「……はい、ありがとうございます。…いえ、こちらこそ。はい、はい、…失礼します。」

ぱたん、と携帯を閉じる。

そのままソファーに深く沈みこんだ。
同年代の仲間達なら、泣いて喜ぶほどであろうその電話。だが、エースにとってはいよいよもって己の望む未来を棄てる、その最終宣告でしかなかった。
深く、溜息をひとつ。

(……ルフィ。)

会いたい。声が聞きたい。笑った顔が見たい。
笑うしかない。愛するそれらを奪ったのは他ならぬ自分自身ではないか。

最近は、感情のぶつかり合いすらなくなった。
会話は必要最低限。連絡事項の伝達と、弟が控えめに自分を心配する言葉。

(……エース、なんか痩せたぞ。あんまり、無理すんなよ。)

そういう弟のほうが余程辛そうだった。食べる量も、明らかに減っているのは彼のほうだ。 うっすらと赤い目尻を撫でて、細い肩を掴んで問い詰めたかった。

お前こそ具合悪いんじゃないのか。
外ではちゃんと食べてるのか。
夜、眠れてるか。


喉元まで競り上がったそれらの言葉を、エースは無理矢理飲み込んだ。
背を向けたまま、ああ、と短く返事をしただけだ。

今更おれにどうしろと言うのだ。あれだけの態度を弟にとって置きながら、今更優しい言葉など掛けられない。

そんな資格なんか、無い。

大学が終わった後は、弟はいつものようにシャンクスとベンの元へ行っているはずだ。もちろん店では働いている訳だが、ちゃんと定刻に帰ってくるし、何かあっても彼等がいれば大丈夫だ。食事にしたって、弟には料理の専門学校に通う高校以来の友人もいる。

おれがいなければならない理由など、実のところ彼にはないのだ。

無性に酒が飲みたかった。まだ時刻は夕方だが仕方ない。 ここのところ、強い酒をショットやロックで一人飲む習慣がついてしまっていた。
まるでこの掌の一部のようだったシェイカーには、もう暫く触れていない。

ラムは切れた。ウイスキーも。手付かずのジャックダニエルの瓶が戸棚に眠っているが、あれは訳ありで開けられない。

(……テキーラがあったな。)

重い腰を上げてキッチンに向かう。
最近はヘビーローテーションのショットグラスと、岩塩の小瓶を手に取りリビングに引き返す。

と、その時、放り出したままだった携帯が鈍く震えているのに気が付いた。

「……やべ、」

就活生の哀しい性か、慌てて二つ折の端末を開く。

(…、ベン?珍しい)

「はい」
『…エースか。俺だ。』
「ああ、ベン久しぶり。どうしたんだ、珍しい。」

赤髪の男はともかく、彼がこうしてコンタクトを取ってくるのは本当に稀なことだった。

『…ちょっとな。お前はどうだ、最近。忙しくしてるみたいだが。』
「…ああ、おかげさんで、さっきちょうど内定貰ったトコ。」
『おお、そりゃあよかったな」

おめでとう、と柔らかく告げる低い声には、素直に礼を返せる。ベンは男の目から見てもいい男だ。

「…で?本題は別なんだろ?ベン。」
『…ん?…ああ…。』

本当に珍しい。
彼がこんな風に言い淀む処などついぞみたことがない。
何か、あったのだろうか。

「…ベン、何か、」
『エース、お前最近ルフィと何か話したか。』
「……いや、特には。…何で?」

何か、嫌な予感がした。

『……エース、お前が何を考えてるかは正直俺達にはよくわからん。だがな、少なくともルフィとは腹を割って一度話すべきだと俺は思う。』
「………。」

『説教するつもりはない。お前ももう21の男だ。店の事も、どうにでもなるだろう。』

『だがルフィは別だ。……エース、ルフィと腹割って話してやれ。取り返しが付かなくなる前に。』

いつになく固いベンの声に、謂れもない焦燥感が募る。何が、こんなにも、

「……ルフィに、何かあったのか」

そうだ、何故いつものようにシャンクスではなく、ベンが電話を掛けている?


『…今、シャンクスが車で送っている。……さっき、店で倒れた。』


心臓が一つ、嫌な音を立てて鳴った。
ひゅ、と喉が空虚に痙攣する。

『エース!!待て、今お前が飛び出してもどうにもならん!!』

ベンの怒声で我に帰った。ギリ、と携帯を握る左手に力を込め、浮きかけた腰を無理矢理ソファーに戻らせる。

『落ち着け、ただの貧血のようだ。意識を失った訳じゃないし、少し休ませれば良くなるだろう。』

これを聞いて初めて、詰めていた息を吐いた。

「……悪い、ありがとうベン。家で、待ってるよ」
『ああ、そうしてくれ。そして話せ。内定の事も、お前が考えてる事も。』
「……。」

話す?俺が今考えてる事を?
………無理だ。絶対に。

それからの会話はよく覚えていない。ただひたすら、取り返しが付かなくなる前に、とベンが繰り返し繰り返し訴えていたのは覚えている。

パタン、と携帯を閉じる。
ルフィが倒れた。その事実ばかりが頭を巡る。

「ただの貧血」?
弟がそんなもんになったことなんかただの一度もない。

そこまで追い詰められていた?
おれの、せいで?

ピンポン、とインターホンが鳴った。
弾かれたように立ち上がり、インターホンの画面も確かめずそのまま玄関に向かう。

靴も履かないままぶつかるように玄関の戸を開けたのと、頬に拳が飛んできたのはほぼ同時だった。