空になったグラスと共に代金を置く。お礼の意味も込めて、釣りを貰うつもりはなかった。
スツールから腰を上げ、マスターと客の老人にひとつ、頭を下げる。

「……ありがとうございました。勉強に、なりました。」

顔を上げると、足早に出口に向かう。扉を開けたその後は、脇目も振らずに走りだした。

……若いってのはいいもんだ。なぁマスター。
ええ、本当に。

そんな二人の会話を、走るエースは知る由もなかった。



一度腹を決めたら、霧が晴れたようにたった一つの思いだけがエースを突き動かした。後は、衝動に任せて走るだけだった。

会いたい。会いたい。ルフィに会いたい。

ルフィに会ったら真っ先に謝ろう。力一杯抱きしめて、心の底から謝ろう。
そして、この想いを伝えよう。彼の瞳を真っ直ぐに見て。

会いたい。ルフィ。……会いたい。


我が家の屋根が見えた途端性懲りもなく吹き付けてくる臆病風を、今度こそ自分の意志で跳ね返す。熱く熱を持つ両足を叱咤して、更に加速した。
リビングの明かりがついている。ルフィがいる。ルフィに、会える。
ドアノブの冷たさを感じる間もなくまろぶように扉を開け、玄関に飛び込む。

瞬間、足元に転がる見慣れない大きな革靴が目に入る。

冷や水を一杯浴びせられたように、加熱していた思考の一部が急激に冷えた。
その感情が何なのか認識する前に、エースはリビングの戸を開けていた。

「………!!」

あの日見た、大きな背中。
真っ先に目に飛び込んできたそれが包み込むのは、エースが求めてやまないルフィその人だった。

荒い息をつきながら言葉をなくすエースを見留め、ルフィが元々大きい目を更に見開いた。
声もなく、エース、とその唇が動いたその一拍後、

ゆるりと振り向いたシャンクスは、ルフィの黒髪に鼻先を埋めたまま、深紅の前髪の隙間からこちらを見た。



一体何が起こっているのだろう。ルフィはあまりの展開の速さに混乱していた。
兄が姿を消したその不安感に耐えきれず、シャンクスに救いを求めた。そのシャンクスに、今までとは違う様子で抱きしめられ、その言葉の意味を反芻する暇もないまま、今度は消えたはずの兄が息を荒げて飛び込んできた。

(…、エース、だ…。)

ルフィは、自分の手首を掴んで大股で歩く、兄の広い背中を見つめていた。
あの後、一言も言わないままエースは自分とシャンクスとを引き離し、この手首を掴んで再び外へ飛び出した。

(エースだ…。)

大きな掌。熱い体温。強い力。夜に溶け込む、漆黒の髪。
じわじわと、混乱の水面下から驚きに押しのけられた感情が戻ってくる。

「…どこ、行ってたんだよ…。」

兄の足は止まらない。どこまで行くのだろう。もう裏通りの公園まで来てしまった。

「どこ行ってたんだよ…!!エース…!!!!!」


色んな感情が溢れそうな喉から、やっと絞り出した言葉を兄の背中に叩きつけた。一度声を出したら、止まっていたはずの涙まで溢れてくる。
そこで初めて、兄の足の運びが緩んだ。

住宅街の裏の小川に沿うように整備された、小さな公園。その街灯の下まで来ると、エースはやっと足を止め、ルフィの腕から手を離した。
どうして何も言ってくれないのだ。自分の小さな嗚咽だけが、小川のせせらぎに混じって辺りに響く。

「どこ行ってたんだよ…。…心配、したんだぞ…!!エー、ス、何も、言ってくんないし、黙って、出てくし…!!携帯、も、つながん、ないし…ッ!!!」

もう訳が分からない。兄が何を考えているのか。シャンクスが何を求めているのか。自分が何を言っているのか。もう、何もかもが一杯一杯だった。ルフィの感情と思考のキャパシティは、もうとっくに限界を超えていた。

「っ、もう、やだ…!!おれ、どう、したらいいのか、わかんねえよ…!!」


「ごめん」


ふわり、と兄の香りと酒の香りがした。
そう思った時には、すでにルフィはエースの腕の中だった。

ルフィの肩口に埋められたエースの顔。肩を掴む大きな手の、腰に巻き付く太い腕の、その力がこんなにも強いのは、何故だろう。

「……ごめん。ルフィ、ごめん。心配掛けてごめん。たくさん不安にさせて、悩ませて、…泣かせてごめん…!」

「ルフィ、…ルフィ、勝手でごめん。馬鹿な兄貴でごめん。」


会いたかった。ルフィ。…会いたかった。


あんなに聞きたかった兄の声だった。そう、自分に背を向けたあの時の、冷たい硬い声ではなく、兄の、エースの声だった。
そう思ったら、もう止まらなかった。涙が、感情が、言葉が溢れて止まらない。


「………『会いたかった』って、なんだよ…!!馬鹿、じゃねえの…!!エースが、自分、で、出て行ったんじゃねえかよ…!!!」
「うん」
「ふざ、ッけんな、ばかエース…!!!…っ、おれ、ずっと、ずっと、ひとり、で…っ!!」
「…うん…」
「ばかやろ…!!もう、わけわかんねえ…!知らねえ、エースなんか…!すきに、すれば、いいんだ……!!」
「…うん」

「…ッ、エース」
「うん」
「エース…」
「うん」

「エー、ス…!!!!」
「うん。……ルフィ。」


あとはもう、言葉にならなかった。声を上げて泣いたのなんか、いつ振りの事だろう。エースの胸に顔を埋め、ルフィは泣いた。膝から崩れ落ちそうになるルフィを、エースはしっかり抱きしめて、支えてくれた。



「…お前のためだと、思ったんだ。」

暫くしてルフィが落ち着いた頃、すぐ傍のベンチに、二人並んで座った。
久方ぶりの大泣きで、頭に靄がかかったような状態のルフィを右肩に持たせかけたまま、エースはその黒髪に頬を押し付ける。右手で撫でる髪のさらさらとした感触も、左手で握る指先の細さも、何もかもが愛しくて涙が出そうだった。

「おれが、お前によりかかっちまうばっかりに、お前を潰しちゃなんねえって。そう思ってた。」
「…ちがうだろ、エース。おれがエースがいないと生きてけなかったんだ。生活の事とか、おれ、なんも考えないでエースにまかせっきりにして、」

「違う。」

そうじゃない。そうじゃないルフィ、聴いてくれ。
心拍数がどんどん上がってゆくのが分かる。大丈夫。覚悟は出来ている。手が震えるなんて、そんなこと有るはずない。

深呼吸を一つ。ルフィの両肩に手をかけ、名残惜しい体温を手放した。こちらに身を預けていたルフィを支え、正面から、その瞳を見つめる。涙に濡れた瞳は、それでも真っ直ぐに前を見据えていた。


「…守るためだと、思ったんだ。お前を、おれ自身から。そうしないと、お前を無理やり自分のもんにしちまいそうだった。」

ああ、もしかしたら、こんな近くでこいつの瞳を見つめるのも、もう最後かもしれないな。
思考の端で、エースはそんなことを思った。


「おれは、…おれは、『兄貴』としてそう想う以上に、一人の男として、お前を愛しちまったから。」


エースの言葉に、ルフィの心臓が大きく一つ高鳴った。

胸に血が競り上がるのが分かる。何を言われたのかよくわからなかった。

ルフィは靄の掛かる頭を必死で回転させた。
早くしないと、取り返しのつかないことになる。直感で、ルフィはそう悟った。
なぜなら、目の前の兄の顔が、見たこともないくらい、悲壮な覚悟を湛えているように見えたから。

逸る鼓動を必死で抑え、ルフィは貼り付く喉から声を絞り出した。


「…エース、エース、なに、もっかい、いって…。」
「何度でも言う。…ルフィ、愛してる。」


「愛してる。」

「…愛してる」
 

「……ッ、愛してる…!」


エースの顔が、まるで泣き出しそうに歪んだ時、もう見ていられなくて、どうしようもなくて、ルフィはその頬に手を伸ばした。兄が、驚いたようにその切れ長の目を見開くのが見えたが、構わず、

その唇に思いきり口づけた。

胸の熱さと愛しさで、死んでしまいそうだった。
愛しい。いとしい。このひとが、いとしい。この唇から伝わればいいのに。そう思った。
押し付けるだけの拙い口づけだったが、エースから言葉を奪うには十分だった。
唇を離し兄の頬を両手で挟んだまま、ルフィは訴えた。


「エース…、エース、ありがとう……!」

どういえば、兄に伝わるだろう。目前で目を見開くこの愛しい男に、伝わるだろう。
ルフィは、自分にできる精一杯で、その胸の内を伝えようと必死だった。

「…おれ、おれ、ほんとは大丈夫なんかじゃない…!!あの頃から、…ッ寂しくて、さみしくて死にそうだったあん時から、ほんとは、なんも変わってない…!!」

血を吐くような叫びだった。
だがそれは、ルフィが初めて己の昏い暗い部分を曝け出し受け止めた、まさにその瞬間でもあった。
見る見るうちに、ルフィの目から涙が溢れ零れ出す。あまりに美しい光景を、エースは息もできずに見つめていた。

「……っぅ、えー、す…!いやだ、はなれたく、ないよ……!!」

「…エース、エース、行くな、ここに、いて。傍にいて…!っおれ、エースがいなきゃ死んじまう…!!」

「すきだ、すきだ、だいすきだ。世界で一番、……エースが好きだ……!!!!!」


ルフィが溢れる涙もそのままに言った時、愛しさと歓喜がエースのブレーカーを弾き飛ばした。衝動に任せ、世界で一番甘美な言葉を零すその唇を、食らい付くように塞ぐ。

何度も何度も、角度を変えて。
ルフィが時折苦しげに漏らす吐息混じりの声も、全て飲み込むつもりだった。

息継ぎもできないくらいに。掌に収まる頭に指を食い込ませ、その癖のない黒髪を、めちゃくちゃに乱す位に。小川のせせらぎも、頭上の星の瞬きも、吹き抜けるそよ風も、何一つ二人の意識を奪うことは出来なかった。お互いに触れている部分と、そして唇。その全てに、全神経が集中していた。

どんな言葉でも足りやしない。どれだけ強く抱きしめても叶わない。
言葉では到底表せない愛しさが、せめてこの口づけで伝わるようにと、願いを込めて。



口づけに応えてもらえることの、何と幸せなことか。細い両腕が、確かな意思を持って己の首に巻き付いた時、これが夢なら今すぐ殺してくれと、エースは心底そう思った。







ディサローノ・ミスト=クラッシュドアイスにディサローノ・アマレットを注ぐ。
その昔、ある女性が、愛する画家の男にこの酒を捧げたという。


その味は、甘く、ほろ苦い。