(若葉・3)



(…―――エース。お願いね。ルフィを離しちゃだめだからね)

 夜闇に燃えるように浮かぶ赤提灯の明かり。火に照らされて一層鮮やかな鳥居の朱色。夜の風にさわさわと揺れる木々の緑の下で、飴細工や風車の屋台が立ち並ぶ。
 いつもの小さな神社が、ささやかな異世界と化した夏の夜だった。
 夏の湿り気に体調を崩した母は、弟がこの小さな縁日を心底楽しみにしていたのを知っていた。自分の手と、まだ小さな弟のやわらかな手とをやさしく繋ぎ合わせて言ったのだ。
 この手を離しちゃだめだからね。ルフィを離しちゃ、駄目だからね。
(わかってらあ。離すもんか、すぐ迷子になるのはわかってんだから)
(なんだよ!エースが歩くのはやすぎるのがわるいんだろ!)
(ルフィ。エースも。今日だけは約束してちょうだい。母さん一緒には行けないんだから)
 きっとふたりで帰ってくるんだよ。この手を離しちゃ、駄目だからね。
 幼いながら、兄として弟を託されたことが誇らしかった。母が自分を頼ってくれたのが嬉しかった。人混みの中で揉まれる弟が、思わず縋る様に小さな両手で自分の手を握り締めるのが、くすぐったくも、愛おしかった。
 だから。
 ――――なのに。
(―――若。)

 手を離してしまったのは、おれの方だ。
 
 目覚めは、軽くふっと落ちるような感覚だった。
 雨が降っている。
 エースが瞼を開くと、いつもの長屋の天井が暗闇にぼんやりと浮かび上がる。さあさあと控えめな雨の音に混じって、雑魚寝している兄弟弟子たちの寝息やいびきが響くだけの、いつもの夜。
 寝苦しいわけでも、夢見が悪かったわけでもない。ただなんとなく目が覚めただけ。
 一度寝たら滅多なことでは起きない自分が夜中にひとり目覚めてしまったということ自体がすでにいつもどおりではないのだと、もちろんエース自身も気づいてはいたのだが。 
 もう一度眠りの淵へ戻ろうと目を瞑るが、一向に眠気はやってこない。ぐるぐると頭の中を巡る終着点のない考えが、頭を冴えさせて静まらない。
 昼間、サボがやってきて燃える様な眼で言った言葉が、耳から離れなかった。

 伊勢屋の裏の事情。新しくお触れが出るであろう、棄捐令。決して安寧とは言えない行く先。
 華やかな縁談に隠されているかもしれない、本当の目的。
 ルフィの、これから。
(……―――おれにどうにかできるならもうしてる。できねえから、もうおれにはどうにもできねえから、だからこうしてお前に言ってるんだ)
(悔しいけど、お前じゃなきゃ駄目なんだ。あの子を取り戻すことができるのは、お前しかいねえんだよ!)
 この肩を掴んだ両手の力。必死に縋る指が食い込む痛みは、今もまだまざまざと残る。サボの話を聞いたとき、ざわりと一気に血が引いた、そのおぞましいような感触も。

 走り去るその刹那に見えた、弟の濡れたように揺れる瞳を思い出した。
 泣き顔なら何度も見た。ついこの間は、子供の様に泣きだしてしまった弟をこの腕に抱いてやったことだってあった。
 体格の良い自分に比べればいくらか小柄な弟の身体は、自分が腕を回せばすんなりとこの胸の内に収まってしまった。この背中に腕をするりと回してしがみついて、胸に顔を埋めて安心しきったように眠っていた弟。
 その細い肩の感触や、なめらかな髪の手触りを思い出すだけで、エースの心の臓はぎりりと握りつぶされるように甘く痛んだ。
 いや、もう甘いだけの痛みではない。それは、後悔と諦念の入り混じった、酸い様な苦い様な痛みでもあった。ルフィのあまりに痛々しい涙を見た後では、もう誤魔化すことも、気付かない振りをすることも、できそうになかった。
 できることなら、この腕に抱いて奪い返してしまいたい。
 あの髪に、肌に、唇に、ほかの誰かが触れるなど、考えたくもなかった。
 だが、
(――――ルフィは、それでいいのか)
 ルフィの胸の内が、わからない。
 あんなに嘘が下手で、隠し事ができなかった弟。それが、いつの間にか笑顔で覆うことを覚えてしまった。
 ルフィは嘘をついていない。自ら決めて受け容れて、そして真正面から受け止めようとしている。だからこそ、わからない。そこに、己の踏み込む余地はあるのか。彼の覚悟に、自分が水を差すような真似をしていいのか。
 一度ならず二度までも、手を離してしまった情けない兄。その自分が、その手を取っていいのか。
 ―――「兄弟」にすら、戻れないかもしれない。その先まで、手を伸ばすことが、できるのか。

 サボが、血を吐くように言った言葉を思い出す。悔しそうに、歯がゆそうに、だがどこまでも真摯な瞳で言った、その言葉。
(―――お前じゃなきゃ駄目なんだ)
(頼む。あの子を止めてくれ。ルフィを、離さないでくれ……!!)
 手を伸ばしてもいいのだろうか。
 
 あのどこまでも凛と強い背中に、触れてもいいのだろうか。

(……考えても無駄だ。)
 もともと考えるのは苦手だ。絡みつく思考を振り切る様に、エースは寝返りを打った。眠ってさえしまえば朝が来る。朝が来たら、
(―――会いに行こう)
 もう一度ルフィに会いに行こう。話はそれからだ。
 そう割り切って瞼を閉じ、再び部屋に静寂が訪れた、その時だった。
 外を誰かが歩く足音に気が付いた。こんな夜更けに出歩くなど、夜盗か酔っ払いかはたまた物好きか。エースは、ほんの少し気を研いでその足音に耳を澄ませた。
 ぬかるむ地面を、ゆっくりと踏みしめるような足音。
(……止まった?うちに用か?)
 カタン、と微かな物音がした。何かを置いたようだった。しばらくして、再びその何者かが歩き出す気配がした。水音と、土を踏みしめる足音に、微かに高い音が混じる。
 チャリン、という、雪駄の尻金が、
(――――!)
 それに気が付いた瞬間、エースは布団から飛び出した。

 気が急くのを必死で抑え、足音を殺して階段を駆け下りた。古い長屋の戸が軋むのは、雨音が誤魔化してくれるだろう。
 表の戸を開けて雨の中へ飛び出すと、人影は既に見えなかった。
 見回した目の端に留まったのは、戸に立てかけてある緋色の傘と、小さな紙の包み。急ぎ手に取って包みの油紙を広げた。
 夜の暗がりにもわかる、ぼんやりと光るような薄青。藍染めの手ぬぐい。
 迷わず、走り出した。
「――――若!」
 夜中だということも忘れて、エースは思わず呼び止めた。
 川岸の桜の並木道。雨だというのに、ぼんやりと明るい夜だった。薄い雲が月を透かしている。夜の時雨。きっとすぐにやむだろう。
 新緑の下。雨の中傘も差さず、ルフィはゆっくりと振り向いた。
 こんな時間、そこにエースがいることに驚いたのだろう。大きな目を更に見開いてこちらを見ていたが、それも一瞬のことだった。
 萌黄の着物が夜闇にぼんやりと浮かぶ。ここまで、この緋色の傘を差してきたのだろうか。そうだとしたら、それはなんて美しい様だったろう。
「…―――起こしちまったか。ゴメンなエース。」
 いつもの快活な笑顔でルフィは言った。行燈も持たず、薄い月明かりだけが照らすその頬を、雨が伝う。
「さよならを、しに来たんだ。」
さあさあと降り続く雨の中でもよく通る声。いつもどおりの声音で紡ぐその言葉は、あまりに淋しい。
「明日、結納なんだ。それが終わったら、伊勢屋で仕事を教えてもらうことになってる。明日からは、もう会えない。」
 ゆっくりと一歩、踏み出した。
「……薄情なことしてごめんな、エース。その傘、返しに来たんだ。祝言の立派な傘作ってもらうんだし、伊勢屋には持って行けそうもねえからさ。サボに持っててもらおうかとも思ったけど、せっかくいいもん作ってもらったのに悪いから。」
 また一歩。雨に濡れた髪から、ぽたりとひとつ雫が落ちた。
「もう、簡単には会えなくなるから、どうせなら、エースに持ってて欲しいんだ。そんで、たまにはおれのこと、思い出してくれよな」
 一歩。また一歩。木綿の着物の肩が濡れる。微笑むルフィの顔が見える。
「ああ、それから手拭いな。前のやつ火事の時焦がしちまったから、新しいの染めてみたんだ。結構良い色が出てな、『甕のぞき』っていうんだけどな、結構難しいんだ、その色。」
 あと数歩。手を伸ばせば届く距離。
「こんなんでエースにしてもらったことの礼になんてならねえけどさ、せめておれの代わりに、―――!」

 頬に触れた手のひらに、ルフィは滔々と流れる言葉を失った。
 一歩。もう一歩踏み出せば、腕の中にルフィを囲える。その距離で、エースは止まった。手のひらにすっぽりと収まる頬。その肌を、親指で撫でた。
 弟のなめらかな頬を伝う雫。睫毛を濡らす水の珠。
 雨ならば、なぜこんなに温かいのか。
「…―――泣いてるのか、ルフィ」
「―――っ!」
 瞬間、逃げ出そうとした。だが、それは叶わなかった。
 あまりに慕わしい、温かな体温に強く抱きすくめられて、ルフィはなす術を失った。
 ルフィが戸惑っているのはわかっていた。わかってはいたが、エースは腕の内側を焼くような感覚に身動きがとれずにいた。
 焦がれた体温がこの腕の中にある。一度気付いてしまったこの想いの前に、弟のしなやかな身体の感触が泣きたいほどに愛おしかった。
「―――、駄目だ、離せエース!」
「嫌だ」
「なんで、……っ、ダメだ、って!」
「ルフィ、」
「エース!後生だから!―――っ!戻れなくなる!!」
「戻りたいのか」
 腕の中で暴れていたルフィが、ぴたりと動きを止めた。
 戻りたいのか。もう一度、その耳元で囁いた。

「…―――エー、ス…?」
「……おれは、無理だ。今まで、必死で気付かないようにしまってきた。本当は、わかってたのに。」
「―――…!」
「気付かない振りをして、自分すら誤魔化して」
「エース、やめろ……。」
「耐えられない。お前が、ほかの誰かのものになるなんて。お前に、ほかの誰かが触れるなんて」
「エース……ッ!」

「―――戻りたいのか、お前は!こんな風に、声を殺して泣いてんのに!!」
「―――ッ!!」

 ルフィはもう、何も言わなかった。胸元で強情に突っ張っていた手から、やがてずるりと力が抜けた。必死で押し返そうとしていた指先。それが、突き放そうとしていたそこに、ゆるゆると縋る。
 腕の中で震えだした身体を、エースは今度こそ思い切り抱きしめた。じわじわと、抑えられない想いを腕の力に込めた。
 内側に囲った体温も、確かな肌の感触も、濡れた黒髪の懐かしい香りも、何もかももう二度と失えないと思った。
 胸に直接くぐもる声は、今度こそ、嗚咽だった。
「……謝るのは、おれのほうだルフィ。臆病な兄貴でごめん。散々我慢させてごめん。……今までずっと、―――ずっと……!」
「…〜〜〜っ」
 ルフィが逃げないことを確かめると、エースはゆっくりと腕から力を抜いた。
 両手で、小さな頬を包み込む。俯いて、子供の様にしゃくりあげる顔を、腰を屈めて覗き込む。ぼたぼたと、何度も何度も押し込められてきた涙が、堰を切ったように溢れては落ちてゆく。
 雨の雫に紛れてゆくそれが、どうしようもなく、美しいと思った。

「……―――ルフィ」
「……?」
「おまえが、愛しいよ」

 弾かれたように瞬いた瞼。大きく見開かれた瞳が、艶やかに濡れて露を落とす。
 愛しくて、愛しくて、涙が出そうだった。
 惹かれるままゆっくりと近づくエースに、ルフィはもう、抗わなかった。音もなく、ゆっくりと閉じられた瞼。白いなめらかな頬を、雨か涙か、透き通る雫がゆっくりと伝う。
 やわらかな薄い皮膚が、微かな湿り気を帯びて沈み込む。ひたりと合わせられた唇だけが、熱かった。
「―――、」
 触れ合わせるだけの、ささやかな口づけ。薬を飲ませたあの時と感触は変わらない、いや、もっと控えめなはずなのに、エースは全身を巡る血が沸騰しかけているのを感じた。
 世界は、音を失った。 

 息もできず、思わず口づけを解いた。
 声もなくお互いを見つめる、永遠にも思えた、たった数秒。
 次の瞬間、無言のままエースは緋色の傘を開き、ルフィの肩を抱いて走り出した。水を弾く足音に混じって、ルフィの雪駄がちゃりちゃりと鳴る。
 雨は弱まった。いずれもうすぐ止むだろう。
 雫を纏った木々の緑を、薄雲の隙間から月が透かす。万のうちの一枚の葉から、ぽたりと雫が落ちた。
 夜の向こうに消えた二人の足跡。緑から滴る雨が撫で、やがて消した。









若葉燃ゆ 頬濡らしてや 青時雨
わかばもゆ ほほぬらしてや あおしぐれ
20140820 Joe H.