携帯が鳴っている。シャンクスはグラスを洗っていた手を止め、黒いギャルソンエプロンで水滴を拭った。
まだ微かに濡れた指先でポケットの中からスマートフォンを取り出す。画面には、

「…、ルフィ…?」

今彼にとって最も大切な、そして不安を抱く名前があった。

「もしもし、ルフィか?」

何があったのだろう。顔の見える遣り取りを好むルフィは、電話など掛けて来ない。用があるなら直接会いに来る。
何より彼は数日前に倒れたばかりだ。体調は戻ったと言っていたが、大事を取って休ませている。

電話には出たものの、呼びかけにも返事がない。心拍数がみるみる内に上がっていく。

「ルフィ、…ルフィ?どうした、返事、」


『………っ、シャン、クス……!!』


その声を聞いただけで、シャンクスは店を飛び出した。開店前の店の事は頭から消えていた。今は買い出しに行っている敏腕の相棒がなんとかしてくれるだろう。

ルフィが泣いている。理由なんかそれで充分だった。





「ルフィ!!!!」

彼等の祖父の持ち物だという一軒家にたどり着き、車から飛び出した。数日前は拳を固めて開くのを待っていたその扉に、蹴破る勢いで飛び込んだ途端、


「…………大丈夫、大丈夫だルフィ。何にも怖いことなんかないから、………だから泣くな、ルフィ…。」

身も世もなく縋り付き、声もなく身体を震わせる愛しい子供を、シャンクスは万感の想いを込めて抱きしめた。





エースが帰ってこない。どこにいるかもわからない。携帯も繋がらないまま、三日が経つ。
泣きじゃくるルフィを宥めすかし、やっとの思いで聞き出した事情はこうだった。

聞けば、例の件を切り出した途端、顔色をなくして部屋に戻り、しばらくして外へ出ていく音がしたままそれっきりだという。

大方自分の考えが如何に浅はかだったか思い当たって、後悔やら自己嫌悪やらにまみれているのだろう。自業自得だ、様を見ろ。シャンクスは大人気なくもそう思った。ルフィの涙はどんな極上の酒も敵わぬ貴重なものだ。

とはいえ、ルフィがこんなに弱っているこの状況は頂けない。


何とかしなければ。そう思う思考の端で、苦々しい思いが沸々と沸き上がって来る。頼れる存在はシャンクスだけとでも言うように縋り付く愛しい子供。しかしルフィが心から求める存在が己ではないことを、望まないながらもシャンクスは知っていた。茶番だ。残酷にも程がある。

だがしかし、これが幸運であり、チャンスであることに変わりはなかった。エースが離れて、ルフィが真っ先に助けを求めたのはこの自分だったのだから。

ソファに腰掛けて今だ小さくしゃくり上げるルフィを抱きながら、シャンクスは彼に語りかけた。


「………なぁルフィ。俺にしとかないか?」

明日の予定を尋ねる軽さで、シャンクスはルフィに言った。

「いい歳してこんな陳腐な台詞使うつもりなんかなかったんだけどな。本当は、大人の経験値最大限活用して、スマートにさらっちまうつもりだった。」


でも、もう見てられねえよ。
シャンクスはそう続けた。

呆然と自分を見上げる、ルフィの涙に濡れた瞳をまっすぐに見つめながら。


「俺にしとけルフィ。俺は絶対、お前に寂しい思いなんかさせねえから。こんなに泣かせたりしねえから。……約束する。」

そこまで言って、シャンクスは再びルフィを抱きしめた。今度は、慈しむものでもいたわるものでもなく、自分の想いを、体温を、愛しい身体に刻み込むために。

「……俺じゃ駄目か、ルフィ。」


ルフィの顔は、見えなかった。




吹っ切れたような、何かを切り捨てたような穏やかな顔で、弟が手札を突き付けたその後。 エースは数日、家に帰らなかった。
友人の家や店を点々としながら、纏まらない思考の中を必死で泳いでいた。


今まで散々考えてきたはずだった。ありとあらゆる可能性を考え、模索し、もがいてきたはずだった。

しかし、そのはるか想定外のカードを突き付けられて初めて、エースは自分がどんなに狭い視界の中で物事を考えていたか思い知った。

もともと、何処か飛び抜けた発想をもつ弟ではあった。だがまさか、こんな選択肢を掘り出して来るなんて。


これか、と思った。

手遅れになる前に、とベンは言った。

あいつが何処に行こうがと、シャンクスは言った。

二人ともこのことを知ったのだ。だからあんなにもらしくない様子でエースに詰め寄った。

全ては、ルフィを繋ぎ留めるために。

彼等だけではない。
ルフィの数多い友人達も、恐らくこれを知ったら黙って見てはいないだろう。

そこまで考えたとき、焦燥感の根源をエースは知った。


おれは怖いのだ。
あまりにも多くに愛され、慈しまれる弟。その弟が、誰かに奪われるのが怖いのだ。おれを忘れ、おれのいない処で生きてゆくのが怖いのだ。


あまりにも簡単で、短絡的で、そして身勝手な思いだった。

自分から突き放して置きながら、その手は放したくないと望む。要するに就職という選択肢は、最もエースにとって都合の良い、いわば安全策だったのだ。 ルフィに自らの劣情をさらけ出し傷付くことを防ぐと同時に、家に戻れば確実にルフィはそこにいる。好きなときに弟に会うことができる。そういう甘く残酷な道だった。

最低だ。何が「いい兄貴」だ。クソくらえ。


ルフィを愛するならば、なぜ歯を食いしばって側で守ってやらないのだ。自身がルフィの危険であるならば、それが迫るその場で舌を噛み切る位の覚悟で愛してやらないのだ。
エースは結局何も犠牲にしていない。望む未来を諦めたのは、本当の覚悟を以って、逃げ道も断って夢を棄てたのは、ルフィただ一人だったのだ。


エースは、静かに目を閉じた。
数日前とは比べものにならないほどの自己嫌悪と後悔に荒れ狂う、その胸の内を鎮めるために。

罰も業も、いずれ甘んじて受け止めよう。だがそれは今ではない。今自分がすべきは、この見苦しい、仮面の下の己をさらけ出すこと。「いい兄」ではなく、一人の情けない男として、「エース」として、愛するひとに向き合うことだった。

恐らくこれが、最後のチャンスだ。もう後はない。腹を決めよう。覚悟を決めよう。例え拒絶されても、望む未来が帰ってこなくても、ルフィを愛す。愛し通す。

瞼の裏に、いとしい笑顔が瞬いた。

音もなく目を開け、既に氷ばかりとなった手の中のグラスを見つめた後、エースはゆっくりと顔を上げた。


「……腹は決まったかね、青年。」

唐突にかけられた静かな声に、エースは2つ3つ離れた席を振り向いた。真っ白な髪とあご髭を豊かにたたえた上品な老人が、口元に笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
その問いに答えるために、エースも随分と久しぶりに穏やかな笑みを浮かべた。

「……はい、やっと。」

満足げに頷き、老人はブランデーのグラスを傾けた。



カウンターの向こうのマスターに向き直り、空のグラスを上に置く。それを待っていたかのように、初老のマスターはエースを見て微笑んだ。


今日の酒は、次で終わりだ。



「………ご注文は?」







XYZ=ラム+コアントロー+レモンジュース。その名前の由来は、「これ以上はない究極のカクテル」という意味からとされる。

もう、後は無い。