(藍・2)
慌てたようにガラリと開いた戸から現れた姿に、サボはホッと胸を撫で下ろした。大方の見当はついていたとはいえ、やはり顔を見るまで安心できなかった。
「―――サボ!お前、」
「しっ!話は中でさせろ。邪魔するぞ。―――ルフィ!」
するりと隙間から身を滑り込ませると、サボは何か言いかけたエースを遮って奥へ上がり込んだ。急いて蹴飛ばすように脱いだ白木の下駄がカラン、と音を立てて転がるのは、彼にしては本当に珍しいことだった。
「―――え、サボ!?何で、」
「ルフィ!ルフィ、よかった、やっぱりエースと一緒だったんだな!」
布団の上で膝立ちになっていた弟を見つけてバタバタと駆け寄ると、その細い肩を掴んで無事を確かめた。掴んだ肩は着物を羽織っただけで、その下は襦袢一枚、
(―――――襦袢?)
何かが緩むように眉尻を下げて笑ったもう一人の兄の顔が、一瞬で凍りついたのをルフィは見た。理由はわからないが、確かに笑顔なのにみるみるうちに温度が下がっていくその様子が恐ろしくて言葉を失う。
慌てて後を追ってきたエースが、それを見た途端片手で目元を覆い、ずるりと柱に力なく凭れ掛かったのも見えた。
「―――――――――――――エース……?」
「頼むサボ。話を聞け」
ぐったりと肩を落としたエースが強張った声で言うと、ギッと視線を強くしたサボが弾かれたように振り返った。
「てめえどの口がそんな悠長な台詞を!!うちの可愛い婿入り前の弟に一体何をした何を!!」
「馬鹿声がでけえ!!何もしてねえよそんな場合じゃ」
「お前の言うことじゃ当てにならねえ!!ルフィ、ルフィ大丈夫か?!エースに何か酷いこと」
「? エース優しかったぞ?」
こてん、と頭を片方に転がして言ったルフィの言葉に、大の男二人が揃って固まった。サボが無表情のまま凍りつき、エースが今度こそ両手で顔を覆って崩れ落ちたその理由を、ルフィが知る由はない。
「あ――――も――――馬鹿馬鹿馬鹿ルフィお前可愛、違う馬鹿サボ落ち着けって」
「表出ろこの野郎拳で話つけようじゃねえか」
「違う!雨に濡れたから脱いで干してただけ、」
「脱いで!?お前この単衣脱いで襦袢一枚のルフィと一晩ひとつ布団で寝たっつーのかやっぱり表出ろ!!」
「あ――――も――――本当面倒くせえなこの馬鹿兄!!」
「はァ!?ふざっっっけんな心底お前にだけは言われたくねェよ!!」
お互いの胸ぐらを掴んで次から次へと言い合う二人の兄を、ルフィはポカン、と口を開けて見ていた。
ルフィの前で見せていた、「若旦那」と「職人」の顔では決してない、昔の、子供の頃そのままの遠慮のない遣り取り。二人の兄本来の、等身大の顔。
「―――ふ、……あはは!」
じわじわと滲み出るような笑顔を零したあと、ルフィはけらけらと声を上げて笑いだした。
そのあまりに楽しげで愛おしい笑い声に、兄二人が思わず言葉を失っても、それは続いた。
「はは、おっかし、何だよエースも、サボも、昔のまんまじゃねえか、……あっはは!」
涙すら滲ませて笑い続ける弟をしばらく何とも言えずに眺めていた兄達は、思わずお互いの顔を見合わせた。
血は繋がっていなくても、弟を挟めばお互いに兄。生まれも育ちも、境遇も異なっても、幼い頃から互いを片割れと思って生きてきた。
遠慮なく殴り合うことも、言いたいことを好きに言うこともできる相手。髪も乱れ、掴み上げた襟も開いた情けない姿で顔を見合わせたあと、兄二人は苦笑いをしてお互いの掴み上げた襟を離した。
「……―――ししし、なんだよ、二人とも。おれのいないとこなら昔のまんまだったんだな」
「……うん、ごめんな、ルフィ。エースが意地っ張りの馬鹿野郎だから」
「………お店の面子ってもんがありやすでしょう、『若旦那』。」
「嫌な奴だよ本当に」
なぁルフィ、やめとけこんな奴、とサボがルフィの丸い頭を撫でながら言うのに、エースは後ろから軽く蹴りを入れてやった。
いてえな、と大して痛くもなさそうに笑ったあと、ひとつ息をついて、サボは弟に向き直った。
「――――うまくいったんだな。決めたんだよな、ルフィ。」
「……うん。」
静かに笑って頷いた後、ルフィはサボの手を取った。言葉と共に、己の覚悟が、想いが体温から伝わるように。
ごめん、サボ。穏やかな兄の眼を見つめて、言った。
「おれ伊勢屋にはいけねえ。……エースと、一緒にいたい。」
その言葉を真正面から受け止めて噛み締めると、兄はゆっくりと頷いた。
それでいい。それ以上はもう何も言わず、ゆっくりと弟を抱きしめた。
「―――サボ。本当にすまねえ。お前にもこれから苦労を、」
音も立てず傍らに膝をついた片割れの言葉に顔を上げたサボは、ゆっくりと首を横に振る動作だけでその続きを押しとどめた。
「言うな。こんなの苦労でもなんでもねえよ。……それより、これからどうするつもりだ、エース。」
不敵に笑って堂々と言ってのけたサボの肩から、ルフィが顔を上げた。そのルフィを目を合わせてから、口を開く。
「……小難しいことは苦手だ。真正面から伊勢屋に頭下げて、この縁談をなかったことにしてもらう。当然すんなりとはいかねえと思うし、下手したら江戸で職人やっていくのも難しくなるかもしれねえ。お前に繋ぎを頼む以上迷惑かけねえとは到底言えねえし、ヘタしたら外海屋にも、……サボ?」
俯いて口元を押さえ、黙って話を聞いていたサボが、小さく震えているのに気が付いてエースは言葉を途中で切った。話の内容が内容だけに、馬鹿なことを言うなと言われても仕方ない。震える程に腹を立てられたとしても無理もないだろう。
そう思っていた。
―――――思っていたのに、くっくっと低く堪えるような、しんと静まり返った天井に跳ね返るそれは、どう聞いても笑い声だった。
一度吹き出したそれは、タガが外れたようにだんだんと大きくなり、ついには腹を抱えて笑い出す始末。
一発拳を喰らっても甘んじようと思っていたエースとしては、呆と口を開けるしかない。
「…………おい、おいこの野郎。サボ。おれァいま一世一代の大真面目な話をしてんだよ」
「あっははは!ご、ごめ、わかってるわかってる、ふ、くく、あ、あんまりお前が思った通りのこと言うもんだから、おっかしくて、あっはっは!」
ぽかんと口を開けて見上げる弟の顔。呆れたように、また己の覚悟に水を差された不満で眉間にしわを寄せる片割れの不機嫌な顔。
小細工ができねえのは昔からちっとも変わらねえのな、お前ら。
笑いで苦しい息の下、滲む涙を拭ってふたりの顔を見つめたあとサボがようやっと呼吸を整えて言った言葉は、その穏やかな笑顔そのもののような、慈愛と優しさに満ちていた。
「―――――お前ら逃げろ。江戸を出るんだ。エース、ルフィ。」
まるで今日の朝餉の献立を告げるような、どこまでも淡々と穏やかに告げられたその内容は、だがしかし到底穏やかとは言い難いものだった。
「―――――――、サボ、お前、何言って」
「……考えたこともなかったって顔だな。そうだろうと思った。本当にお前ら、逃げるってことを知らねえんだから」
子供のころからそうだった。いつだってそうだった。
逃げるということを、逃げ方を知らない、どこまでも真っ直ぐで前しか見ていない二人の兄弟。真正面から大きな壁にぶち当たっては、時に泣かされ、時に大けがをしてはサボの肝を何度も冷やした、危なっかしい二人。
その二人の襟を引っ掴んで引き戻し、繋ぎとめるのはサボの役目だった。
泣くルフィの頬を撫で、強くなって時を待てと諭すのも、怒り猛るエースに時には拳で立ち向かいその頭を冷やさせるのも、全てサボの役割だった。
いつでも。そして、今だって。
「……江戸を出ろ。どこか遠い離れた土地に根を張って、二人で暮らせ。お前の腕があれば、どこでも飯は食っていけるだろ。」
「――――馬鹿!何言ってやがる、んなことできるわけねェだろ!!それじゃ外海屋が、」
エースに真正面から向き直ったサボは、言葉を遮る様にその肩を手のひらで押しとどめた。
「エース。お前伊勢屋に会ったことあるか」
「……商いの席で、二度だけ。オヤジの寄合の供をしただけだから、ほんの少し見た程度で話はしたことはねェ。それが何だ。」
それじゃ知らねえのも無理ねえな、と口の中で呟くと、サボは二人の顔を見ながら言い聞かせるように強い声音で語り出した。
「伊勢屋は怖ェ男だ。元々はごくごく小さな薬問屋の奉公人が、仕入れ先でふらりと行っただけの紀伊の木材に目をつけて一代で店を起こしたんだ。自前の船を持って、深川に自前の木場まで作って、商売敵を食い荒らしながらあそこまでの店に叩き上げた男だ。そうして稼いだ金を元金に、裏でお侍相手の金貸し稼業まで始めやがった。」
「―――今のおかみさんだって、夫婦の約束をした相手があったのを実家の小間物屋を脅すみたいにして貰ったそうだ。……欲しいものは必ず手に入れる。そういう男だ。」
ルフィ。お前だってこの話を聞いたことがねえわけじゃねェだろう。
静かに語りかけられたルフィは、弾かれたように顔を上げた。一瞬言葉を失って怯んだが、それでも兄に詰め寄った。
「……でも、やっぱりそんなんだめだ!そんなことしたらサボだってただじゃ、」
「棄捐令の話はゾロから聞いたか?お上がいよいよ札差連中を締め上げにかかるんだ。伊勢屋だって材木屋って言う立派な表向きがあるんだから、まあ潰れはしないだろうけど、相当の痛手を負うはずだ。そのうちたかが一軒の呉服屋ごときに構ってはいられなくなるだろうさ。」
まあ、うちだって銭の巡りが悪くなれば腹の痛ェことに変わりはねェんだけど、と何でもないことのように兄が呟いた一言は、見過ごすには余りに惨い。
「嫌だ!サボを残して逃げるなんて絶対に嫌だからな!」
「こればっかりはルフィの言うとおりだ。馬鹿なこと言うんじゃねえサボ」
「エース、頭冷やして考えろ。今のお前に、……いや、違うな。今のおれ達に、伊勢屋と真正面からやり合って勝てる力があると思うか?やってみなきゃわからねえ、なんてガキみてえな台詞は聞きたかねェぞ。」
「―――!」
言おうとしていた台詞をぴしゃりと封じられて、エースはぐ、と言葉を飲みこんだ。
「……今は逃げて時を待つんだ。今やり合えば、お前達ふたりだけの問題じゃ済まなくなる。きっとお前の周りの人間も、お前らのために力を貸してくれるだろうな。もしかしたら、伊勢屋みたいな大きな力にも対抗できるかもしれない。……そうして、大きくなった波同士がぶつかって、でかい津波が色んな人間を飲みこんじまう。広い、遠いとこまで。―――意味はわかるよな、ルフィ。」
「……。」
ルフィが下唇を噛んだのをサボは見た。エースがまだ何か物言いたげな眼をして次の言葉を探しているのを悟った。
きっと二人の脳裏には、大切な人々の顔が次々に浮かんでいるだろう。
卑怯な言い方をした。その自覚はある。だがそうでもしなければ、この二人は止められない。
「……お前ら二人が逃げてくれた方が、外海屋も、白ひげも、知らぬ存ぜぬで通せるんだ。多少手荒な真似に出られたとしても、こっちだって出るとこに出りゃあ済む話だ。知らねえもんは知らねえんだからな」
に、と不敵に笑って見せた顔は、3人で悪だくみをしていたあの頃と同じ。
「落ち着くとこに落ち着いて、生活が回る様になったらお前らの方からどうにかして連絡をくれ。どんなに遠くてもいいさ。きっと会いに行く。」
「………白ひげはともかく、外海屋はどうするんだ。きっとタダじゃ済まねえ。周りの得意客からしらみつぶしに潰されて、商いもうまくいかなくなるぞ。」
駄目押しとばかりにようやっと絞り出したエースの言葉に、サボはにこりと笑って見せた。諦めた者の投げ遣りな笑みではない。腹に一物含んだ、策士の笑み。
そうしてさらりとサボが告げた一言は、ふたりが更に言葉を失うに十分だった。
「あのな、エース、ルフィ。おれあの店たたもうと思ってるんだよ。」
「――――は、」
「え、――――!?」
二人が揃って上げるはずだった驚愕の声は、素早く口を塞いだ手のひらに抑えられた。
「しー。声が大きい」
「……な、にを言って、これが黙っていられっか!!」
「店って外海屋のことか!?サボ、店そんなに苦しいのか!?」
「あーはいはい、ちょっとお前ら落ち着け。座って話を聞きなさい」
掴みかからんばかりに詰め寄った二人をやっとのことで押しとどめて、サボは再び腰を据え直した。かと思うと、懐に片手を入れて何かを取り出した。
「ずーっと考えてたんだけどな。今回のことで、おれも腹を決めた。」
手に取った半紙を丁寧に広げて畳に置くと、指で少し滑らせて二人の前に差し出した。
半紙にすらりとした達筆で書かれていたのは、
「…―――青い海と書いて、『青海屋』。『あおみや』だ。……いい屋号だろ。」
もう声もなく、ふたりはサボの顔を見つめた。
晴れ晴れと冴えわたる青い空のような。洋々とどこまでも続く快晴の海のような、晴れやかな笑顔を。
「外海屋は、おれの代で終いだ。客付き合いも仕入れ元も、得意先の帳面も全て真っ白にさせてもらう。あの店に絡みついた色んな因果も、しがらみも、全部おれが終わりにする。……そうしてまた、始めっからやり直すんだ。おれが、もう一度。」
おれたち全員、船出するんだよ。呆然とこちらを見つめる兄弟達の肩に手を置いて、サボは続けた。
「おれたちの始まりだ、ここからが。自分たちの力で、新しい場所で、一から始めよう。エース、ルフィ。もう何にも縛られない。きっと楽じゃない。苦労だってあるに決まってる。それでも、自分たちの歩く道をおれたち自身の手で切り拓いていけるんだ。これ以上楽しいことなんかない。そうだろ?」
青年は、夢を語る。
きっと来る大きな波にも耐えられるよう、商いの仕方を根元からやり直す。豪奢な呉服の仕入れは注文ごとにして、その代わりに手の出やすい値の、ただし質のいい木綿や麻の着物を表に並べる。職人たちの手による、古い着物の染め直しを主力に据える。財力のある商人だけを相手にするのではなく、町の人々が、気軽に足を運べる店にするのだ。
新しく生まれ変わった着物を手に、晴れやかに笑う人々の顔を見ながら、商いをするのだ。
棒手振りの商人や、小さな職人たちが必死に貯めた銭で娘に祝言を挙げるときは、立派な白無垢を安値で貸し出してやるのもいい。
そして店がいい波に乗ったなら、小さな廻船を買い、まだ見ぬ土地の、まだ見ぬ彩の反物を探しに行くのだ。
「……そうしていつか、まだ知らない新しい土地で、また3人で会おう。まだ知らない、新しい世界の話を、しよう。」
サボの穏やかな薄い色の瞳を見つめていたルフィの眼から、ぽろりと涙が零れた。エースが、その心の奥底で自ら迷いを断ち切ったのを、サボはその眼の光の強さに見た。
兄弟たちは、夢を見た。地に足を踏みしばり、太陽に胸を張って歩いてゆく己を。雨の日も風の日も、己の腕で作った傘で誰かの往く道を守るその明日を。青い海原に、揚々と帆を張る己の船を、瞼の裏にはっきりと見た。
サボはもう何も言わず、大切な兄弟たちを肩に抱き寄せた。背に縋る細い指先の感触を、肩を抱き返す手のひらの強さを、忘れまいと思った。
「………さあ、お前ら早く行け。そろそろルフィがいないことに誰かが気付いた頃だろ。ここは真っ先に探されるはずだ。ひとまず白ひげでかくまってもらって、日が落ちてから江戸を出るんだ」
「わかった。」
「―――! サボ、」
「大丈夫。何とか抜け出してもう一度会いに行くから。ルフィ、お前友達にも会ってから行きたいだろ?白ひげに集まってもらうようにナミちゃんづてで知らせておくから」
ああそれから、と離れ家に飛び込んだ時に放り出したままだった風呂敷包みを、立ち上がって手に取った。
「お前がいないことに気付いて慌てて飛び出してきたから、ざっとしか入れて来られなかったけど。まあないよりましだろ」
そういって手渡された風呂敷包みをルフィが開くと、中には数揃いの着替えと小物、それから。
「……―――母ちゃんの針箱……!」
「お前、火事場に飛び込むくらい大事なモンだもんな。」
途端、首筋に飛びついてきた弟を抱き留めきれず後ろに転がりながら、サボは声を上げて笑った。
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