(藍・3)


 それから四半刻もしないうちに、エースとルフィは白ひげに駆け込んだ。
 念のため、顔を見られないよう大川の河原を辿った。この町の人々が伊勢屋や外海屋に知らせることを恐れてではない。この町の人々に火の粉が飛び散らないようにするためだ。
 エースがルフィの手を引いて白ひげの裏口から駆け込んだのは、彼がいないことに朝になって気が付いた職人たちが騒ぎ始めた、丁度その頃だった。
 深い事情を説明する間もなく、ふたりは白ひげによって長屋の二階の一番奥、白ひげ自身の居室まで押し込まれた。正しくは、白ひげの指示を受けたマルコによって。
 あまりに手際が良すぎて、エース当人すら戸惑うような素早さだった。まるで、こうなることを知ってでもいたかのような。
「…―――解せねえって顔だな、エース」
 どっかりと上座に腰掛けて煙管を燻らしながら、白ひげはグラララ、と低く笑って見せた。
「……オヤジ。解せねえも何も、おれまだ、」
「説明なんざ要らねえ。わかってなかったのはお前だけだ。お前にとって何が一番大事かなんて、言われなくても始めっから決まりきってた事だろう。……おめェが見失っちまってただけでな、エース。」
 わかっていなかった。見失ってしまっていた。白ひげは、全て過去の話として言った。それは言下に、今のエースはそうではないと言っているのと同じことだった。今のエースには見えている。繋いだままたったひと時でも離さないふたりの手が、その証だ。
「…―――オヤジの言うとおり、だな。最後まで、やっぱりオヤジにゃ敵わねえ」
 ルフィの手を、離れ家を出てから初めて離すと、エースは白ひげの前にゆっくりと膝をついた。
 傍らに控えるマルコ。後ろでじっと様子をうかがうサッチやジョズをはじめとする兄弟子たち。彼ら皆に伝えなければならないことがある。
 両手をつき、頭を垂れ、そのままの姿勢で、静かに口を開く。
「数え7つから16年、職人として、息子として育てて頂き、感謝の言葉もありやせん。頂いた恩も返せねえ身で、勝手を言うことをお許しくだせえ。」
 そこまでを噛み締めるように言った時、覚悟を腹に決めたその瞼の裏に、突然瞬く記憶があった。
 おれの息子になれ。そう言って差し出された大きな手のひら。
 度重なる不運に心を凍らせた小さな子供は、あたたかなその手を取ることはできなかった。頑なに意地を張って差し出した手を拒む世間知らずの糞餓鬼。さぞかし可愛げのなかったことだろう。
 まだ力も覚悟もないひ弱な細い腕を掴み、何も知らない小さな手に小刀を握らせ、職人として叩き上げた。自分の持つ技を、経験を、生きていくための力を授けてくれた。
 眼の奥が熱く滲む。急激に狭まったように詰まる喉を堪えても、言わなければならないことがある。
「………今日まで、お世話になりやした。この御恩は、一生忘れやせん。今日限り、エースはおいとまを、」
「――――エース。おれもおめェに話があるんだよ」
 はっと息を呑んで思わず顔を上げた。
 そこまで黙って聞いていた白ひげが、不自然なほど唐突にエースの言葉を遮ったからだった。
 悠々と肘掛けに体重を預けたまま、傍らのマルコに顎で合図する。
 心得たとばかりに静かに頷いたマルコが、背後に置いていた桐の箱を手に取り、音も立てずに立ち上がる。膝をつき箱をエースの前に据えると、何事かと見上げるエースやルフィには意味深げに微笑んでおいて、そのまま何も言わず元いた場所へ引き下がる。
「開けて見ろ、エース。」
「……?」
 薄く笑みを湛えたまま、白ひげが言った。
 思わず隣のルフィを顔を見合わせるが、当然ルフィに何がわかるわけでもない。首を傾げては見るものの、好奇心旺盛な弟の目は興味に輝いて早く開けろと無邪気に語る。
 いぶかしげな顔をしたまま、エースはゆっくりと桐の箱に手を伸ばした。
 腕一本分の長さはあるが、幅は約4寸、手のひら大ほどの長さ。細長いその箱の蓋を両手で慎重に持ち上げる。ふわりと木の香りがした、と思ったその次の一瞬。
 中身を見たエースの息が、止まった。

 ケヤキの美しく堅い地板。緩やかに波打つ木目。その上に黒く艶やかに染め抜かれた漆塗りの文字は、「傘職 エース」。
 真新しい、軒掛けの看板だった。

「……オヤ、ジ……?」
「――――――のれん分けだ、エース。ここを出て、自分の店を出せ。」

 その瞬間、エースの心の臓は確かに一瞬動きを止めた。隣でルフィが息を呑んだのがわかった。
 だが、それ以外はざわめきもどよめきも一切ない。白ひげの傍らで静かに笑って頷いて見せるマルコも、後ろでふたりの反応を面白がって笑っている兄弟子たちも、少しも驚いたような気配を見せない。
 言葉を失って、エースはもう一度それに眼を落とした。付け焼刃の仕事では有り得ない、見事な塗の美しい看板だった。
 水の中にいるように周りの音が遠い。震える手で、黒塗りの文字を撫でた。
「ずっと考えてはいた事だ。いつ切り出そうかと考えあぐねていたら、良い風が向こうの方からきやがった。おれにはこの通り、決まった跡取りもいねえ。この店はいずれマルコに継がせるつもりではいたが、歳でいやお前より先のジョズやサッチは今更ここを出てイチからやるつもりはねェと来た。」
 なかば呆れたような口調でいう白ひげに、背中でどっと笑いが起きた。
 呆然と振り向いて見れば、兄弟子たちが朗らかな顔で声を立てて笑っている。おれたちを追い出すのかよオヤジ、勘弁してくれ今更行くところなんかねえよ。そう冗談を言って笑い合うその眼は、ひどく穏やかで優しい。
「歳は若ェが、おめェもここにいる長さじゃこいつらの中でも充分古株だ。新しい土地でやっていく根性も気概もある。腕もおれが小刀の持ち方から叩き上げたんだ。充分一人でもやっていけるだろう。……問題は染めの腕がどうにも今一不安だってェことなんだが、」
 ここで白ひげは、エースの隣で固まっているルフィを見つめた。
 その真っ直ぐで美しい黒の輝きを、確かめる。
「――――これからは、良い眼を持った染師が側にいるんだ。それもどうにかなるだろう。」
 ルフィの肩がふるりと震えた。
「エース、今までご苦労だったよい。これは今日までの給金と、おれ達からの餞別だ。旅賃と、しばらくの間暮らしの足しくれえにはなるだろうよい」
 そう言ってマルコが膝元に置いた袋は、手に取らずともそのずしりとした重みが伝わるような大きさだった。
「―――!? なんだこりゃ、こんなに貰えるわけ、」
「何言ってんだ。7つから今までお前が働いてきた分だろうが。」
「んなわけあるか!メシだって食わせてもらって、着るもんにも寝る場所にも困らねえ暮らしさせてもらって、……大体金になるような仕事だってここ数年しか、」
「……本来なら、のれん分けつったら新しい店の土地やら普請やらまで手かけてやるもんだが、おれも面倒でな。看板と金だけ渡してぽんと放り出しちまうが、許せよエース。」
 飽くまでエースからそれを受け取るつもりはないらしい白ひげが、そう取ってつけたような言い訳を言って笑うのを、エースは呆然と言葉を失って見た。
 一番弟子の兄弟子は、「おれ達」からの選別だ、と言った。
 それが意味する所を、エースが、そしてルフィが気付かぬわけがない。後ろに控える職人たちのあたたかい眼差しが、その答えだった。
「………江戸を出て、知らねえ土地でおめェの好きなようにやってみろ。エース。苦労もするだろう。余所もんが簡単に受け容れられねえ事もあるだろう。それでも、一から店をやってく力がおめェにはある。色んな土地の色んな物をその眼で見て、まだ知らねえ技を身に着けて、もっとでけェ職人になれ。あァ、『白ひげ』の名前を広めとくことも忘れんじゃねェぞ」
「――――そうしていつか、一人前になった顔を見せろ。おれを超えるような職人になって見せろ。」
 いいな。
 穏やかな声で言い聞かせるように語る白ひげの声を聞きながら、エースの脳裏に呼び起されるものがあった。
 師匠としてではなく、父親としてエースに接してくれた白ひげの姿。
 内風呂もない長屋の暮らし。兄弟子たちと一緒に銭湯へでかけて、奪い合うように洗い流した広い背中。
 慣れない飯炊きに失敗して焦がした飯を、これはこれでうめえじゃねえか、と釜から直接つまみ上げて食っていた、その時の笑い声。
 くだらない言い争いの延長で、生い立ちの事情を口さがなく持ち出したゴロツキと思う存分やり合った日。おめえはおれの息子だ。くだらねえ喧嘩に付き合うんじゃねえと殴り飛ばされたあの痛み。
 流行病に熱を出してうなされた夜。傍らで水音がした気がして目が覚めた。霞む目を凝らすと、行燈のやわらかい明かりの中で、大きな身体を屈めて白ひげが白い晒をたらいの水に浸していた。冷たい水で絞った晒をエースの額にひたりと当てて、髪を撫でた大きな手。
 もうすぐ治る。でえじょうぶだ、心配すんな。そう言って穏やかに笑った深い色の目。言いようもない安心感に包まれて眠ったその夜を、あまりに愛しい思い出の数々を、どうして今の今まで忘れていられたのだろう。
 師匠と弟子というには、あまりに温かいものが二人の間には流れていた。弟子としてだけでなく、息子として、その懐に包んでくれた。守ってくれた。愛して、くれた。
 今度こそ耐えきれなかった涙が、頬を伝った。
「……―――忘れるな、エース。どこにいたって何をしていたって、おめえはおれの息子だ。」
 しっかりやれよ。
 穏やかな笑みを浮かべているだろう父の顔は、涙で見えなかった。せめてもの代わりに、言葉も出ず畳に擦る様にして頭を下げた。歯を食いしばって嗚咽を耐えるエースの頭にやわらかく置かれた手のひらは、あの日と変わらず、温かかった。

***

「……はは。なんでお前がそんなに泣いてんだよ。もう泣くな」
「だっで……!ぇ、エース、よがっだなあ……!!」
「はは。……ああ、そうだな。お前のおかげだ。」
 ありがとう、ルフィ。
 自分への礼の言葉に、弟はわけがわからず涙も鼻水も垂れたままぱちりと瞬きをした。
 それにまた喉の奥で笑いながら、わからないならそれでいいとエースは思った。濡れた頬を手のひらで拭ってやって、眼尻に残る雫を指先で拾う。
 この弟がいるからこその今だと思った。ルフィの為ならどこまでも強くなれる。そう思える今の自分だからこそ、白ひげはこの背中を押し出してくれたのだと、そう思う。
「…―――おうルフィ!おめえの友達が会いに、……あ?何だよまーだ泣いてんのかおめえ!」
 だんだんだん、と豪快な足音を立てて二階に上がってきたサッチは、ルフィの顔を見るなり声を立てて笑った。
「うるせーぞサッチ。ルフィの泣き顔見ていいのはおれだけなんだよ。用が済んだら早く行け」
「ほー!言うじゃねーのつい昨日までグダグダ悩んでた甲斐性無しが!さっきまでしおらしい顔して泣いてたのはどこのどいつだァ?」
 照れ隠しに殴りかかる兄と、愉快げにそれをあしらうサッチとを見て笑っていると、サッチが今さっき上がってきた傾斜のきつい階段から、よく見知った友人たちが顔を覗かせた。
「―――! ルフィ!」
「ウソップ!サンジ、チョッパー!おめえら来てくれたのか!」
「来るに決まってんだろが!おれァもうおったまげて、」
「ウソップとチョッパーはともかく、サンジおめー店大丈夫なのか?」
「人の心配してる場合か!なんだってこんないきなり、大体おめェはいっつもやることが突然過ぎるんだよ!」
「ルフィ、ルフィほんとに行っちまうのか!?傷はもう大丈夫なのか?アテはあるのか??」
 掴みかかる勢いで詰め寄る友人たちを、ルフィはうろたえるでもなくけらけらと笑って受けとめた。ひとしきり言いたいことを言わせながら、いつもの顔ぶれが足りないことに気が付く。
「あれ?ゾロとナミは?お前らナミから聞いてきたんじゃねェのか?」
「インチキ庭師はもう来てもいい頃だが、ナミさんは何か寄るところがあるとか言って、」
「来たわよ!……はあ、間に合った……!」
 たんたんたん、と軽やかな足音に小花の散った小袖の裾をひるがえし、ナミが姿を見せた。
 ナミさん今日も素敵で可憐だ、と猫なで声のサンジを片手間に軽くあしらって、ナミは仲間たちの輪に加わった。
「おっせーぞナミおめー、何してたんだよ」
「ごめん。ちょっと野暮用で。それよりルフィ、若旦那さまから粗方は聞いたけど、本気なのね?」
 息も整わないまま、ナミが詰め寄る様にして問うた。
 その華やかな大きな眼から始まり、よく見知った仲間たちの顔を一人ひとり見つめた。そうして、すらと背筋を伸ばし、ルフィは仲間たちにまっすぐ向き直った。
「ごめんな、お前ら。おれ、江戸を出るよ。……江戸を出て、エースと二人で暮らす。」
 その見たこともない様な静かな笑顔に、友人たちは言葉を失った。
 肯定を乞うでも、縋るわけでもなく、ごくごく自然にルフィはするりと後ろを振り向いた。そこにエースがいて、見守る様にルフィのことを見ていることを確かめる。背中を押すように兄がかすかに頷いてくれたのを見ると、嬉しそうにはにかんで頷き返し、友人たちに向き直った。
「……散々心配かけたあげくに、勝手言ってごめん。多分、これから店のことも、いろいろ騒ぎになって、お前らにも迷惑かけねえとは言えねえけど。……でも、おれやっぱりこの縁談は受けられない。エースのいないとこじゃ、生きていけない。」
 言っている内容とは裏腹に、ルフィの顔に少しも陰りはない。雲一つない澄んだ青空のようなその笑顔に、仲間たちは一様に胸を撫で下ろした。
「……わかった。ルフィが一番したいようにすればいいわ。まあ、私たちの言うことあんたが聞いた試しなんかないけど!」
 努めて明るい声音で、別れの切なさを吹き飛ばすようにナミが言った。その笑顔に、隠しきれない寂しさが浮かんでいることを、誰が咎めよう。
「まーったくだ!いつもしたいようにするくせに、こんなキナ臭ぇ縁談受けるなんて初めからおかしいと思ったんだ。行け行け行っちまえ!」
「お前ひとりってんならともかく、エースも一緒なら飢え死にすることはねえな。ま、達者で暮らせよ。」
 突き放すように言ったウソップの眼が隠しようもなく潤んでいることも、憎まれ口を叩くサンジの声がどこまでも優しくやわらかなのも、ルフィはちゃんと知っている。
「……急だったから、あんまりたくさん持ってこられなくてごめんな。これ、ルフィとエースの火傷の軟膏。作り方も書いておいたから、……っぅ、ちゃんといい医者見つけて、作ってもらえよ…!」
 手のひらほどの紙の包みを受け取って、片方の手でその優しげな巨体の肩を撫でる。ありがとうな、チョッパー。お前のおかげだ。そう言うと、広い肩の震えは一層大きくなった。
 弟とその友人たちの遣り取りを、エースは壁に背を預けて腕を組み、黙って見守っていた。やわらかな笑みを浮かべた穏やかなその表情は、自分の知る弟弟子のものとはとても思えず、横で眺めていたサッチにも妙な感慨を呼び起こさせるのだった。
 と、ふと何かに気付いたエースが上の天井を見上げた。その訝しげな表情にどうした、と問いかける。だがしかし、エースが口を開く前に答えは別のところから返ってきた。
 ルフィ、どうしたの、と呼びかけるナミの声に、ルフィは面白げな顔をして笑って言った。
「ゾロが来たぞ。エース、そこの窓開けてくれ」
「はァ!?」
 それにサッチが何かを問いかける間もなく、エースははあ、と呆れたような顔でため息をつき、片手で障子窓を開けた。
 何か影が翻ったかと思うと、音も立てずにするりと屋根から壁を伝い、ゾロが部屋に入ってきた。
「邪魔するぞ」
「ゾロ!?おめーどっから、」
「クソ庭師、てめえ人んちに邪魔するときは玄関からって教わらなかったのか」
「うるっせえな三流菓子屋。事情があんだよ。ナミ、お前尾けられただろ。ここはバレてるぞ」
 珍しく言い合いもほどほどに切り上げてゾロが告げた内容は、その淡々とした響きとは裏腹に一同の言葉を一瞬失わせるには十分だった。
「―――うそ!ちゃんと撒いてきた筈なのに…!」
「二重尾行だ。わからなかったのも無理はねえ。とんだ念の入れられようだなルフィ。……もうじきここにも来るぞ」
 後半はエースに向け、ゾロが言った。
 その視線を追うように、ルフィが兄の顔をみると、エースは微塵も表情を変えず、ただ一言わかった、と言って立ち上がった。
「ごめん、ルフィ、エースさん…!私としたことが、」
「ナミちゃんの所為じゃねえよ、気にすんな。……正直、おれもここまで伊勢屋がムキになってコイツを追ってくるとは思ってなかった。なめてかかってたのはおれだ。」
 ナミに向かって穏やかに言ったあと、表情に翳りがさしてしまった弟の髪を立ち上がり様撫でてやる。安心させるように笑いかけてから、エースは鋭く視線を尖らせ、思案するように遠くを見た。
「ゾロ、まさか伊勢屋が直接乗り込んでくるわけじゃねえだろう。どこの奴らだ」
「大方伊勢屋の博打仲間だろ。そこらのゴロツキかヤクザもんだ」
「どうするよ、エース。やるんなら手ェ貸すぜ」
 煙草をふかしながら、前髪の隙間から掬い上げるようにサンジが見上げる。サンジにゾロ。白ひげに、店の兄弟子たち。町のゴロツキ程度なら、充分勝てるだろう。
 だが。
「……いや。騒ぎにしたくねえ。おれが話をつける。」
「―――おいおい、」
「エース…!」
 下へ降りる階段に向かって踏み出したエースを追いかけるように、ルフィが立ち上がりかけた。
 振り向いた先の弟が、頼りない様な不安げな顔をして自分を見上げるのに苦笑して、エースはもう一度膝をついた。
「……そんな顔すんなルフィ。おれがやられると思ってんのか?」
「―――そうじゃ、ねえけど……!でも、」
 続く言葉を失ってしまった弟が、言葉の代わりにエースの袖を掴む。
 わかっている。エースがそこらのやくざ者程度に負けるわけがないことも。それでも、刃物を持っていたら。大勢で来られたら。エースが、怪我でもしたら。弟が自分の身より何より、エースのことを案じているのを、エースは知っている。
「……大丈夫。手荒な真似はしねえよ。」
「エースがそのつもりでも、向こうはわかんねえじゃんか!」
「ああ、そうだな。話してすんなりわかってくれる相手じゃねえことも百も承知だ。……でもまあ、ここは『白ひげ』だし、おれも昔は下手なあだ名つけられるくれえには馬鹿もやったし。よっぽどの阿呆でなきゃ、面と向かって派手にやり合おうなんて思わねえだろうさ」
 言い聞かせるように、肩をやわらかく掴んでエースは言った。だが、性根がまっすぐで頑固な弟は引き下がらない。
「ならおれも行く」
「ルフィ。それはだめだ」
「何で!だっておれがいることはもうばれてんだろ!」
「だからってお前が出てきちゃそれこそ台無しだろうが。知らねえじゃ通せなくなっちまう」
「もうバレてるなら同じだ!おれも行く!」
「ルフィ、」
 堂々巡りの遣り取りにさらに言葉を続けようとしたエースは、階段を忙しげに登ってくる足音に気が付いて戸を振り向いた。
「エース。お客人だ。……招いてねえ客だがな」
 控えめに開けられた戸から、ごくごく低く潜めて掛けられた声はマルコのものだった。落ち着いてはいるが緊張感も滲ませたその声音に、部屋の空気はぴりりと張り詰めた。
 わかった。今行く。
 そう言って立ち上がろうとしたエースに、ルフィが縋る。
 一緒に行く。そう言おうとして開きかけた口は、だが声を発することはなかった。
「んっ、―――!」
「「「……!!」」」
 軽く張り詰めた空気に、ぴしりとヒビが入った。
 サンジが、煙草を口に運ぼうとしていたその姿勢のまま、チョッパーとウソップが口を開けたまま、マルコが眼を見開いたまま固まる。ゾロが苦虫を噛んだような顔をし、ナミは頭を抱えてため息をつく。ヒュウ、と口笛を吹いたサッチだけが、この場では正気だと言えるだろう。
 両手でルフィの頬を包んだエースが、そのまま己の口でルフィのそれを塞いでいた。
「……―――!」
 小さな水音を立ててルフィの唇を開放すると、エースは大きな目をまん丸くしたままの弟に笑いかけながら、その頬をやさしく撫でた。
「……わかってくれ、ルフィ。お前に万が一怪我でもあったらと思うと、おれァ気が気じゃねえんだ。」
「大丈夫。これからこの腕でお前とふたり食って行かなきゃならねえんだ。傷を付けるような真似はしねえよ。……だからここにいてくれ。いいな。」
 呆然としたまま何も言えないルフィが、食ってかかる勢いを失ったことを確かめると、最後にひとつまるい額に唇を落とし、エースは今度こそ立ち上がった。
 お前ら、こいつ頼むな。そう言いおいて部屋を出、戸を閉めると、鼻歌さえ歌いだしそうな軽い足取りで、たんたんと狭い階段を降りてゆく。
 上機嫌のエースが横をすれ違って行ってようやっと正気に返ったマルコが、後ろから追い掛け思い切りその頭をはたいた。ばしん、というその音と、いってえ、というエースの悲鳴が、しんと静まり返った部屋に響く。
 皆が硬直して何も言えないでいるその部屋で、ルフィが両手で顔を覆い、その場にうずくまった。