(藍・5)


「なーエースー」
「んー?」
「サボほんとに出てこれんのかな?今頃店も大騒ぎなんじゃねーのかな」
「まあそりゃそうだろうなあ。でもあいつにお前より優先するものなんかねえだろ。あいつが来てくれなきゃ商い手形もらえねえんだから、おれもお前も関所通れねえぞ。」
「げ」
 ナミ伝いにサボが連絡をよこしたことには、外海屋の商い手形を渡すから、外海屋の奉公人のふりをして、商売の品を仕入れに行くのだと言って関所を越えろ、とのことだった。七ツ(午後4時)に、と指定されたのは、町を出る一番北の木戸の前。そこでサボが待っているはずだった。
 だが。
「……あんたらも諦めが悪いな。」
 そこにサボの姿はなく、木戸への道をふさぐように立っていたのは、今朝のあの賭場の男達だった。
「―――まだ何か用かい。祝言はなくなった。こいつへの用は済んだはずだぜ。」
 ルフィを男達から隠すように一歩前に出る。それを見たルフィが、いたく不満げにエース、と呼んだが、それには答えなかった。
 今朝見たあの粘つくような笑みはもはや浮かべてはいない。苦いもののように煙を吐き出すと、賭場の番頭は煙管をいじりながら口を開いた。
「そうさな。そこの小僧っこにはもう何の用もねえ。正直、あのおかみも大したもんだよ。あの業突張りの伊勢屋のおやじを舌先三寸で黙らせやがった。一体どんな手使ったんだか、あの伊勢屋が青くなって出てきてよう。お前さんたち、『きえんれい』って何のこったかわかるかい?どんなおっかねえもんなんだか、おれにぁさっぱりだよ」
 棄捐令。奥方が知っていた。伊勢屋は縁談どころではなくなる。サボの目論見通りだ。サボが話したのか。サボ、そうだ、サボは?
「―――あんたらどうやっておれとこいつがここに来るって知った?」
 ここで初めて、疲れたような顔をしていた男がにたりと笑った。エースとルフィが決して喜ばないであろうことを知っている、嫌な笑みだった。
「……さあ、どうしてだと思う?」
「ここで兄弟が待ってるはずだった。あいつがここと決めたんだ。おれもこいつも、だれにも行き先は告げてない。」
 サボはどこだ。
 それまで、エースと番頭のやり取りを黙って聞いていたルフィが、エースの低く唸るようなその声に反応した。ぶわ、と弟を取り巻く空気が変わったのがわかる。いつでも身をひるがえし飛び掛かれるように身を構える、けもののように。
「なあに、そんなおっかねえ顔しなさんな。可愛い顔が台無しだよ若様。おれたちが用があるのはそっちのあにさん、あんただけだ。―――素人に面と向かって恥かかされて、はいそうですかと黙って家に帰れるもんかね。」
 猫なで声からごろりと転げ落ちるように声音が変わった。
 決して大きくはない。大きくはないが、妙に抑揚のない、低く地を這うような声は、その男が通ってきた修羅場の数をエースに悟らせた。
「安心しな。若旦那様にはここまで後をつけさせてもらっただけだ。手荒い真似はしてねえよ。……たぶんな。」
 白々しく付け加えられた最後の一言に、周りを取り囲む男達がさざめくように笑った。素早く視線を周りに走らせた。手勢は10人とすこし。昼間見た人数より多少少ない。どこか近くでサボに手出しをしているに違いなかった。
「……ルフィ、下がってろ」
「いやだ」
「言うこと聞け。これはおれの喧嘩だ。」
「もとはおれのことだ。」
「だからお前に怪我させたくねえんだって」
「知らん。壊れもん扱いすんな」
「あのな、」
 そのまま堂々巡りを続けるかと思われた会話は、半ば強制的に打ち切られた。付き合う義理はないとばかりに割り込んできた拳を、二人同時に身を翻して避けざるを得なかったからだ。
 一気に後ろに飛んで間合いを取る。エースは相手から目を離さないまま、背中に背負った荷を放り投げ、身軽になった。傍らの弟が同じように行李を下ろしたのを目の端に止めて、深々とため息をつく。
「……あーあ、あの聞き分けのいい『若様』はどこいっちまったんだか」
「あーそういうこと言うか!?ようやっと息ができたような気がしてんのに、おれ。……『外海屋の若』のほうがよかったか?」
 とは言いつつ、結局のところルフィはその回答を知っているという顔をしてエースを見上げていた。その目に、あの頃のような儚さはない。彼本来の、陽の光そのもののようなきらめいたまなざし。エースは小さく苦笑いして、言った。
「……いいや。どんなお前もお前だよ。」
 しし、とルフィが笑った。諦めとも、喜びとも言えそうな微妙な感情を持て余しながら、エースは迫りくる眼前の男達を見つめた。

「……―――兄貴、思い出した、……っ、こいつ、『火拳』だ……!」
「……ああ……?」
 鈍い痛みに呻き、腹からせり上がる吐き気にえづきながら、男は手下の声を聞いた。
 死屍累々とはこのことだ。ぱんぱん、と捲り上げた旅装束の裾を払いながら立つ二人の周りに、男の部下たちが呻きながら転がっている。ああ、呻くことができるやつはまだいい方だ。一体誰がこいつらを賭場まで連れて帰るというのだ。
 大人しく呉服屋の「若様」と下町の職人をやっていたとは到底思えない身のこなしで、この兄弟は10人からの荒くれたちを数分と待たずに地面に敷いてしまった。兄に狙いを定めれば弟からの軽やかな跳び蹴りを食らい、弟へ掴み掛ろうとすれば兄の方から重い拳が飛んでくるという塩梅だ。勘弁してくれ。目ン玉がいくつあっても足りやしねえ。番頭はいっそすがすがしいくらいの気持ちで空を仰いだ。
「『火拳』……、あー、思い出したぜ……。5年くれえ前のあのクソガキか……。ずいぶん立派になりやがって、わからねえじゃねえかよ……。」
「そりゃどうも。そのあだ名、こっ恥ずかしいから忘れて欲しいんだけどよ」
「えーなんだそれエース、おれ知らねえ!」
「いいのお前は知らなくて」
 あれはいったい何がきっかけだったろう。彼らの縄張りとする川岸賭場のに出入りしていた職人が、あろうことか賭場の壺振り女に惚れた挙句、まんまと騙され有り金を巻き上げられた、そんなくだらない一件だったのではなかったか。女が賭場とグルだとも知らず、女と一緒になるつもりで、女をあの泥臭い場所から救い上げるつもりで貯めた小金を全部巻き上げられて、そうだ、あの前に突き出たふざけた前髪の男は、傘職人ではなかったか。
―――馬鹿で阿呆な兄弟子だが、女への気持ちは本物だった。真っ当な勝負で負けた分は仕方がねえが、卑怯な手を使って兄弟子の想いを嗤った分、きっちり返してもらいやす。
 単身賭場に乗り込み、燃えるような瞳で律儀に口上を述べた、まだ18かそこらのそのそばかす顔。さんざ賭場を引っ掻き回した挙句、たった一人で何十人からの男らを伸してしまった。自らも大層殴られ痛めつけられながらも、決して緩まないその勢い。体重の乗った重い拳。一発で大の男数人をまとめて吹っ飛ばすその様に、ついたあだ名が「火拳」だった。
 その頃男はまだ番頭ではなく、幾人もいるやっこのうちのひとりにすぎなかったが、傍目にも若さって怖えなあと思った記憶がある。自分の付けた刃物傷がおそらく脇腹あたりにあるのではないかと思ったが、きっとこの男は覚えてすらいないのだろう。
男とて、先刻店で切られた啖呵を忘れてはいなかった。袖の中の匕首を出さずにのしてやるつもりだった。それが男の見栄であり矜持だったが、さあ、それも何のためだったか。
 ただただ勢いばかりだった小僧っこが、いっぱしに守るもんを見つけたか。
 やわらかく弟の肩を両手で掴み、怪我がないか確認しているその横顔を眺めながら、男は長い長い溜息を吐いた。
「………せいぜい達者でな、『火拳』のあにさん。」
「だぁからやめろっつーに。」
 心底いやそうな顔をして振り向いた顔に、番頭はにやりと笑ってやった。
 それを見て一瞬目を丸くした「火拳」は、同じような顔で笑って、頭を下げた。
 ヘェ、ありがとうごぜえやす、という嫌味な江戸言葉の礼にもう一度笑って、番頭は全身の力を抜いた。

「…――あ、いたいた。おーい、エース、ルフィー」
 静かになった男たちを転がしたままにして、荷物を背負い歩き出したところで、ずいぶんのんきな声が遠くから二人を呼んだ。
 夕焼けを背に長く伸びた影が、ひらひらと手を振っている。
「あー!サボー!大丈夫かあー!?」
「おせーよお前、何してたんだ!」
 おかげでこっちはひと悶着あったんだぞ、と文句を垂れると、駆け寄ったルフィの黒髪を撫でていたサボがからからと笑った。
「冷たいねえ兄弟。おれの心配はしてくれないのかい」
「だーれがおめえみてえな図太ェやつの心配するか。おれは手形の心配してんだ手形の。」
「とか言ってなあ、エースすげえおっかなかったんだぞ。『サボはどこだ』、つって」
 低くドスの効いたエースの声真似をして笑う弟の丸い頭に、割と本気の拳をひとつ落とす。つんざくような悲鳴を右の耳から左の耳に通り抜けさせながら、エースはサボに向き直った。
「で?お前が手こずるなんて珍しいじゃねえか」
「あーそれそれ聞いてくれよ、あいつらよっぽどイカサマ博打やってんなー。手癖悪いったらありゃしねえ。」
 聞けば、後をつけられているのに気付いたときには木戸のすぐ近くまで来てしまっており、もうここからは撒いても無駄だと判断してくるりと振り向いた。そのサボに、間髪入れずひとりが飛びかかってきたのだそうだ。
「これがうまいんだけどよ、その一人はあえて殴られる役で、本命はもう一人後ろにいてさ、一発殴って空いた懐から手形とついでに紙入れとられちまって。そしたらもうあっという間に一目散さ。あいつら手慣れてやがるぜー、あんまり見事で感心しちまった。」
「感心してる場合か。手形は。」
「もちろん、追いかけて取り返したぜ。ほれ、このとおり。」
 地の果てまでくらいのつもりでな、と笑ったサボの目が全く笑っていない。ぽんと放り投げられた手形を片手でしっかりと掴みながら、こいつだけは敵に回したくないと、しみじみエースは思った。
「てえしたもんだぜ、初代『青海屋』。」
「あ、いいなそれ。もっと言ってくれ」
「嫌味で言ってんだよ」
 エースの渋い面を見て、またサボがからからと笑った。
「あーあー、かわいそうに。行くのやめようかルフィ。こんなひねくれ野郎やめて、おれと一緒に商いしようぜ。」
 傍らにうずくまるルフィを立たせ、胸元に抱え込んでよしよしと黒髪を撫でる。その柔らかな声に、ルフィの手がぎゅう、とサボの背中に縋り付いた。
 強く殴りすぎたかとも思ったが、ほんのじゃれあいのようなそれは十分手加減したはずだった。
 サボの肩に顔を埋めるルフィの黒髪が、かすかに震えている。
 愛おしそうに黒髪に頬を寄せたサボが、目を閉じて語りかけた。
「……元気でな、ルフィ。落ち着いたらすぐ知らせをくれ。すぐに会いに行くから。飛脚だと母上とか店の誰かにばれるかもしれねえから、違う方法でうまくやってくれよ。」
 店主自ら店を空けるなんて、行き先が知れたら連れ戻されちまう、とおどけてみせるその声が、隠しきれず掠れている。
 ルフィにとって、つらい外海屋での唯一の、そして最大の支えだったサボ。
 そしてサボにとっても、ルフィが唯一の、サボがただのサボでいられる存在だったはずだ。そういう意味では、エースは兄弟子たちに、父と慕う師に囲まれ、存分に恵まれていた。二人にとっては、お互いが唯一だったのだ。どうしても、どうしようもなく。
 努めて普段通りにふるまおうとしていたものが、お互いの顔を見たとたんに崩れ落ちたのだろう。嗚咽を懸命にこらえるルフィの吐息が震えている。サボもとうとうルフィの肩に顔をうずめ、目元を隠してしまった。
 堪らなくなったエースも、サボの腕の中のルフィごと、ふたりを力いっぱい抱き締めた。黄昏時の往来。町はずれの木戸に向かう通りは、ほかにだれも通らない。背中に回ったサボの手のひらを感じて、エースはますます腕に力を込めた。
「……エース、どうか、達者でな。だいじょうぶ、おまえなら、やれる。ルフィを、どうか、」
「わかってる」
 わかってる、と掠れてどうしようもない声で、エースは応えた。
 震える呼吸を必死で飲み込んだ。この愛しい宝物を、ふたりで近くで、遠くで見守ってきたのだ。時に叱責され、背中を蹴り飛ばされ、肩を抱きながら、ずっと、ずっと。その片割れとの、しばしの別れだ。背筋を張る。無様な顔は、見せられない。
 サボの頭を手のひらで掴み、半ば無理やりに顔を上げさせた。
 ごつ、と額同士を打ち付ける。唇を噛みしめ、涙をぼろぼろと零すその色素の薄い瞳を覗き込む。子供のころでさえ見たことがないその様に、かえってどこか安心した。大丈夫だ。おれたちは、大丈夫。
「……大丈夫。大丈夫だ。お前ならやれる。きっといい店を作って、奉公人も、客も、たくさんのひとを幸せにできる。お前なら、やれる。」
「―――ああ。お前も。お前もだ、エース。」
「おれも、お前も。自分の足で、手で、道作って生きていくんだ。どこだって、どこにいたって、おれたちなら、やれる。」
「ああ。そうだ。……そうだな……!」
 目にいっぱいに溜めた涙を大粒のまま零し、サボも笑った。近すぎて見えなかったが、片割れが同じような情けない顔で泣き笑いしているのも、サボにはわかる。
 がしがしとお互いの髪をかき乱し、もう一度強く額を合わせた。大事な何かを、言葉にできない何かを分け合うかのように。最後にもう一度笑いあって、二人の兄は距離を取った。
 夜が迫る。この先の道のりを考えれば、日が落ちる前に木戸をくぐらねばならない。
 最後に見たい弟の顔は、決まっている。
 サボは腰を落とし、二人の間で肩を震わせる弟の顔を静かに覗き込んだ。
 頬を両手で包むと、瞬く間にあたたかい涙に手のひらが濡れた。指の間をさらさらとおちる黒髪の感触を、今ほどに愛しいと思ったことがあっただろうか。
 切なく顔を歪めて、弟は泣いていた。大きい瞳が溶けてしまうのではないかと思うほど大粒の涙をぼろぼろと零しながら、弟はそれでもサボをまっすぐに見つめた。
 嗚咽をこらえる必死の呼吸が震えている。その空気の揺れすら愛おしくて切ないなんて、こんなことがあっただろうか。
 こんな、胸の奥をぎりぎりと締め上げられるような、それでいてどこか甘いような、こんな痛い感情を、今まで抱いたことがあっただろうか。
 薄闇にけぶって光る弟の涙を、サボは心底美しいと思った。
「……泣くな、ルフィ。笑ってくれ。笑って、見送らせてくれ。」
 親指で涙を拭う。後を追うように零れ落ちるその涙を、許されるなら何度でも掬い取ろう。だがそれはもはやサボの役目ではない。彼を支えるように、力強くその細い肩を抱く腕がある。彼の傍らに寄り添う影がある。
 だからサボは笑って見送ろう。震えるその背を思いっきり押してやろう。
「笑ってくれルフィ。いつかまた会えたら、そんときにまた、思いっきり笑えるように。幸せになれ、ルフィ。幸せなんだって、おれに笑って見せてくれ。」
 しあわせになれ。なくな。わらって。わらって、ルフィ。
 その言葉にかたちがあるなら、きっといまサボの目から落ちるあたたかななみだの色をしているのだろう。愛そのものの、色をしているのだろう。
 震える呼吸のまま、ルフィは懸命にひとつ大きく息を吸い、そして吐いた。
 エースに柔らかく支えられた腕で思いっきり顔を拭い、涙を払った。濡れて赤くにじんだ目元で、それでも弟は微笑んだ。それが水面にうつるように、自然にサボも笑った。
 きっとひどい顔をしていただろう。この年になってこんなに泣くことがあるなど思いもしなかった。
 けれど。
(…―――そうだ、ルフィ。笑って。しあわせに。幸せになれ。)
 サボの、ぐちゃぐちゃでへたくそな笑顔を見て、ルフィが笑う。夏の向日葵そのものみたいな弟の笑顔。サボが世界で一番好きな顔。
 この笑顔が見られるなら、無様な顔をさらすくらい、だれよりたいせつな弟をほかの男にあずけるくらい、なんてことないと、サボは思う。
 宵の青がにじむ夕焼けが、どこまでも穏やかに兄弟たちの影を抱いた。


***


「―――おーい、だれかいるかい。出かけるよ」
「お待ちください!!旦那様どちらへ!!」
「この猫の手も借りたいときにどこへ逃げようっていうんですか!!」
 いっそ呑気と罵られても何も言えないような声で奥からサボが声をかけると、てんやわんやの店先から悲鳴に近い奉公人の声が鋭く飛んできた。
 その活気やよしとサボがからからと笑うと、笑っている場合じゃありませんとナミが吠える。
 あれから季節が一度めぐり、夏が来て、気づけば1年と少しが過ぎようとしていた。
 江戸を出てゆくエースとルフィを見送った後、サボは外海屋をたたみ、世話になった得意先に一軒一軒頭をさげて歩いた。長く続いたなあなあの商いも、清水から飛び降りるつもりで断ち切った。
 罵声も、心無い声も浴びた。当然のこととわかっていたし、覚悟もしていたがさすがに堪えた。なかなか図太い性格をしていると思った己が、飯を食うのもおっくうになる程度にはひどい思いをしたと思う。
 ただ、ひどいことばかりではなかった。
印半纏を納めている鍛冶町の旅籠の主人は、値の見直しがあっても構わない、店じゃない、あんたの商いの仕方やあんたんとこの職人の腕に惚れたんだ。ほかに頼むとこなんかあるもんかと言ってくれた。
話好きの彼に、これからもわたしの話相手を頼みますよ、と言われたのには苦笑いをするしかなかったが。
 一方あの大火事の時、猛火を焼け残った花嫁衣装を割り増しした値で買い取った豪商相模屋。帳面をまっさらにさせてほしいと頭を下げたサボに、相模屋は少し黙った後、誰に聞かせるでもないようにぼそりと言った。
 ああそうだ、よそゆきを新調したいと思っていてね、と。
 は、と思わず間抜けた声を出して顔を上げたサボに構わず、相模屋は思案するように袖の中で腕を組んだ。
 黒を持っているんだが、どうにもこうにも見目が重くてね。そうさな、灰鼠がよかろうか、それとも桑染は年寄りくさく見えるかね。どう思う、若旦那。今度反物を見繕ってみせておくんな。
 言葉をなくしてただただ見上げるだけのサボに、口の端を上げて笑って見せる。続けた相模屋の言葉に、サボは4代続く豪商の粋を見た。
――――青海屋さんの店開きのお祝いに着ていく一張羅だ。しかも帳面の初っ端に相模屋の名前を書いてもらおうってんだから、一等上等のやつこさえてもらわにゃあ。ねえ、若旦那。

 サボは黙って、頭を下げた。

 そうしてほうぼう駆け回って、ようやっと青海屋の看板を立ち上げた。
 真新しい看板。まっさらの商い帳面。前面に並ぶのは、今までの店にはなかったような、すこし野暮ったく、しかしどこかあたたかく、愛情の湧く染め直しの古着。上質の、ただし手の届かない値ではない少し気張った品物は、店の一歩奥へ控えめに。
 ようやっと暖簾揚げにこぎつけたその日。店の職人たちが丹精込めて、いっそ魂すら注ぎ込んで染めてくれた目の覚めるような瑠璃紺の暖簾を、サボが手ずから掛けた。
 手伝いもしないかわりに文句も言わず、黙ってサボの奔走ぶりを見守っていた母が、その時ばかりは表に出てきた。
 きれいな色だこと。そうぽつりと言った母の声を確かに聞いたとき。「青海屋」の屋号が夏の青空に気持ちよさそうにひるがえったとき。
 サボは、そのときばかり、少し泣いた。
「井川屋さんに呼ばれてんだよ。鍛冶町だから少しかかると思う。悪いな。」
「井川屋さん〜!?勘弁してくだせえよ、あっこの旦那さんは話がなげえんでさあ!」
「そうなんだよねえ、困ったもんだ。」
「もー!そう思うならさっさと切り上げて帰ってきてくださいな!いくら手があっても足りやしない!」
 好き勝手言いたいことを店主に向かって言いながら、女中、職人、手代や丁稚の小僧が忙しく駆け回る。開店以降、爆発的に増えはしないものの、じわじわと人のうわさが広がり、客足が増えた。特にも今日は天気が良いうえに神社の祭りが重なっている。猫の手も借りたいとはこのことだ。ああ、これはさっき自分が言われたのだったか。
 慌ただしさに急かされながら、それでも彼らの横顔は朗らかで明るい。
 働く者たちのすがすがしい笑顔を見ながら、サボは立ち上がった。
「―――行ってくる!店を頼むよ!」
 いってらっしゃいませ、お早いお帰りを!
 弾むような奉公人たちの声が、青空に抜けた。

(…―――いつの間にかもう夏か。あいつら、元気でやってるかな)
 用向きもそこそこに、むしろこちらが本題とばかりの井川屋の雑談に付き合って、ようやっとサボが東町に戻って来られたのは夕暮れ近くなってのことだった。
 ああこれはナミちゃんにどやされるなあと頭の端っこで思ったのも束の間、神社の祭囃子が耳に入った途端サボはそれを瞬時に忘れた。
 そろそろ客足も落ち着いてきた頃だ。土産に鼈甲飴でも買っていけば小僧や女中たちが喜ぶだろう。そう言い訳にもならないような言い訳を取ってつけて、鼻歌混じりに石階段をのぼり鳥居をくぐる。
 土産なんていいから寄り道しないでさっさと帰ってきてくださいって一体何度言ったらわかるんですか!
 先週も聞いたナミの声が聞こえるような気がしたが、気のせいにしておいた。
(…―――おや珍しい。旅芸人か。)
 夕暮れの中にも鮮やかに映える、燃えるような緋色の傘が目に留まった。参道わきの出店に紛れるようにして陣取る3人組の周りに、ひとだかりができている。
 どこか哀愁を誘う笛の音と、三味線。低く落ち着いた、だが確かな艶を感じる女の謡う声。群がる子供らが時折わあと歓声を上げるのは、どうやらからくりも使うらしい。
(どれ、ちょっと見ていこうかな)
 おもしろかったらあとで小僧たちを連れて来よう。普段なら流し見しつつ通り過ぎるであろうそれにぶらりと寄って行ったのは、あとから思えば、そのまぶしいような緋色に惹かれたのだ。
 蘭方のものだろうか。黒く色のついた眼鏡をかけた笛吹き男が、その奇抜な姿とは似ても似つかない、そう、音が手に触れるならまるでびろうどのような手触りだろう、美しい音色を紡ぐ。
 精巧な動きや繊細な細工が見事なからくりは、とても後ろに控えて糸を繰るあの大男が動かしているとは思えない。
 唯一見た目と技が一致していると言えるのは、艶のある美しい黒髪を後ろに流した女の奏でる三味線の音。そして彼らが旅をしてきた国々だろう。見知らぬ土地の見知らぬ人々の物語を謡う声。
 気候も土地柄も違うであろうさまざまな郷に暮らす人々の姿が、楽の音に合わせて謡となり、からくり人形にいのちをそそぎ、語り紡がれる。時におもしろおかしく、時に涙を誘い、そして時に自らの暮らしを振り返させる。
それは今この瞬間も見知らぬどこかで確かに息づく、見知らぬどこかの誰かの話。
それと同時に、聞くものの暮らしの話。
は、と息を呑み、ついつい魅入ってしまっていたことにサボが気づいたのは、べべん、と強い弾きで締められた演目に、周りを取り巻く客衆がわっと沸いたときだった。
(……驚いた。流しでこんな腕のいい芸人がいるなんて)
 静かに頭を下げる3人の前に、かたかた、と微かにぜんまいの音を鳴らしながら、愛らしい獅子姿のからくりが首に籠をかけて進み出る。わあ、ともう一度歓声が上がり、子供らはもちろん、大人も大喜びでその籠に次々と銭を入れてやる。これだけでも随分な稼ぎになりそうだが、それにしてももったいないような腕だと思った。どこかの歌舞伎小屋でお抱えになってもよさそうなものだ。純粋な道楽か、何かほかに目的があるのか。
(まあ、詮索しても詮無いことか)
 前にいた人々が満足げな表情で去っていくのを見つつ、サボも紙入れから一朱銀をつまみだして、からくり獅子の前に進み出た。ちゃりん、と音をたてた四角い銀が、籠の中できらりと光る。それを見た女の柳眉がついと上がった。
「……あら、こんなに。見てブルック、フランキー、こちらの男前が弾んでくださったわ。」
「アウ!随分気前がいいな兄ちゃん!おれのスーパーなメカが気に入ったと見える!」
「ヨホホホ。フランキーさん、メリケン言葉は伝わりませんよ。よかったですねロビンさん。ようやく江戸に着いたところで幸先が良い。」
 もったいないわ、と微笑んでこちらを見上げる女にゆるりと首を横に振って見せたあと、目線を合わせるためにサボもゆっくりと膝を折った。 袖の中で腕を組んで、長話の体制に入る。大した額ではないが、少しばかり世間話をさせてもらう分にはなるだろう。
「見事なもん見させてもらいました。気持ちばかり。姐さん方、どちらから?」
「里は3人ともほうぼうなのだけど、近江で出会ってから西の海沿いを北へ気ままに歩いて。しばらく奥のあたりをうろうろしていたのだけれど用事ができて、江戸を目指してようやく奥州街道を上ってきたところなの。」
「そりゃあいい。おれは伊勢や箱根参り以外じゃまだ江戸を出たことがなくてね。憧れるよ」
「ふふ、そうね。あなたも外に飛び出したいって目をしてる。……よく似た目をした子たちを知っているわ。」
 異国の血が混ざっているのだろうか。黒髪に見慣れぬ、薄い青色の目をしている。その目に目指す夢を見透かされたような気がして、サボはすこし面食らった。
「―――わかりやすいかな、おれ。まだ本当に駆け出しだけど、そのつもりで歩き始めたところなんだ。いつか、自分の船でいろんなとこを歩いてみたいと思ってる。」
「ヨホホホ。それはいい。あなたならきっと素敵な旅をするでしょうね。」
 そうかな、と、見知らぬ旅芸人に思いがけず夢を語ってしまった気恥ずかしさもあり、サボはがしがしと髪をかき乱した。こそばゆさついでに話題を変える。
「それはそうと、姐さんたち宿はもう決まってんのかい?もしまだならいい旅籠紹介するけど。」
「どうもありがとう。でももう宿はとってあるの。昔このあたりに住んでたひとに教えてもらって。井川屋さんてご存じ?」
「あ、おれもそこ紹介しようと思ってた。わかってるなその知り合い。うちの店であっこの印半纏納めてるんだ。いい宿だよ。主人も奉公人も気が良くて、飯もうまい。」
 ただおやじの話が長ぇんだけどよ、と続けると、ロビンと呼ばれた女が声をたてて笑った。あのひともおんなじことを言ってたわ、と。
「するってーと、にいちゃん呉服屋かなんかか?同業なら何か知ってんじゃねーのかロビン」
「あら、そうね。」
フランキーと呼ばれた大男が、派手な色柄の着物の裾を捲り上げ、人形を意外なほどの丁寧な手つきでしまいながら言った。
「探しもんかい?うちの店に置いてありゃいいけど」
「ああ、ごめんなさいね、モノではないの。さっき少しだけお話しした用事っていうのが、実は人探しで。」
「人探し?」
「そう、井川屋さんを教えてくれた知り合いに頼まれた大事な用なの。お兄さん、呉服の『青海屋』さんてお店、ご存じじゃないかしら。」
 ひゅ、と自分が息を呑んだ音が聞こえた。
「もしかしたらまだ暖簾揚げしていないかもしれないけど、必ずこの町でやっているはずだからと言われて。今日はもうどこも店じまいの時間だし、本腰を入れて探すのは明日にしようと思ってたのだけれど、……もし、お兄さん?」
 じわじわと喉にせりあがる熱い何かに阻まれ、声が出ない。
 あの鮮烈な朱色。あの旅籠を彼らに勧めたその知り合い。そうだ、彼女は言った。「よく似た目をした子たちを知っている」と、そう言った。
 まさか。
「……おれだ。」
「え……?」
「青海屋は、おれの店だ。おれが、青海屋のサボだ……!」
 まあ、と女が口元を片手で押さえた。おいおい、と大男が目を見開いて呟いた。
 ただひとり、黒眼鏡の男だけが、ヨホホホ、とひどく嬉しそうに笑ったのだった。
「あいつらなのか……?」
 胸が熱い。視界が歪む。ぼろりと涙が零れているのにも気づかず、サボはようやっと声を絞り出した。
 問いの形を取りながら、それはもはや確信だった。
「エースと、ルフィなのか……!?」
 女が目元を潤ませながら、静かに、だが確かに頷いた。サボは今度こそとめどなく溢れる涙を、手のひらで抑えた。指の隙間から、呻くように尋ねた。
「……あいつ、あいつらは、元気で、」
「元気ですよ。とっても。きっと、あなたが知ってるあの方たちのままです。安心なさってください。」
「……あなたに会えたら渡してほしいと預かったものがあるの。……フランキー。」
 黒眼鏡の男の、ひどく優しく穏やかな声が心の臓に沁みた。微かに揺れる声で女が呼びかけた先のからくり使いの大男は、なぜか自分が一番おいおいと声を上げて泣きながら、きっとあの二人の手によるものだろう差しかけていた朱色の番傘を手に取り、閉じた。
 かと思うと、柄の先の小さな、言われないとわからないような出っ張りをかちんと押す。すると、一本の竹と思われた柄の一部がするりと外れた。中から出てきたのは、紙切れが一枚。
「……どうぞ、ご覧になって。」
 震える指先で、小さな紙を広げる。見覚えのある豪快な筆運びの字を見て、サボは思わず、ああ、と声を漏らした。

 サボ。あいにきて。まってる。はやくきて。
 
 文を書くのが苦手な弟らしい、だが、サボにとってはどんな言葉より胸を惹かれてやまない言葉がそこには並んでいた。
 遠い遠い北の土地の名前。適当な方角。見当もつかない見知らぬ里の名前。へたくそな地図。道標にしてはあまりにも拙い。
 だが、サボを立ち上がらせ、駆け出させるには十分すぎた。
「…―――すまねえ!おれ行かなきゃ!!ああ、ああ本当に、この礼はいつか必ず、」
「いいから早く行けこの野郎!うおおんいい話じゃねえかよおおおおお」
「いいの、行って。あの子が待ってるわ。……気を付けて。次に江戸に来たときは、お店に寄らせてもらうわね。」
「ヨホホホホ。……その時に、貴方の旅のお話、聞かせてくださいね。」
 もう半分走り出しながら、サボは思いっきり笑って頷いた。ありがとう、と最後にもう一度声を張り上げて、祭の人混みをかき分けながら、もう振り返らずに駆ける。
 涙に滲んだ目で見るいつもの町は、どうにも美しく、きらめいて見えた。

「……―――戻ったよ!!」
「―――もー!!旦那様!!一体どこをほっつき歩いてたんですか!今日という今日は、」
 どたばたがしゃん、と大きな物音を立てながら、足も拭かず部屋に駆け戻った。
 小言をしこたまくれてやろうと待ち構えていたナミの気概を削ぐほどに、いまのサボの様子は切迫して見えたことだろう。
 言い訳をする余裕もなく、サボはみずからの行李をひっくり返し、旅支度を始めた。そんな主人を、ついに気でも触れたかと奉公人たちが恐る恐る障子の陰から覗き見る。
 そんなことともつゆ知らず、目線もくれず、さらにはそれがどんな大騒ぎを引き起こすかちらりとも考えず、サボは言った。
「ごめんみんな!!おれ今から旅に出るわ!!店を頼むよ!!」
「―――は、」
 言葉にならない奉公人の阿鼻叫喚で青海屋が揺れた、とは、あとあとまで東町の住人の語り草となった話だが、まあ、今のサボの知ったことではないのだった。