(若葉・2)
職人たちが寝静まった外海屋の奥。遠く蛙や夏虫の声がころころと響く土間に、月の明かりが静かに落ちる。土間の土の中に、首まで埋められた甕がいくつも並ぶ。中では、仕込みの時期が少しずつ異なる藍が、染の時を静かに待っている。
足音を立てぬように、ルフィは裸足のまま土間に下りた。茹だるような昼間の熱も冷めた土の感触が、ひたりと足裏を冷たく撫でる。一歩、二歩。ゆっくりと歩みをすすめると、一番奥の甕の前に膝をついた。静かに甕のふたを開けると、酸い様な、だがよく乾いた草のような、慕わしい藍の香りが鼻先を舞う。
ほんのひととき、目を閉じてその香りを吸いこんで、ルフィは音もなくまた瞼を開けた。
その黒く透明な瞳が、甕の中の暗い藍を見定める。この土間の中で最も古い甕。藍の花と呼ばれる発酵泡が、ほとんど消えかけているその甕。
この後はただ死を待つばかりの、藍。
(…―――これでいい)
かすかに微笑むと、ルフィは愛おしげにその甕を指先で撫でた。
かと思うと、屈めていた身を起こして帯に挟んでいたたすきを音もなく抜く。慣れた手つきでしゅるりと肩に腕にそれを回すと、手早くたすき掛けにして袖を留める。
胸元に忍ばせていた、白い木綿。手拭いの長さに、髪を包むのにちょうどいい長さに切ったそれを取り出して、ゆっくりと広げた。
余計な塵の混じらぬように。
要らぬ色の混じらぬように。
意外なほどに繊細でしなやかな手つきで、ルフィはゆっくりとそれを甕の中に沈めていく。己の手も藍の中へゆっくりと沈むのを眺めながら、ルフィはやはりその藍の死が近いことをその色から悟った。
ああ、けれど。褪せたような、今際の最期の呼吸をするようなその青は、なんと美しいことか。
(…―――あ、)
ぱたり、と甕の中に雫が落ちた。
雨など降らぬ土間の中。雲など見えぬ月の夜。ルフィがそれを己の涙と気付くのに、長い時間は要らなかった。
「―――っ、」
ちゃぷ、と微かな水音を立てて、ルフィは手の中のそれをゆっくりと引き上げた。
草色をしていたそれは、空気にさらされてゆっくりと色を変えてゆく。死際の藍は、薄く、どこまでも透明な青。
ルフィの目に映るその色が、遠く滲む。
土間の中に響く微かな嗚咽を聞くものは、誰一人としていなかった。
そして、ちょうど同じ頃。
とある屋敷のくぐり戸から、あたりをはばかるようにしてひとりの男の影がするりと抜けだした。
長身の姿に纏わせた衣は、ただの町民のそれとも違う、機能性を追及して作られたもの。濃紺の股引に前掛け。小袖は裾が短く、ひらめかぬように帯できちりと留められている。短く切りそろえられた髪と、月明かりにきらりと光る耳の飾り。男の身を彩るのは、たったそれだけ。
高所や木々の間でも身軽に動けるよう計算された、庭師の姿。
男は、あたりに人の気配がないことを確かめると、音もなくするりと身を起こし、立ち上がった。何の気なしに、月を見上げた。
時が来た。それを悟った。
ゾロは、その切れ長の眼でひとつ月を睨みつけて、背を向けた。音もなく走り去る彼の姿を見た者も、また誰一人としていない。
「……若旦那様」
あたりをはばかる様に背中からかけられた声に、サボは足を止めて振り返った。
「―――、ああ、ナミちゃ」
名を呼ぶ声を途中で止めたのは、桜色の唇にすらりと細い人差し指が当てられたからだった。
鮮やかな橙色の髪を後ろで結い上げたナミは、サボが言葉を飲みこんだのを見届けたのち、鋭い猫のような眼付きで辺りをうかがった。人の気配が無い事を確かめてから、ごくごく小さな声で囁く。
「若旦那様。お話したいことがあります。お時間頂けますか。」
「……急ぎかい?」
「はい。……ルフィの縁談のことで」
一際抑えられた声は、だが確かにサボの耳を打った。
それを聞いてのち、サボは一瞬たりとて迷わなかった。即座に記憶を洗い、その後の約束を辿った。
「―――この後鍛治町まで顔を出さなきゃならない用があるんだ。一刻はかかる。そのあとでもいいかい」
「はい。お店の中では難ですので、三春屋でお待ちしております。」
「わかった。」
そののち余計なことは一切口にせず、ナミは伸ばした背筋でひとつ頭を下げ、足早に台所の方へ消えた。控えめな薄紅に淡く麻の葉模様が染め抜かれた小袖の背中を見送って、サボも廊下の奥へ足を進めた。
鍛治町へは商いの付き合い上顔を出しに行くだけだが、邪険にもできぬ客だった。さてどうやってあの話好きの主人をあしらってきたものかと頭の端で考えながら、サボは外行きの羽織を広げた。
「出掛けるよ。鍛治町だから少しかかる。店を頼むよ」
「はい、若旦那様」
お気をつけて、という手代の声を背中に聞きながら、サボは外海屋の土間を出た。
外の光が眩しくて思わず目を細めて上を見上げた。いつの間にか、初夏はいよいよ本物の夏を連れてきたようだった。
「…―――きえんれい?何だそりゃあ」
三春屋の奥の席でウソップが上げた疑問の声は、だがナミの手のひらがその後頭部をぱしりと叩いたことでその語尾を失った。それを見たチョッパーが、開きかけていた口を思わず手のひらで押さえて言葉を飲みこむ。
「馬鹿。声が大きいわよ」
「だがナミさん、おれも聞き慣れねえな。なんだいその、」
「……『棄捐令』。簡単に言ってしまえば借金の帳消しよ。サンジ君、札差ってわかる?」
「お禄米を質に取ってお侍相手に金を貸してる連中だろ?武家相手にいい商売して羽振もいいって噂じゃねえか」
「そう。だけどこの戦も何もない世の中でしょう。お武家も中々苦しいみたいで、焦げ付きも増えてるそうなの。……もう首も回らないお侍が増えて、お上もついに黙ってられなくなったんでしょうね」
一度咎められた手前声は抑えたものの、ウソップがぽかんと口を開ける。
「それで借金取り消しか!?おいおいおい、そんな馬鹿な話があるかよ!」
「でもナミ、その話とルフィの縁談に何の関係が、」
「―――伊勢屋だ」
チョッパーのもっともな疑問の声を遮って、そこまで黙っていたサボが初めて口を開いた。
心なしか、顔色が青ざめている。
「伊勢屋、って、ルフィの縁談の相手だろ?でもあそこは、」
「表向きは材木屋だ。自前の木場も持っててな。だが、本業よりむしろ裏でやってる札差家業の方が実入りは大きいはずだ。表立ってやってる商売じゃないが、その日のうちにポンと金を積んでくれるって話だ。……その分、利子もでかいみたいだけど。」
視線を落としたままサボがぽつぽつと話す。弟の縁談をなんとかしたくて、必死に自分の足で集めた情報だった。集めれば集めるほど、彼の行くべき場所ではないという思いばかりが膨らんでしまっただけだったが。
「……だけど正気じゃない、そんな御沙汰。そんなことをしたら江戸中の札差が首を絞められる。伊勢屋みたいな汲々の客ばかり集めてる店なんかひとたまりも、」
「お上は本気だ。むしろ、そういう悪どい商売してる連中をこの際洗っちまう気らしい。……その後がどうなるかは、知ったこっちゃねえそうだがな」
低い声が後を続けた。
サボは、落としていた視線を上げて男の顔を見た。庭師としての彼なら、今まで何度となく見てきた。少々愛想もないし礼儀もなってはいないが、その分嘘もつかない。腕の確かな信頼のおける庭師だと思ってきた。弟が何の気負いもなく肩を並べることのできる、数少ない存在だということも知っている。
だが、その彼がなぜ。
「―――ゾロ。お前、その情報どこから仕入れてきた」
サボが低く問いかけたそれに、初めてゾロがつと視線を動かした。
合わせた視線のその先で、サボが少しも譲ろうとしないのを見て取ったゾロは、小さく息をつくと、まるで世間話をするかのような軽さで口を開いた。
「おれは庭師だ。何の変哲もねえ町人だ。……まあ、死んだ父親が元は武士で、刀が扱えるっていうことと、……その縁で、奉行所の仕事をちょいちょい手伝わされてるってこと以外はな。」
思わず言葉を失って周りを見回すと、仲間達はそろって呆れた顔で首を横に振った。彼らも知らなかった、ということだ。
「私たちもついさっき知ったのよ。知ってたのはルフィだけ。」
「道理で胡散くせえと思ってたんだよこのクソ庭師」
「ルフィもゾロも水臭いよなー!教えてくれたっていいじゃねーか!なあウソップ!」
「いーやチョッパー。俺様が思うにルフィは単に大したことだと思ってなかっただけだし、こいつも説明が面倒臭かっただけだ。多分。」
ウソップのその言葉にゾロの方を伺ってみると、否定も肯定もせず気怠そうにあくびをしているだけだった。どうやら当たりらしい。
「奉行所ってーと、南町奉行所の『鷹の目』か。……目明しってことか?」
「……あ?そんなんじゃねえよ。ただの下っ引きの真似事だ。まあ、たまに荒っぽい仕事になることもあるけどな」
にやりと口の端を上げながら言うそのセリフには、深く触れないことにした。
「……するってーと、話の出所は確かみたいだな…。」
そうつぶやいたきり、サボは押し黙った。
右手を口元に当てる。それは彼が物事を深く思案するときの癖だと知っているのは、弟と、もうひとりのみ。
「……伊勢屋の内証は。」
「あまり良くはなさそうね。悪い客ばかり相手にしてるのもあるけれど、ご主人の道楽好きもあるみたい」
「道楽?博打とか、廓通いとかかい?」
何の気なしにサボが口にしたその問いに、珍しくナミが言いよどんだ。
「……これは、言おうか言うまいか迷ってたんだけど。ゾロの話を聞いた後じゃあ、黙ってもいられないわ」
「……?」
意を決したようにナミが顔を上げた。まっすぐなその目に向き合うように、サボも膝を向けて座り直した。
「台所女中から聞いた話よ。伊勢屋のご主人、……ルフィの縁談のお相手の、お父上ね。道楽好きっていうのが、その、……若衆歌舞伎、に、熱を上げてるそうなのよ」
言いにくそうにナミが言ったその言葉に、一同はしばらく言葉を失った。
おそるおそる、といった様子で口火を切ったのは、ウソップだった。
「―――若衆、といいますと、……野郎のかわりに若ェ男やら男の童がやるっていう……?」
「そうね。はっきり言うわ。男色家らしいの、その旦那様。」
聞いていたサボが、今度こそ固まった。表情が消えたその顔を、進んで確かめるものは無い。
「……おれも聞いたことがあるな、その話。」
「―――サンジ君も?」
ふう、と長く吐かれた煙は、溜息交じりのそれ。
「店に来る女中さん達からだがね。積極的に言いふらすまでではないが、人の口に戸は立てられないって言うだろう?……噂でしかないが、噂の方が瓦版よりも確かな事はある。……だろ?ウソップ」
「お前、商売あがったりなこと言うなよ……。」
二人の会話もどこか遠くから聞こえるようだった。サボは、呆然と口を開いた。
「……まさか、最初から、ルフィが目的で、」
「そこまではわからないわ。お相手のお嬢様も、ルフィのこと気に入ってるみたいだし。……ただ、その可能性がない、とは、私も言いきれない。」
重ねられた言葉に、サボは机に肘をついて頭を抱えた。
完全に意表を突かれた。想像もしなかった方向に、事態は考えられうる限り最悪の展開を見せていた。
「……若旦那様が知らなかったのも無理ないわ。奉公人だってなんだって、こんなこと店の外に、ましてや外海屋の若旦那様相手になんて言えるわけないもの」
「……ルフィ、は、このこと」
「知らないわ。……知っていたとしても、一度決めたことをあいつが覆すとは思えない。」
その通りだ。
ここにいる誰もが、ルフィに限って簡単に誰かの良い様にされるなどとは考えていない。いざ自分の身に危険が及んだなら、自分の力でなんとかするだろう。それだけの気概も、強さも、彼は持ち合わせている。
だが。
「それでも、許さない……!あの子はモノじゃない……!」
サボの絞り出すような声が、怒りに震えていたのに誰もが気付いた。
落ち着けるように、一つ深く息をしたサボは、傍らの湯呑を掴み上げ一気に茶を飲み干し、そのままの勢いで立ち上がった。
「ご馳走さん、サンジ。皆のぶん、これで足りるかい。釣りは取っておいてくれ」
「おう、充分すぎるぜ。こりゃどーも。」
「え、若旦那、」
「ありがとうナミちゃん。お前らも。これで踏ん切りがついたよ、おれも。」
つかつかと確かな足取りで表に向かう。青灰色の木綿に青海波。粋好みの羽織をすらりと着こなした、広い背中。
「―――あの馬鹿、今度こそ眼を覚まさせてやる」
低く呟いたその声の響きが消えるが早いか、青海の背中は、もう見えなかった。
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