、とにかくえらく可愛らしい音を出してルフィが唸った。おれとは対照的に随分と不満げだ。

あれ、何か怒らせたかな、とおれがちょっと心配になったその時、

「……!!?」
「いくら体力あっても無理しちゃだめなんだからな!大人でもネッチューショーは危ないってサボが言ってた!」

左の頬に押し付けられた冷たい感触に、おれは文字通りフリーズした。肘が胸板に当たってる。え、待って待ってこの子まず根本的に距離が近いって!

「やる!うけとれ!いいな!」
「…はい」
「よし!」

おれがペットボトルを受け取ったのを確認すると、ルフィはふん、と満足げに鼻をならして胸を張った。男らしい。

「あ、仕事中だよな、ごめんエース引き留めて!」
「あ、いや…」
「またな、今日もごくろーさん!」

ばいばい、と手を振って笑顔はそのままにあっさりくるりときびすを返すルフィ。その背中を見てやっとおれは我に帰った。

ダメだ、おれまだ大事なこと言ってない。

ぱし、と小さく音がした。おれの右手が、背を向けたルフィの右手を捉えた音。
驚いた様子で振り返るその顔が、なぜかスローモーションで見えた。

「……ルフィ、ありがとう。」

ああ、これは

「ありがとう。嬉しい。…大事に、飲むわ。」

マズいかも、知れないなあ。

うん、と嬉しそうに頷いたその頬が少し赤かったのは、多分おれの願望だ。


ばくばくと煩い心臓を持て余したまま、車に乗り込む。ハンドルに肘をかけ、冷たいペットボトルを両手に包み、額に当てる。篭る熱気も、今はそれどころじゃない。

思い出した。恋の三条件。
ハプニング
フィーリング
そして、タイミング。

ハプニングは前回クリア済み。
フィーリングは始めから最高。

そして今日、車の空調が壊れたことと、エレベーター前で出会えた偶然。
これは3つめに該当するはずだ。なあ恋の神様ロマンスの神様配達の神様そうだろう?

不可抗力だと、思っていいだろう?
もうこの胸の高鳴りは、


「………本気じゃねえかよ、コレ……。」

どうこうなりたいとは思ってない、とか言ってた奴誰だっけ。殴り飛ばしていいですか。

冷たいペットボトルのラベルとフロントガラス越しに見る真夏の空、そしておれ。
青いなぁ、なんて呟いてはみたものの、

それが一体何に対してだったのか、おれにだってわかりゃしない。






おい仕事しろ