夢を見ていた。

まだ幼い自分。手は小さく歩幅は狭く、遠くの物には届かない。それでも、必死で目の前の背中に追い縋り、呼びかけ、求めた。

行かないで、行かないで、側にいて。

突然出来た兄。
出会ってまだ間もない頃、纏わり付く自分を鬱陶しそうに見遣るその目の奥に、孤独が棲み着いているのにルフィは気付いた。そしてそれをどうすればよいかルフィは知っていた。なぜなら、自分の中にも同じものが潜んでいることを、幼いながらに彼は知っていたからだ。

ひたすら兄を求め、笑いかけ、その手を掴んだ。
いつか必ず兄は振り向いてくれる。突き放すその一方で、ちゃんと着いて来ているか、ルフィが泣いていないか、幾度となく目の端で確かめてくれているのを、ルフィはちゃんと知っていた。

ところがある日、小さなその手で築き上げた防波堤が、宵闇の圧力で決壊した。
暴走し迫り来る恐怖から逃げ込んだ先は、温かな兄の腕の中だった。

(泣くな、ルフィ。おれがいるだろ。)

嬉しかった。ルフィを襲った真っ黒い濁流は、兄のシャツが吸い取ってくれた。もうなにも怖いものはないはずだった。

だが、濁流の根源は小さな小さな沼のように、ルフィの中に残された。
それは兄を慕う故の恐怖だった。

親を知らぬルフィは、同時に無償の愛がこの世に存在することを知らなかった。
祖父からそれを学ぶには、あまりに温もりが足りなかった。

自分が笑顔を忘れたら、兄は自分を見限ってしまうのではないだろうか。
愛されたい。愛されるようにならなければならない。独りでは、生きてゆけない。

ルフィは、自分の中のその昏い部分に蓋をした。小さな箱に閉じ込めて、胸の奥の奥の方にしまうことにした。
そして笑った。弱い自分を、面倒な自分を踏み付けて。

計算ではなく、本能だった。

なんと自分勝手な言い分だろう。夢うつつにルフィは自嘲した。

兄の、カウンターに立つ姿が好きだった。未成年のルフィに配慮して作ってくれた、ノンアルコールのカクテルが好きだった。シェイカーを軽やかに振るうその手が、未来を見据えて真剣に煌めくその瞳が、客の舌鼓に心から歓喜するその笑顔が、

兄が、好きだった。

彼が自分から離れていってやっと気付くなんて、自分の愚かしさに吐き気がした。
あの絶対的な空間に、二人並び立つ。あんなに確かだった夢、未来。
兄が自分の為にその未来を諦めたと信じて疑わないルフィは、自分の愛がもはやただの依存で、愛する兄の足首に絡み付く太い鎖のように思えてならなかった。

弟は怒っていた。悲しかった。
ルフィを傷付けないように、頑なに腹の中を見せない兄が。
そして何より、兄にそうさせている自分の弱さが許せなかった。
苛立ちをぶつけるだけで、結局は彼に寄り掛からないと生きて行けないであろう、自分自身が情けなかった。

だがもういい。弱いルフィにさよならしよう。
兄の温かい懐から出るのはどうしようもなくこわいけれど、兄がまた朗らかに笑ってくれるなら、それでいい。
遠くからそれが見られたら、それでいい。

夢なのに、こめかみを伝う確かな感覚は何故だろう。頬を撫でるこの優しい感触は、何だろう。ルフィは、自分の意志で目を開けた。



弟に触れることはもちろん、弟の顔を真正面から見つめることすらもういつ振りの事か思い出せないことに気付いて、エースは愕然とした。
ベッドの端に腰掛けて、憔悴しきって眠るルフィの頬を、恐る恐る指の背で撫でる。

怖いほどに、弟の寝顔は美しかった。

月明かりだけで照らされた薄暗い部屋でもわかる、明らかに痩せた青白い顔。少しでも温もりを分けたくて、エースはその頬を撫でつづけた。

「…………、」
「………ルフィ…?」

すると何の前触れもなく、弟が小さく息を詰め、その密な睫毛を震わせた。やっと目覚める兆候が見えた安堵と、久しぶりに弟と向き合う事に対する緊張をエースが同時に感じたその一呼吸後、

つ、と音もなく、一筋の涙が弟の目から溢れ、その肌を伝った。



「………エース……。」

呼吸すら止めた彼を現実に引き戻したのは、その弟の掠れた声だった。
「………、ルフィ。大丈夫か。しんどくないか。」
動揺を握り潰し、頬に触れていた手で髪を撫でる。余りに懐かしい、愛しい感触に眩暈がした。

「…ん、大丈夫…。ごめんなエース、びっくりしたろ?」

後でシャンクスとベンにも謝んなきゃ。そういって、ルフィはさりげなく目尻に残る涙を拭った。
「なぁ、エースこそ大丈夫か?どうしたんだよその顔。」
喧嘩したのか?痛くないか?

シャンクスに殴られた事はいずれバレるかもしれないが、今はそのことについて話すつもりはなかった。

シャンクスはああ言ったが、エースを踏み切らせるには余りに不確定要素が多過ぎた。
甘い期待が幾度となくエースの中で首をもたげた。だがその度に彼はそれを押さえ付けた。
ルフィをここまで追い詰めたのが、「兄」への愛か、自分が望む愛か。賭けに出るには、余りにリスクが大きかった。

決定打が、欲しかった。

何より、自身の不調もそっちのけな弟の気遣いがいたたまれなかった。
自分には、そんな資格なんかない。

痣になった頬へ向かって伸ばされた手を、目的地に辿り着く前に捕らえ、優しく握り込む。
話題を何とか逸らそうと、エースは話を切り出した。

「……なぁ、ルフィ。そのままでいいから、聞いてくれるか。」
「………ん、なんだ?」

一つ、意識して呼吸をし、ともすれば震えそうになる声を整える。大丈夫。おれはまだ、「いい兄貴」でいられる。

「ルフィ、おれな。仕事決まったよ。」

微かに見開いた弟の目の奥に、何か瞬いた気がした。だがそれが何だったか確かめる前に、ルフィはそれを瞬時に引っ込め、そしていつもの様に笑って言った。

「よかったなぁエース!エースめっちゃ頑張ってたもんな!!お疲れさんでした!!」

はしゃぐように言ってエースを労ってくれる愛すべき弟に、兄は穏やかにありがとう、と告げ、そして続けた。

「それでな、ルフィ。………おれ、この家を出ようと思う。」

握り込んだ細い指先が、小さく震えた気がした。

「勤務地がどこになるかまだわからないけど、本社勤務でもやっぱり一人で暮らすつもりだ。」

仮面をつけたまま、エースは続ける。

「お前と暮らすのが嫌な訳じゃない。ただ、お前もおれも、そろそろ地に足つけなきゃいけないと思うんだ。」
「大丈夫だよな、ルフィ。離れて暮らすって言っても、ちょくちょく帰ってくるし。お前ももうすぐ成人だし、一人でも、」

「だめだ、エース。」

短く遮ったその後、余りに穏やかな声で弟は続けた。

「行くな。……行くなエース。ここにいろ。」

そして弟は、今まで見たこともないような顔で微笑った。
あまりにきれいな、かなしい顔で微笑った。


「そのかわり、おれが出ていく。」



どくん、と一つ、心臓が跳ねた。
弟はいま何と言った?

ルフィはゆっくりと起き上がり、ベッドの下に置かれたメッセンジャーバッグを引き上げた。その一連の動作を手伝う余裕も、今のエースにはなかった。

そんな兄の様子に気付くことなく、ルフィは中から一通の封筒を取り出し、エースに差し出した。
微かに震える指先で中身を取り出す。中には、味気のない一枚の紙が、

「、専門学校…?海洋、技術の…?」
「……じいちゃんが出た学校なんだって。全寮制で、船乗りになる勉強するんだ。飯も出るからエースは何も心配しなくていーぞ。」

「せっかく大学入れてもらって申し訳ないけど、おれ、じいちゃんみたいな船乗りになるよ。 ―――春になったら、おれがこの家を出る。エースは、ここにいてくれ。」

弟の言葉が頭の中を滑り、通り過ぎて行く。
弟は、何を言っている?

なぜこんなにも、穏やかな顔をしている?

「………ごめんな、エース。気付くの遅くてごめん。縛り付けてごめん。おれ、馬鹿で弱いから、エースがいないと生きていけなかった。」
「だけどもういいよ。エースは、エースの好きなことやればいい。おれも、海好きだし、船好きだし、きっと楽しくやれる。」

せっかく仕事決まったのにごめんな。もっと早くこうしとけば、エースも就活なんかしなくて済んだかもしんないのに。

そういって弟は笑う。
違う、そんな言葉が聞きたかった訳じゃない。
そんなことを望んじゃいない。

更に言葉を紡ごうと開いた弟の唇を見て留めた瞬間、突然沸き上がる根源の解らぬ焦燥感にエースは狼狽した。
やめろ、やめろ、言うなルフィ。頼むから、そんなかなしい顔で、


「…………今までごめんな。ありがとう、兄ちゃん。」


弟が穏やかに告げた言葉は、まるで致死性の毒のようにエースの心臓を捕らえた。

喉に焼き付く後悔は、強い酒のように熱かった。





ウォッカ=ウォツカ。起源はロシアともポーランドとも言われ、詳細は不明。無味無臭無色。
ルフィの言う専門学校は架空です。ご了承ください。