「ジャックダニエルの憂鬱」設定

※※※Caution! R18※※※


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 ハイヒールの踵が、レトロな石畳を軽やかに鳴らす。
 仕事帰りの気怠い足取りも、その心地よい音で少しずつリズムを取り戻しているようだ。
 通りの向こうに小さく見える柔らかい灯火。黒地に”D”のシンプルな看板。飴色のドア。それが近づく度に、寒さと疲れに強張った胸の奥がゆっくりとほどけてゆく。
 この感覚を彼女は知っている。2年前に初めて訪れたあの日以来、この店に行くときはいつもそうだからだ。
 カランカラン、とドアベルの乾いた軽やかな音が響く。それに振り向いたカウンターの奥の影は、いつものとおり2人分。揃いの黒いシャツにスラックス。長さの違うギャルソンエプロン。変わったのは、2年経って少し短くなった兄の方の髪と、精悍な顔つき。
 彼女の顔を見てみるみる広がった、少しも色あせない弟の方の笑みに、来たわよ、と一言。
 奥から2つめの席へ。
 彼女が口を開く前に、 兄がトニックの瓶を手に取る。大きな手のひらの中で、ガラスの瓶が踊るように身を翻し、きらりと誇らしげにきらめく。
 炭酸の泡が弾けるその音が、彼女の夜が始まる合図だった。

「…―――どーぞ、いつもの一杯目」
「わーい」
 コト、と小さな音を立ててカウンターに置かれた細身のグラス。無色の液体の中に無数の泡が踊る。いただきます、と一言置いて、ライムを絞らずに一口含む。
 2年経っても変わらない一杯目のジントニックは、すでに言わずとも出て来る。時々無性に飲みたくなるこの味は、血液にしみ込んで乾いた身体を潤すようだ。
「……はあ。生き返るわあー」
「ししし!ナミおっさんくせー」
「何ですってー?このあたしに向かって」
 けらけらと声を上げて笑ったルフィの額を握りきらない拳で小突いて、エースが小さく笑いながら通り過ぎて行った。ドア付近の席に座った客の相手をしに行ったのだろう。ほかに客がいないときは彼もナミと軽口を交わすが、今日のような時は1杯目を出した後ルフィにナミの相手を任せ、自分はオーダーに徹する事が多い。
 ルフィに寄せるナミの想いを知っている、彼の優しさととらえることもできなくもない。できなくもないが、彼ら兄弟の関係を知っている以上、余裕と優越感を誇示する振舞いと捉えることもできる。
 というか、おそらく十中八九後者に違いないとナミは思っている。
「……ふーんだ」
「どしたナミ。疲れてんのか?」
小さく呟いただけのつもりだったつぶやきを、意外に客の気持ちの浮き沈みに敏感なルフィが拾い上げた。
「んー、ちょっとね。ほっとしてんのよ。今日で仕事納めだったから」
「お前今日最後だったのか。おれたちと一緒だな!」
「あらそーなの?じゃあ今日が今年の飲み納めねー」
「でもおれ達みたいな飲食店とかならともかく、ちょっと遅くねえ?もう30日だぞ?」
「まあカレンダーどおりの仕事じゃないから仕方がないのよねー。来月発行の雑誌に載せる写真の原稿、さっき納めて来たとこなの。これで今年の仕事はおしまい」
「そっか。お前年中海外とかあっちこっち飛び回ってたしなー、ちゃんと終わってよかったなー!お疲れさん!」
「……ありがと」
なんの含みもない、満開の笑顔のオプション付きで自分一人だけに与えられた労いの言葉は、小さな嫉妬心も疲れから来る気怠さも、一瞬できれいに洗い流してしまう。
ナミは自然に湧き上がる温かな気持ちに身を委ねて、口元を緩めた。
「んじゃ一杯おごるな。スコッチいいの入ってるぞ」
「あらほんと?なになに」
「ジュラの20年」
「うっそやった!いーの?飲みたい飲みたい」
「飲み方どーする?」
「ロックで!」
「おっけー」
めったにお目にかかれない、独特のアーティスティックなパッケージの瓶。ルフィのしなやかな手がグラスにカラン、と球体の氷をひとつ落とす。栓を開けると、ゆっくりと琥珀色の酒がとくとくと注がれていく。マドラーで軽く酒の温度を氷に馴染ませる涼やかな音。黄金色のプリズムを纏わせたガラスの杯。
 ぼうっとその美しい光景を眺めているだけで、心臓のさらに奥の辺りに溜まっていた何か重いものがさらりと砂のように崩れて流れてゆく気がするのは、何度経験しても実に不思議な感触なのだった。
「……ちょっとおまけな。おれの奢り。お疲れ、ナミ」
 オンザロックのグラス。いつもならグラスの半分ほどのはずが、球体の氷がほとんど浸かりかけているような高さまで注がれている。
 そういうさりげない心遣いとか、お疲れ、と何の計算もなく笑顔で言えるその朗らかさが、
「―――ずるい」
「ん?何か言ったか?」
「知らない!頂きます!」
 手のひらの中で一度だけくるりとグラスの中の氷を転がした。
 不思議そうに自分を見ているルフィとは極力目を合わせないようにして、ナミはグラスを傾けた。
 口に含んだ瞬間、軽い、と思った。
 すう、と鼻に抜けてゆくウイスキー独特の芳醇な香り。喉を熱く流れてゆく強いアルコールの感触。なのに、後に残る香りは何処までも軽やかで、まるで霞か何かのようにするりと舌に馴染んで消えてゆく。舌触りもやわらかく、必要以上の主張が感じられない。
 喉に流し込んだ先から、次の一口、また一口と吸い込まれるような。
「……やだー、おいしいー!なんなのすっごい飲みやすいんだけど!」
「なー!やべーよな!昨日仕入れたばっかで家用にも一本買ったんだけどさ、おれとエースで一晩で一本開けそうになっちまってさー」
「わかる気がする。これは一本飲めちゃう」
「ちなみにおれのオススメの飲み方はミスト。ルフィ、あっちのお客さんにそれ、もう一杯」
 横から少し唐突にかけられた低い声にも動じることなく、ルフィはおう、と応えてもう一つ同じグラスを手に取った。
 狭いカウンターの中を身を寄せるようにすれ違うエースが、さりげなくルフィの肩に両手を置いて当たり前のように彼の身を守るような仕草を見せるのを、ナミはちゃんと見ていた。
「……相変わらずですこと」
「どーも、おかげさんで。」
「イヤミー!やだやだ!」
「なんだお前ら?何の話してんだ?」
 エースとナミの会話の意味がわからないルフィは、眉を寄せて怪訝そうな顔をしながらグラスをもって入口付近の席の方へカウンターの中を歩いて行った。
「珍しいわね、エースさんがミストなんて。いっつもストレートでぐいぐい行ってるじゃない」
「まーな。ちょっと身体に気を付けようかと」
 水滴のついたグラスを持ち上げながら彼が何でもないように言った一言が聞き逃せず、ナミは少しばかり身を乗り出した。
「やだ、具合でも悪いの?」
「全然。この通りぴんぴんしてる」
「なーによびっくりするじゃない」
「いや、ちょっとこないだルフィに本気で怒られてな。ストレートとかショットとか、強いのばっかやめろって。この機会にちょっと控えようかなーと。まあ、いい歳だし、……守るもんもあるし?」
「―――――要するに衰えを感じて来たって事でいいわけ?」
 最後のあたりでルフィのほうをちらりと横目で見ながらの、当て付けが見え透いた台詞には一言も触れず、ナミは頬杖をついて言葉を返した。自分が辟易とした顔をしていることはわかっている。鏡を見ればきっと目が据わっているだろうことも。
 してやったりとばかりにニヤニヤ笑っている底意地の悪い店主に、飲み逃げでもしてやろうかと本気で考える。
「そーいや悪い、さっき話聞こえちまったんだけど。今日仕事納めだったんだって?」
「そーなの。ルフィからご褒美もらっちゃった。ごちそーさま。」
「そりゃよかった。お疲れさん。酒がうまいだろ」
「おかげさまで。こんないいやつ滅多にのめないし、ルフィに奢ってもらったお酒だしー?」
「……ほんといい性格してんなナミちゃん」
「エースさんほどではありませんー」
 次々と言葉を交わしながらも、彼が客とバーテンという一つの垣根に片肘をかけて接してくれているのがナミにはわかる。あくまでルフィと、そしてカウンターを挟んでではあるが、だからこその気楽な距離。そういうものが、彼との間にはある。彼相手だからこそ共有できることも、またあるのだ。
 そう、例えば、ある共通の相手に寄せる想いとか。
「仕事納めってことは、そろそろ実家に帰るのか?」
「んー、そのつもりなんだけど、いつ帰ろうか迷ってて」
「何か用事でもあんのか?」
「強いて言うなら『まだ』ないけど、ってとこかしら」
「……? 何それ、どういう」
 グラスを拭いていたエースが訝しげにこちらを振り向いた、ちょうどその瞬間だった。カランカラン、と控えめに乾いたベルが、ナミ以外の客がいとまを告げたことを報せた。
 ちょうどいい。含んだ笑みと共に、ナミはもう一口琥珀色の酒を流し込み、客を見送ってドアに立つ背中に向かって口を開いた。
「―――ねえルフィー?」
「んー?」
「明日…っていうかもう今日ね、この時間じゃ。予定は?私と年越しデートしない?」
「ちくしょーこれか!」
 半ば悲鳴にも似た悪態を吐いたエースが、カウンターに肘をついた両手で顔を覆ったのを見て、ナミは心底から溜飲を下げた。せいせいするとはこのことだ。酒がうまい。
「明日?」
「お店休みなんでしょー?一緒においしいごはん食べに行きましょ!こないだ取材でいい焼肉屋さん見つけちゃったから連れてってあげる」
 未だ顔を覆ったままのエースにも一言一句聞こえるように、わざと少しだけ高らかに声のトーンを上げて言ってみる。先程当て付けられた仕返しのつもりだった。これくらいの嫌がらせは許されてしかるべきだろう。
ドアにかけられたプレートを「close」に反転させたルフィが、振り返りざまころころと笑いながら戻ってきた。
「おめーも懲りねえなー。残念だけど明日はだめだ。でも焼き肉は今度3人で行こうぜ」
「いやだ」
「なに拗ねてんだよエース」
 寸分たがわず予想通りの答えだったのでさして残念でもないのだが、パフォーマンスに唇を尖らせてみせてナミは言葉を続けた。
「ざんねーん。予定でもあるの?」
「んー、あるっちゃあるかな?店の片づけと掃除して、家の片づけと掃除してー、……あとな、」
 カウンターには入らないまま、無造作に近づいたルフィがナミの隣のスツールに腰掛けた。あまりにもさりげないその振舞いに、ナミの心臓がひとつ高らかに鳴ったのも構わず、ルフィは内緒話をするように片手を口元にあててナミに向かってささやいた。
「―――エースがな、誕生日なんだ。1月1日」
「……え!?そうなの!?ちょっとあたし2年この店通ってて初めて聞いたんだけど!」
「だってお前去年の今頃地球の裏側にいたじゃん。だから、明日とあさってはエースと二人で過ごすんだ。悪いな。」
しし、とはにかんで笑った顔は女の目から見てもかわいいと評するに値する。幸せ者極まりないもう一人のバーテンダーを見てみれば、カウンターに突っ伏したまま握りしめた拳を掲げている。全くもって忌々しい。ナミは苦々しい思いをウイスキーの華やかな芳香で流し込んだ。
「……ま、そういうことなら仕方ないわね。大人しく実家に帰るか」
「だな。姉ちゃんも待ってるんだろ?」
「んー、待ってるかどうかはわかんないけど、確かにそろそろうちのこと手伝わないとやばいかも」
そう言いながら、ナミはつい数日前電話で聞いた姉の声を思い出していた。
(あんたねえ、商売繁盛は大変結構だけどたまには生きてるか生きてないかくらいは連絡しなさいよ!正月は帰ってくるんでしょうね!ゲンさんも心配してたわよ今度ちゃんと顔見せに行きなさいよ!)
時が経つにつれますます亡くなった母に似てきたその物言いに、懐かしいような面倒臭いような複雑な気持ちになったのを覚えている。
帰ったら帰ったでまたうるさいだろうな。何はともあれ、久しぶりに懐かしい顔が見られるのはやはり嬉しいものだ。
姉や故郷の皆の顔を脳裏に思い浮かべて、ナミは少し苦く笑った。
「ししし。ナミが頭上がらない奴がいるなんてなー」
「全くだ。会ってみてえなその姉さん」
「うるさいわねー。今度連れてこようか?大変な事になるわよ多分」
「はは。楽しみにしてるわ」
「ししし!」
ナミの空いたグラスをさりげなく見て、カウンターの向こうのエースが次は?と軽く尋ねた。
「んー、じゃあもう一杯同じの頂ける?今度はオススメのミストで」
「かしこまりました」
小さく笑みながら恭しく答えたエースが、後ろの棚から再び件の酒の瓶を取った。細かく美しい刻み模様の入ったグラスを手に取り、これもまた細かくクラッシュされた氷を惜しげもなくザクザクとグラスに入れてゆく。
流れるような手つきでくるりと蓋を開けると、音もなく静かに、かつ正確に注いで行く。
そうしてことりとカウンターに置かれたグラスは、3つ。
「……あら」
「なんつーんだこーゆーの?仕事納め?つーか忘年会か?」
「両方だな。……というわけで、ご一緒してよろしいですか。」
カウンターの向こうと、そして隣のスツールで、兄弟が同じグラスを掲げて笑った。笑うと意外なほどによく似ている。どこか敗北感すら滲ませた穏やかな気持ちに包まれて、ナミは笑った。
もちろん。そう答えたナミの声を合図に、3つのグラスがコツ、と音を立てた。

***

カランカラン、とドアベルが鳴る。
今年最後の客となったナミが乗り込んだタクシーが、路地の向こうに消えていったのを確かめたルフィは、表のドアに内側から鍵をかけながら、これがきっと今年最後の音かな、と思った。
店主であるエースとルフィは裏口を使うためここからは出入りしないし、明日の掃除の時に開けるとしても、それはまたちょっと違うのだ。
「―――ナミちゃん行ったか」
「おう。……ししし、あいつ実は何気に久しぶりだったのに全然変わんねーの」
「ほんとにな。良かったな、忙しそうだけど楽しそうで」
「なー」
 エースとの歯に衣着せぬやりとりを思い出して小さく笑いながら、ルフィもカウンターへ入った。洗い場に置いてあるグラスはほぼエースの手によって洗われ、水滴を纏いながらホルダーに置かれている。ルフィは無言のままエースの隣に並び立ち、濡れたグラスと清潔なクロスを手に取って水滴を拭い始めた。
 そのままつらつらとなんでもないことを話しながら、ふたりはゆっくりと作業を進める。
 予想以上に評判のよかったスコッチウイスキーを、今後試しにコンスタントに棚に加えてみようか、という話。ナミが年明け一番に向かうという遠い遠い島国がどこにあるかわからない、という話。会ったことすらない、強烈なキャラクターの彼女の姉の話。負けず劣らず強烈な祖父が寄越した、異国のクリスマスカードの話。
 ほとんどしゃべっているのはルフィだったが、エースは低く笑いながら相槌を返す。
 そうして話題がふと途切れて、やわらかな心地よい沈黙が二人の間に落ちると、店に響くのは水音とガラスの擦れる高く澄んだ音のみになる。それも、エースがグラスを洗い終え水道を止めると同時に途切れ、店には静寂に近い静けさが訪れる。
 タオルで濡れた手を拭き終わったエースがゆっくりと近づき、後ろから黒い制服に包まれた身体に両腕を回して抱き締めても、ルフィの手元のガラスが大きな音を立てるようなことはなかった。
「……一緒にいてくれんの。今日と、あした。」
「んー?いらねえ?」
「バカ。……ありがとうな」
「しし。うん。」
 そのままぎゅう、と強くなった腕の力と、髪に鼻先を押し付ける大型犬が甘えるようなエースの仕草に、くすぐったく笑いが零れる。兄の顔がやわらかく緩んでいるであろうことも、ルフィにはなんとなくわかる。
「エース、どっかいきたいとこあるか?食いてえもんとか」
「ねェ。家にいよう。ずっと」
「えー?」
「どうせ店と家の掃除で一日終わるだろ。」
「まあなあー。でもメシ作りたくねェだろ自分の誕生日なのに」
「明日はいーよ。まだ誕生日じゃねえもん。夜は鍋にしよう。」
「お、いーなそれ。おれすき焼きがいいな」
「気が合うねルフィ君」
「ソバはエビ天のっけてな!」
「だな」
 お互いの体温を、声の振動を肌で感じながらする何でもない会話。ほんの少しの強張りも見せず、自分の手を受け入れてくれる一幅狭い肩。年を追うごとに、危なっかしさが少しずつではあるが確かに減ってゆくしなやかな手つき。それがどんなに稀有で幸福なことか知っている自分もまた、いかに幸福であろうかとエースは思う。
 最後のひとつのグラスをホルダーに掛け終えたルフィが、首だけでこちらを振り向いたのを合図に、エースはゆっくりと顔を近づけた。
 やわらかい薄い皮膚で触れ合うだけの静かなキスは、ふとした瞬間に感じる愛おしさを、大切な片割れに伝える大切な手段だ。
「……しし、なんかもう酔っ払ってるかも、おれ。」
「なんだかんだもう一時間以上飲んでたもんな、ナミちゃんと」
「なー」
 いつもより素直にくたりと体重を自分に預けて、猫のように首筋や肩に髪を擦り付ける腕の中の弟。ほろ酔いでご機嫌なその唇に音を立てて吸い付きながら、エースはやわらかな頬を撫でていた手のひらをゆっくりと下ろし、さりげなさを装いながら弟の黒いシャツの襟元に手をかけた。
 今日はいけるかもしれない。そんな期待を込めて。だが、
「……だめだぞエース。」
「………ここではしねえよ。ちょっと触るだけ、」
「今日はしねえ」
「………おい。一体何日空いてると思ってんだ……。」
 といいつつ、実は一体何日弟の肌にまともに触れていないのか、もはやエースですら思い出せない。
 ここ数日、クリスマスデートやら忘年会帰りやらの客が次から次へと入れ代わり立ち代わり訪れて、毎日帰っては倒れるように寝てまた次の日を迎えて、という日々が続いていた。クリスマスはかろうじて身体を繋げて寝た気がするが、それも半分寝ている弟をだましだまし、という感じだったので気分も何もあったものではなかった。
 時間をかけてゆっくり彼のなめらかな肌を味わいたかったし、自分の愛撫に身悶えするルフィの、甘い吐息が混じる押し殺した声が聴きたかったし、彼の中でしか味わえないあの震えるような快感が欲しかった。
 要するに、そろそろ限界なのだ。
「おい、おれなんかしたか!?それとも身体の具合でも悪いのかお前!?」
 真正面の向きに弟の身体をひっくり返し、両手で肩をわしづかみにして詰め寄ってエースは吠えた。ところが当のルフィはといえば、エース必死すぎだろ、とか何とか言いながらあっけらかんと笑っている。
「ぜーんぜん?おれが具合悪いのにエースが気付かねえわけねえだろ」
「そうだけどじゃあなんで!おれが悪いのか!?」
「違うって。もー、ちょっと落ち着けよエース」
 言いながら、ルフィはぱしん、と両手でエースの頬を軽く挟んだ。子供にするようにあたたかな手のひらで頬をほぐすと、誤魔化されていると思ったらしい兄は途端にぶすくれた顔でこちらを睨む。
 歳と共に落ち着いてきた兄が見せる、珍しく子供じみた表情にまたくすぐったく笑いながら、ルフィは口を開いた。
「……えっちはいつでもできるじゃん、一緒に住んでんだから。でも、明日はエースの誕生日だから、だから、明日は大事にえっちしたかったんだ」
「……。」
「なんかこう、当たり前に、こうすんのがフツーみたいにすんじゃなくて、特別な日なんだってちゃんとわかるように」
「おれは当たり前だと思ってお前を抱いた事なんか一度もない」
「わかってる。わかってるよ、ちゃんと。そうじゃなくてさ、ん〜〜」
 兄がどれだけ葛藤して自分に想いをさらけだしてくれたか知っている。ルフィだって、あの日の身の焼けるような歓喜を忘れたことなど一度もない。今こうして彼の一番近くにいられることが、当たり前だと思ったことなど一度もない。だけど。だからこそ。
 頬を包んでいた手を強かな首にするりと回し、ルフィは自ら兄との距離を縮めた。ふたりのほかには誰もいない店の中、鼻先が触れ合うような距離で、彼にだけ聞こえるように囁いた。
「…―――久しぶりの方がキモチイイって、聞いた事ねェ?」
 妙にゆっくりとした弟のまばたきに、ぐらりと脳が揺れたような感覚を覚えたのはエースだった。
「エースとえっちすんの、おれほんとに好きだけど、でもやっぱ当たり前じゃなくてすげー嬉しくてさ、だから、そういうのエースにちゃんとありがとうって言いたいし、エースが生まれた日、ちゃんとお祝いしたいしさ」
「……だから、明日はエースのこといっぱいキモチよくしてやりてえ。いっぱいキモチイイえっちしたいんだ。エースと、ふたりで。」
 だめか、と下から見上げる弟の問いに、エースが一体何を言えるというのだ。
 ぐらぐらと熱く溶けだしそうな、頭やら胸の中のものが表に出てきてしまわないように弟の身体を力いっぱい抱きしめて蓋をしながら、エースは呻いた。
「――――拷問かよ……。」
 けらけらと笑うほろ酔いの弟の身体からは、死にそうなほどにうまそうな、ひどく熟れた酒のような匂いがした。