兄は弟を愛していた。


物心がついた矢先に突然放り込まれてきた小さな弟。

親の記憶もない、頼りの祖父も職業柄逐一面倒を見てはいられない。
無駄に輝いた父親の伝説ばかりが纏わりつく。

ひねくれた性格に育った彼は、当初弟の小さな手を振り払い続けた。


だが、出来たばかりの兄の背に追い縋り、他に頼りがいないと泣き、どんなに酷い仕打ちをしても日だまりのような笑顔を惜しみ無く向けてくれる弟のおかげで、エースの中の氷はゆっくり溶けた。


そうして数年が経ったある夜のことだった。


一人ぼっちになる夢を見たと、甘ったれの弟がエースの部屋に入ってきた。
以前の彼なら、無視してそのまま眠りに入ったであろう。

だがその時のエースは、小さくしゃくりあげるその声を何とか止めたくて、
自らかけ布団を押し上げて、震える弟を己の懐に迎え入れた。



そうして恐る恐るそのやわらかい身体を抱きしめた時、自分の中の氷が温かな愛情になっていることにエースは気づいた。
未だ泣きやまぬ弟の小さな頭を、まだ薄い胸板に押し付けながら、エースは言った。


(泣くな、ルフィ。おれがいるだろ。おれはいなくなったりしねえから。絶対お前の側にいるから。)


そうして、まろい弟の額に口づけた。生まれてはじめて他人に自分から触れた。
涙をためた大きな瞳を真ん丸くして自分を見つめる弟が、次の瞬間いつもの眩しい笑顔で笑ってくれたから、エースはもっとはやくこうすれば良かったと思った。

この小さな宝物を守るためなら何でもしよう。そう思った。



(……その挙げ句が、これかよ。)

救えねェ。荒れたリビングで一人酒を飲みながら、エースは小さく吐き捨てた。
ビールでは充分に酔えず、早々にラム酒に切り替えたのも随分前だ。

夜も更けてからひっそりと帰ってきた弟の横顔を見てからこちら、心臓を引き絞られるような後悔に苛まれていた。

彼の目は赤く腫れていた。弟は、どこかで一人泣いたのだ。
自己嫌悪で、気が狂いそうだった。



だが、エースは兄として、選んだこの道を降りる訳にはいかなかった。

彼は弟を愛していた。



(…あいつのためだ。おれがあいつに寄り掛かっちまうばっかりに、あいつを潰すようなことがあっちゃならねぇ。)

親の遺産と祖父の仕送りに頼らず弟を支えてやりたい。経済的に、弟の選択肢を増やしてやりたい。そんな物は建前だった。


仕事が決まったら、この家を出るつもりだった。限界だった。


無邪気に絡み付いてくる弟の腕。
癖のない艶やかな黒髪。
惜しみ無く与えられる太陽のような笑顔。

なめらかな肌、柔らかな唇。



その全てが欲しかった。
エースは、ルフィを愛していた。



弟の大学の合格祝いにと、祖父の計らいにより見知った顔触れを自宅に集め、初めて酒を飲んだその席で、弟はあっけなく酔い潰れた。
酒には強い自らも珍しく頭に靄がかかるくらいに酔いながら、エースは意識のない弟を抱えて部屋に戻った。

ベッドに横たえた弟に、初めて口づけたのはその時だった。

そこからはもう転がるように、彼は弟に傾倒していった。
きっかけが何であれ、いずれはこうなっていただろうという確信が彼にはあった。


そして、ついに大切な弟を蹂躙している夢を見たとき、家を出る決心をした。
ルフィを守るためなら、兄弟の絆を守るためなら、己の夢の一つや二つ、安いものだと思った。

彼は、弟を愛していた。





(ごめんなァ、ルフィ…。)

真っ当な兄貴でいられなくてごめん。
悲しませて、悩ませてごめん。


臆病で、ごめん。


大切な弟を悲しませようと、泣かせようと、彼はルフィとの絆が壊れるのが怖かった。
兄弟という、ぬるま湯のような安全地帯。それが崩れるのが怖かった。


(………救えねェ…。)


弟が愛しい、大切だと言っても、彼を今最も苦しめているのは己のエゴだ。救えない。

喉にわだかまる自己嫌悪と後悔と愛情の残骸をアルコールで胃に流し込むべく、エースは瓶を傾けた。
全て胃酸に溶けてしまえばいい。そうできたらどんなにか楽だろう。


「………ちっ、クソったれ」

生憎と、ラムの瓶は空だった。
ラベルからこちらを睨むキャプテン・モルガンが、臆病な自分を嘲笑ったように見えた。







ラム酒ロックなんて私にはできません。
rum:ラム酒。原材料はサトウキビ等。
lamb:ラム。子羊。俗に「無邪気」「愛すべき人」。