(藍・1)
がたがた、と音を立て、離れ家の戸が開く。暗闇の土間に雨音が流れ込んだかと思うと、二人分の影が隙間から滑り込んだその刹那、戸はぴしゃりと閉ざされた。
雨の中、新町からここまで走り続けた。息は上がり、閉じた傘や裾からはぽたりぽたりと雫が伝い、外は雨音が響いている。
だがそれらの音はどれも、ただ互いを見つめることしかできない二人には、届かなかった。
「………。」
肩を揺らして、荒い息をついて、それでもふたりは互いから眼を離さない。
衝動に任せて走り出した、その戸惑いも確かにある。あるのに、今はただ、戸を開けたときに離れてしまった体温が、恋しくて恋しくて仕方がなかった。
力の抜けたエースの手から、緋色の傘が滑り落ちる。雨の音を遮って静かな離れ家に響いたその音が、止まった二人の時を再び動かした。
「―――ッ」
二度目のくちづけだった。
互いに縋りつき、その背を、髪を掻き抱くようにして、二人は唇を合わせた。
ルフィの指先が、自分の背中の布を思い切り握り締める感触を悟り、エースは心の臓がまたきん、と熱くなるのを感じた。
愛しい。愛おしい。頼りなくやわらかな唇も、指でかき乱す黒髪も、腕の中にひたりと収まるしなやかな身体の感触も、前髪が擦り合う距離で覗き込んだ、黒々と艶めく瞳が再び涙を思い出して濡れているのも、全てが愛しくて胸が痛かった。
ルフィ。唇を触れ合わせながら囁いた。
ルフィ。泣くな。泣くな、ルフィ。そう囁きながら、くちづけた。
涙を拭ったその親指で、しっとりとやわらかい唇をなぞる。少しだけ強く押し当てて、小さな下の歯の並びをなぞるようにすると、何も知らない弟は素直に口を開いた。
「……えーす、――んっ」
隙間からぬるりと忍び込んだ舌の感触。知らないその感触に、鼻にかかった高い声を漏らして、ルフィは瞬間的に身を引いた。隙間なく密着したエースが、びくりと思わずおののいた肩に気付かなかった訳はないだろう。だがしかし、がしりと胴を絡め取った兄の強い腕は、びくともしなかった。
引っ込めてしまった腕をかいくぐり、エースの腕が脇の下に忍び込んだ。ぐるりとルフィの背を巡ると、決して逃げられない強さで締め付ける。
宙に浮いた手のひらで、ルフィは兄のたくましい肩にしがみついた。
口の中をするすると動き回る兄の舌が、上あごをくすぐっては奥に引っ込んでしまったルフィの舌を誘い出すように絡め取る。
知らないはずのその感触が、どうしてこんなにも気持ちいいのか。
「―――ルフィ」
「……ッン、っ、はぁっ」
ちゅる、と小さな水音を立てて退いたかと思うと、エースはルフィの濡れた唇を親指で拭いながら言った。
「ルフィ、こわがんなくていい。力抜いて、おれに預けろ。」
どくどくと今までに感じたことがない様な速度で血が巡っているのがわかる。きっとエースにも伝わっているだろう。
(…―――あ、れ)
合わさった胸の中で、微妙にずれる鼓動の音。兄の、胸から聞こえるその音が。
「……応えてくれ、ルフィ」
強いはずの、どこまでも強く気丈なはずの兄の声が、震えていた。
それに気が付いた途端、ルフィの胸の中で甘いような酸いような何かが弾け、じわりと広がった。
戸惑いも、少しの恐れも、その熱い波が押し流していく。次のくちづけは、ルフィ自ら唇を開いて兄を迎え入れた。
「……ぅ、…エー、ス、――っ、」
「――――、」
おずおずと舌を差し出してみれば、兄は逃すことなく捉えてくれた。ぎゅう、と力の籠った腕が嬉しくて、兄の真似をして自分から絡ませてみる。もっと近くに行きたくて、無い距離を更に縮ませるように兄の側に身体ごと押し付けた。
ちゅる、と小さな水音を立ててくちづけを解くと、追うように戯れに兄の上唇を音を立てて吸ってみた。ほんの一瞬でも、離れるその時間が惜しい。
その一瞬、兄の動きが止まったかに思えた。あれ、だめだったかな、と頭の端で思った次の瞬間、食らいつくすような勢いで兄が再び唇を割って押し入ってきた。
「!?―――んっ!」
兄がどれだけ努めて優しく唇を合わせてくれていたか、この時になってルフィは気付いた。
勢いに負けて、ルフィは思わず背をのけぞらせて兄のくちづけを受けとめた。背を支える兄の腕だけが頼りだった。それがなければ、きっと倒れてしまっている。
口の中を我が物顔で蹂躙する兄の舌が、じんじんと痺れるような快感を生む。背を、腰をまさぐる様に這う手のひらに、思わず喉から鼻に声が抜ける。受けとめきれなかった唾液が口の端から漏れては肌を濡らすのに、エースは構う気配もない。
もう何も考えられなかった。
直接絡み合って擦れる粘膜が生み出すのは、明らかな快感だった。
ルフィが今できることは、エースが生み出す身体の中の疼きを声に変えて少しずつ昇華することと、けして崩れない兄の身体に、力の抜けそうな両の手でしがみつくことだけだった。
もはや、自ら兄に身を預けているのか、すでにくずおれそうな身体を兄が支えてくれているのか、それすらわからなかった。
笑う膝がついにガクリと落ちる。
それでもエースは動じることなく、唇を合わせたままゆるゆるとルフィを奥へ促し、畳の床に腰掛けさせた。そのままゆっくりと背を寝かせられ兄が覆いかぶさってこようが、畳の上で指を絡められようが、兄の行動の全ては、眼を閉じたままのルフィに甘い痛みしか与えなかった。
もはや片時も離れずエースに触れていたい。ただその想いしかなかった。
合わせた唇の中でするすると動き回る舌。戯れに唇を食み、吸い上げる小さな水音。強引な口付けとは裏腹に、穏やかに優しく髪を撫でる大きな手のひらがよく知った兄の仕草であることに気が付いた途端、思い出したように新しい涙が零れる。
涙の井戸が溢れてしまったようだった。誰かが愛しくて、愛しくて愛しくて涙が出るなんて、こんなことがあるなんて知らなかった。
「……ふ、…泣き虫は昔から変わんねえのな」
「……っ、ちが、エース、が」
「はは。……あァ、おれのせいだな。すまねェ。」
もう子供の頃の拗ねたような声ではない、低く穏やかな声音で笑ったエースは、一回りも二回りも大きく、頼もしく見えた。ルフィの意地も、覚悟も、捨て去ったはずの想いまでもすべて、受け止めて包み込んでしまう。
ゆっくりと、ルフィが恐れを感じないように努めて緩やかに覆いかぶさり、エースは弟のしなやかな身体を両腕で抱きしめた。一度髪に鼻先を埋めると、その耳元で囁いた。
「―――――行くな、ルフィ。ここにいろ。」
「……!」
その一言に、ルフィの心の臓が震えた。
息の根を止めて、死に往く暗い暗い藍の甕の底に沈めたはずの想いが、生き物が息を吹き返すようにぶるりと身を震わせたのをルフィは感じた。
「そん、なの、―――っ、おれは、もう決めたんだ…!伊勢屋で、あの店で生きていくって」
「ルフィ」
「おれは平気だ。エースにこうしてもらえた。一瞬でも、エースの一番近くにいられた!もう何も、」
「お前が良くてもおれが無理だ。耐えられない。」
「知らねえ!!エースは勝手だ!!ずっと知らない振りしてたくせに!!」
ぐ、と震える手のひらで広い肩を押し返した。
その愛しい広さに、強さに眼の奥が熱くなる。できることなら、そこに縋りついて顔を埋めてしまいたい。抱きしめて欲しい。一緒に行きたい。生きたい。
だが兄が愛しいそれゆえに、許されない想いだった。
「おれはずっとエースのこと見てたのに、エースは気付かない振りしてた!おれから目を逸らして、『若』って呼んで!ずっと、ずっと!!」
「ルフィ、」
「おれのためだろ!?わかってる!―――わかるなら、もう、思い出にさせてくれ…!」
ああ、泣きたくなんてなかった。泣くのは卑怯だ。兄が納得して背を向けられるように、せめて、笑ってその背を見送ってやらなければ。
「……一人前の職人に、なるんだろ、エース。白ひげで一人前になって、自分の店持って、……きれいな嫁さん、もらって。こどもも、作って、立派な父ちゃんに、なるんだろ。―――隣にいるのは、おれじゃない。」
「…――、」
「決めたんだ、おれ。伊勢屋の裏の仕事も、色んな噂も全部知ってる。おれ負けたりしねえよ、そんなんに。エースと、母ちゃんと別れたときより辛いことなんて、母ちゃんが死んじまったときより辛いことなんてありゃしねえ。何があっても大丈夫だ。」
「ルフィ…!」
「そんでエースが、幸せに暮らしてるのをいつかどこかで見られたら、」
「ルフィ!!おれはそんなこと望んでねえ!!」
「知らねえ!もう決めたんだ!!」
「この意地っ張りが!ならおれを殴ってでも何しても行けばいいじゃねェか!なんでそうしねェ!」
「―――…ッ!」
ぼろぼろと涙を零しながら、弟は顔を背けた。頑ななその態度は、だがしかし弟が自分を想う気持ちそのものだと、今のエースは知っていた。なぜならそれは、かつて己が選んだ方法だったからだ。弟の涙と引き換えに。
それを知っているからこそ、ここで引くわけにはいかなかった。
なあルフィ。頼む。自分より一回り細い弟の肩に縋りついて零した声は、みっともなく掠れていた。
「―――頼む、ルフィ。行くな。おれだって決めたんだ。おれは一度お前の手を離しちまった。連れ戻せたかもしれないのに、そうしなかった。お前を諦めちまった。」
ルフィを離しちゃ、だめだからね。あの日の母の声が聞こえた気がした。
「お前のためだと思った。その方がお前の幸せだと思った。……意地っ張りはおれの方だ。結局、お前をひとりにして、…ひとりで泣かせて、辛い思いさせて、散々我慢させて、……こんなことになるまで……!」
燃える彼岸花の川岸で見送った、夕焼けの背中。
白い粉雪に紛れて手を振った、遠い笑顔。
朧月の下、この背中にひっそりと縋って泣いていた別れの夜。
新緑の木漏れ日の中で、光った涙。
「……もう二度と、泣いてるお前を置いていったりしねえ。もう二度と……!!」
「…〜〜〜ッ」
両腕で顔を覆うその下から、耐えきれない嗚咽が漏れている。望んでいたのは、願っていたのは、この愛しい弟の笑顔だったのに。ただ、それだけだったはずなのに。
しゃくりあげる肩に静かに腕を差し入れて、時間をかけて抱き起こす。
泣き顔を隠す腕はそのままに、全て腕の内側に包んで抱きしめた。
「―――行くな、ルフィ。」
「……っ、」
「サボに殴られかけたよ。『お前じゃなきゃだめなんだ』って。『ルフィを離すな』って。」
腕の中で、震えがほんの少し収まった。ルフィが、必死でしゃくりあげる胸を抑えつけ、自分の言葉に耳を傾けてくれているのがわかる。エースは、ルフィの耳元に直接送り込むように、言葉を続けた。
「……おれ頭悪ィから、正直、じゃあどうしたらいいかなんて、全然わかんねえけど。いきなりこんなことしちまって、今更ってお前が怒るのも当然だと思うけど。……それでも、お前を離したくねえんだ。」
「―――お前が愛しい。ルフィ。たとえ今の暮らしが全部ブチ壊れたって、この腕さえありゃあ、おれはどこでだってやっていける。どこで生きて行ったって、おれが職人であることに変わりはねェ。」
かすかに震えながら、まだ強情に腕の中でゆるく首を横に振る小さな頭を、手のひらに包み込んで肩に抱き寄せた。
艶やかな髪に頬を寄せて、指をくぐらせる。一度知ってしまったこの愛しい感触を、どうしたら手放せるというのだ。
「―――一緒に行こう。一緒に生きよう、ルフィ。……側にいてくれ。…側に、いてくれ…!!」
腹の底から絞り出すような、掠れた兄の声。
今更だと、冗談を言うなと笑い飛ばすには、あまりに切ないその響きに、ルフィは言葉を失った。せめてとばかりに、溢れ出す涙と引き攣れた嗚咽を広い肩に埋めて隠して、小さく悪態をついた。
「――――、ばか、やろ……。」
「…………お前の、兄貴だからな。」
穏やかな声で茶化したそのセリフに、思わず笑いが零れた。
ゆっくりと身体を離し、額を合わせて顔を覗き込んだ兄のくちづけを、ルフィはもう、拒まなかった。
***
外を照らす朝日が障子を白く染め上げる。その光がまぶしくて寝返りを打とうとしたが、何かに阻まれてそれは叶わない。あたたかいそれを確かめようと、ルフィは瞼を開けた。
(……―――あ、)
すぐ目の前には、穏やかに寝息を立てる兄の顔。
よく見知ったはずのそばかす顔が今朝はなんだか違って見えるのは、二人の距離が変わったせいだろうか。
(…―――ばかだなあ。男前のくせに、もったいねえ)
すう、と通った鼻筋だとか、尖ってすこしつり上がり気味の眼尻だとか、一見鋭い眼付を和らげるのに一役買っているそばかすだとか、そのひとつひとつを指先で辿ってみる。
身動きが取れなかったのは、兄がその長い腕でルフィの胴を絡め取っていたからだった。
雨に濡れたために、単衣の着物は脱いで干してある。ルフィは襦袢を纏っていたが、年中単衣の小袖で過ごす兄は濃紺の股引一枚。湿気たようなにおいのするせんべい布団にふたり身を寄せ合って眠り、朝を迎えた。
剥きだしの首筋から肩の逞しさを羨望のまなざしで眺めると同時、この腕に昨晩から片時も離れず抱かれていたのだと思うと、ルフィは唐突に顔から火がでそうな思いを味わった。
兄とひとつ布団で眠ることなど初めてでもないのに、想いが通じるとはこういうことかと、朝からルフィの心の臓はばくばくと音を立てて静まらないのだった。
たまらず布団の中で小さく縮こまると、その身じろぎに気付いたか、エースがぼんやりと目を開けた。
「…―――ぁ、エース、…おは、」
お早う、と続けようとした言葉は、突如として遮られた。
何が起こったかわからぬ間に、身体の位置を入れ替えられ、髪も乱れたままの兄がルフィを組み敷いて見下ろしているのだ。
「……………ぇ、エー、ス……?」
「……。」
無言のまま、凍りついたような顔で兄はルフィの顔を凝視する。
ようやく身じろいだかと思えば、ぺち、と音を立てて頬に手のひらが当たる。いて、と思わず零した声には先程の甘さなど微塵もない。幼い兄弟だったあの頃と同じだった。
「……ゅ……、」
「ゆ?」
「夢、かと、思った……。」
魂まで抜けてしまうのではないかと思うような長い長い溜息を吐くと、エースはずるずるとルフィの上に沈み込んだ。がしりと引き締まった兄の身体は、着物を纏うときのすらりとした印象に反して至極重い。
「ぐえ!エ、エース!エース、重、重い!」
ばしばし遠慮なく火傷の痕が残る背中を叩けば、何だかんだで優しい兄はルフィが苦しくない程度に自分の重みを自らの腕と膝で支えてくれる。だが、縋りつくようにぎゅう、とルフィを抱きしめるその振舞いは、常に一歩引いて自分を見ていた、あの「エース」と同じ男とはとてもではないが思えないほどに、子供じみていた。
「……ゆめ、みてたのか……?」
「………あー、夢っつーか、多分、昨日あったことをそのまま見てた、と思う……。……昨日のが全部、夢じゃなければだけど」
そこまで言って、エースはゆるゆると肘で低く起き上がった。前髪がちらちらとルフィの額をくすぐる距離で、まっすぐな眼差しで問いかける。
「―――夢じゃ、ねぇんだよな。」
確かめるように、いや、文字通り確かめているのだろう。エースは、その大きな手のひらでルフィの頬を包み、撫でた。
「……確かめてもいいか。」
「………ししし。ぶん殴ればいいか?」
「ふ。ばか」
見たこともない甘い顔でやわらかく笑った兄は、もう何も言わず唇を寄せた。
ぎゅう、と音がしそうに縮こまった胸の内を隠しながら、ルフィは兄の首筋に腕を絡ませて引き寄せた。
「……さて、これからどうしような」
「……な。」
ひとしきり知ったばかりのお互いの唇を味わったあとは、現実が待っている。兄の腕に頭を預けたまま、ルフィは少しだけ目を伏せた。
本来であれば今日はルフィ当人の結納の日であった。まだ夜も明けたばかり、この時間に起きているのは朝も早い豆腐屋くらいのものだろうが、とはいえあと半刻もすれば奉公人たちも起きだす頃だろう。ゆるりとはしていられない。
「―――まだ変なこと考えてねえだろうな、ルフィ。」
「……考えてねえよ。もう、伊勢屋には行かねえ。……まあ、外海屋にももういられねえと思うけど」
もう一人の兄に迷惑をかけてしまうことになる。それだけが申し訳なかったが、エースの腕の中にいるこの心地よさを知ってしまった以上、もう戻れる気はしなかった。
「……サボに話をしなきゃならねえな。あいつにもとんだ迷惑かけちまうけど、あいつの知恵を借りてなんとか伊勢屋と、それから外海屋のおかみさんに諦めてもらわねえと」
「―――ん」
ゆっくりと身じろいだかと思うと、エースはじわりと両腕に力を込めてルフィを抱きしめた。小振りの頭を胸に抱え込み、見えてもいないはずなのに、そんな顔すんな、と穏やかな声音で言う。
「―――大丈夫だ。おれがついてる。なんとかなるさ」
「……しし。かわらねェの、エース」
「あ?」
「理由もねえのに強気なんだ、昔っから。」
「お前にだけは言われたくねェよ」
あたたかい布団の中で、二人分の小さな笑い声がこもって響く。あたたかなぬくもりが、ひそやかな笑い声が、いつまでも続くような気がした。
だが突如として叩かれた扉の音が、まるで現実離れしたような緩やかな時間の終わりを告げる。
「―――!」
一瞬で顔を強張らせたルフィは、弾かれたように玄関口の土間を振り向いた。こじ開けられる様子はないが、相手の姿もまた見えない。
「……、思ったより早かったな」
瞬時に狼のような鋭い眼をしてそう呟くと、最後に力いっぱい弟を抱きしめて、エースは飛び起きた。
あの大火事のあと一時的にふたりで身を寄せていたとはいえ、今は空き家となっているこの離れ家に訪ねて来るものなどありはしない。ルフィに追手がかかったと思っていいだろう。
股引一枚だったその身に、干してあった着物を手早く纏うと、ルフィのものを手に取り肩に羽織らせる。不安と戸惑いに瞳を揺らす弟のやわらかな頬を、幼子に言い聞かせるように大きな両手で包み込んだ。
「エース…!」
「着たら勝手口に隠れてろ。いきなり手荒な真似はしてこねえと思うけど、おれが行けって言ったら裏のくぐり戸から逃げろ。いいな」
「―――!」
淡々と兄が言ったその言葉に、ルフィは眼を見開いた。
「嫌だ!エース、一緒に、」
「わかってる。わかってるから、一緒に生きるために今は逃げろ。……大丈夫、後からちゃんと追い掛ける。まだおれと一緒だと感づかれてはいねぇだろうから、『白ひげ』に逃げ込め。オヤジなら、なんとかしてくれる。」
安心させるためにいつも通りに微笑んで言って見せたあと、エースは立ち上がった。不安げにこちらを見上げる弟を力一杯抱きしめてやりたかったが、今はその時ではない。
努めて足音を殺し、裸足のまま土間に下りる。いつでも飛び出せるよう膝をゆるめ、自分の意志次第で開けられるよう戸のつっかい棒に手をかける。戸は開けないまま、低く声をかけた。
「……どちらさんで」
「―――! エース、よかった…!おれだ!」
「!」
戸の向こうから聞こえてきたのは、ひそめられていてもすぐわかる聞き慣れた声だった。
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