…というのが2年前の話、と言い終えて、ルフィは語りを止めた。


「……何か、すごい話聞いちゃったかも。」
「引いたか?」
「いいえ、全然。驚きはしたけど、むしろ納得。」


自分で言って置きながら、ナミは手鼓を打つ気分だった。そう、納得なのだ。この二人の間に感じる強い絆。自分にも姉がいるからこそわかる、兄弟というだけでは得難い程の。その理由が、ここにあった。

「…すげーな、ナミは。おれドン引きされるの覚悟で話したのに。」

それはこっちの台詞だ。ナミは即座に言葉を返した。

「そりゃあ聞いたのは私だけど、なんでこんなプライベートな事話してくれたのよ。」

きょとん、という表現の代表みたいな顔をしてルフィは小さく首を傾げた。

「先に話してくれたのはナミだぞ?」


ナミが苦しい胸のうちを先にさらけ出してくれた。だからそれに応えただけだ。

ルフィはそう言って明るく笑んだ。恥じることなど何もない。そういう笑みだった。
なんだかそれが、やけに眩しく見えた。


「……エースさんは、良かったの?」

もう一人の当事者は、何やら作業をしていた手を止め顔を上げた。

「おれ?……ああ、まぁ一番格好悪ィとこは省かれてたしな。」
「一番格好悪いトコ?」
「お前は知らなくていい。」
「何だよエース!おれに隠し事すんのか!!」

そういう問題じゃねえんだよ。苦虫を噛み潰したような顔でそう弁解するエースを見ながら、ナミはなるほど、と思った。

語り部が弟の方だったものだから、どうやら兄の側の事情はあまり語られていなかったようだ。ナミは聡い女性だったから、大方例の痣などは、話しに聞く「シャンクス」とやらに喝を入れられたといった処だろう、と見当をつけた。
なんとも「兄」のプライドというのは強固なものらしい。ナミは苦笑した。


「…で?どうなったの、その後。」

話が始まる前に、薄まってしまったバーボンと取り替えて貰ったラムコークのグラスをゆらゆらと揺らしながら、ナミは先を促した。その中身ももうすぐ底を尽く。客そっちのけで痴話喧嘩を始められては堪らない。


ナミの問いに、あー、えっとな、と記憶を掘り起こし始めるルフィは、ほんの少し前までの兄への疑念を瞬時に忘れたかの様だ。この後腐れの無さは彼の美徳の一つだと関心しながら、だがしかし彼女は、エースが助かったとばかりに息をついたのを見逃さなかった。

貸し一つよ、お兄さん。
上がる口角をそのままに、ナミはグラスに口をつけた。


******


「おう、おかえり。」

散々泣いて喚いてキスをして。やっとの思いで夢と現実の狭間を帰ってきた二人は、絡めた指も離さぬまま、玄関のドアを開けて固まった。

何事もなかったかのように、穏やかな笑みさえ浮かべて廊下の壁にもたれ掛かるのは、

「…シャン、クス……。」


繋いだ左手が強く握られるのを感じて、エースもその手に力を込めた。大丈夫、もう離さない。そんな想いを込めて。



「ってはあああぁあぁあ!?ふざけんなよシャンクス、おれをからかってたのか!!?」

ルフィの怒号が廊下に響いた。標的は、件の赤髪の男。


「だから悪かったって、そんな怒んなよルフィー。だってお前らときたらもー見てるだけでジリジリすんだもんよー」

俺役者だなー、今からでもいけるかな、なんて赤髪の男は呑気に大口を開けて笑っている。

帰ってきた二人を見て彼が言い放った言葉はなんと、「どうだ、上手くいったか?」だった。

要するに彼はピエロを演じてくれたのだ。煮え切らないエースに発破をかけるために。結果としてそれが今の状況を生んだ訳だが、ルフィとしては釈然としない思いで素直に礼も言えないのだ。

ありえねえ。シャンクスに何て言おうか、必死で考えたあの一瞬を返せ!

「知らねえもうシャンクスなんか!!早く帰れベンが待ってんだろ!!」
「おーいおい恩人に向かってなんだその言い草は」
「おれいますっげーしやわせシャンクスありがと!!早く帰れー――!!」


幸福感やら羞恥心やら感謝やら憤りやら、色んな感情が一緒くたになったルフィは、その複雑な心境をそのまま表す捨て台詞を吐いてリビングに駆けて行ってしまった。

だからルフィは知らなかった。
背中を向けたその後で、今まで一言も発さなかった兄が、


静かに深く、頭を下げたことを。


エースは知っていた。男の拳に込められた怒りが、本物だったということを。
エースは知っていた。 男が確かに、弟を愛していることを。

だからこそ、何も言うべき言葉はなかった。感謝も、謝罪も、彼が言える言葉は世界中どこを捜してもありはしなかった。


幸せにする。大切にする。顔を上げたエースは、その誓いを込めて、男の瞳を真っ直ぐに見つめた。





小さな水音をたてて、唇を離す。
リビングのソファにふたり向かい合って、緩く手を繋いだまま、啄ばむようなキスを幾度か繰り返した後だった。
先刻までの嵐の様な激情は鳴りを潜め、今は穏やかに、現実を確かめたかった。

額を合わせたままで、ルフィが尋ねた。
兄弟だけだった時とは違う、ほんの少し、甘い響きで。

「……何話してたんだ?エース。」
「何も。」
「…何も?」
「ああ。…何も。」

彼にこれ以上嘘を付くつもりは毛頭なかったが、本当の事を言うつもりもなかった。
男の最後のプライドを、自分が崩すわけにはいかない。

曖昧に微笑むエースに何かを感じ取ったのか、ルフィがそれ以上この事について追及することはなかった。

「…なぁルフィ、明日さ、おれ朝一で内定先に電話するな。」
「……うん。」
「ちゃんと、断るから。…見ててくれ、隣で。」
「…怒られたらどうするんだ?」

不安げに眉を潜ませてルフィが問う。
鼻先を擦り合わせて、エースは小さく喉で笑った。

「……正直に言うよ。『すみません、大事な人が出来ました』って。『そいつの傍にいたいから、おれはそこでは生きられません』って。」
「…そっか。」

そっか。ともう一度噛み締めるように呟いて、ルフィは心底嬉しそうに微笑んだ。

「じゃあおれも。」
「…?」

そう言ったかと思うと、ルフィはあっさりエースから離れてリビングから出て行った。
エースがほんの僅かに離れただけで口惜しく思う自分に内心苦笑していると、何かを手に取ったルフィが足早に戻ってきた。

…かと思うと、それを広げてエースの目前に突き出した。

「…あ、」

それは、件の専門学校の入学案内書。
エースが弟の真意を酌む前に、ルフィは悪戯を思いついたような無邪気な顔で微笑んだ。無造作にそれに両手をかけ、そして、

思い切り、破り始めた。

細かく、細かく、エースのいない未来を、ルフィは自らの手で破り捨てた。
それが小さくなっていく度にこみ上げる、愛しさと幸福感。その波に身を任せ、エースは腹の底から笑った。

そして、季節外れの桜吹雪が舞う中で、彼は世界で最も愛しい存在を抱きしめた。



「もしもーし、」
『…おう、どうした脱走犯。開店準備放り出して行きおって』
「手厳しいねえ。傷心中の相棒を労る気持ちはないのかね君。」

『………ほう。』

兄弟の暮らす家を後にし、外に停めた車にもたれて電話を掛ける。もちろん相手は頼りになる相棒だ。店は何とか切り盛りしてくれているらしい。

割合直接的な言葉を選んだにしろ、何かしら察する所があったのだろう。ベンはそれ以上深く追及しなかった。

『…わかったからさっさと戻って来い。働け大人。』
「ひでえなあ。そこに愛はないのか。」
『だからさっさと帰ってきてさっさと店仕舞いしちまおうって言ってんだよ。』

「…?」

珍しく予想外の返答をされた。いつもなら大抵、あるか戯け、くだらないこと言ってないで帰って来い、などと手厳しい言葉を返す男なのに。

「ベン、お前、」
『自棄酒ぐらい付き合ってやる。ふて腐れてないで帰って来い。』


いいな、と一言留め置いて、男前の相棒は電話を切った。
シャンクスは暫し呆けた様に画面を見つめていたが、じわじわと沸き上がる衝動に任せ、一人くつくつと笑い出した。

全くもって出来た相棒だ。
明日も平日、客もそれ程多くはなかろう。今夜はお言葉に甘えて、男二人でなんとも侘しく、気の済むまで飲み明かすこととしよう。

空を見上げる。いっそ清々しいほどに、雲一つない星空だった。
いい夜だ。悪くない。


温かな色の明かりが点いた窓をもう一度だけ見納めて、シャンクスは車に乗り込んだ。
そのバックミラーから、温もるような明かりが遠ざかって消えても



もう二度と、振り返ることはなかった。









テネシーワルツ=カカオリキュール+グレナデンシロップ+炭酸水
ある有名な1948年のアメリカの歌曲をもとに作られたカクテル。

yes, i lost my little darling the night they were playing the beautiful Tennessee Waltz.