(月・5)



その次の日の夕暮れだった。
一日を通してなんとなしに、いつものように縁側で作業をするエースの傍に寄れずにいたルフィは、部屋の奥で御免下さい、と甲高い子供の声を聞いた。
いつもの、外海屋の丁稚奉公の小僧の声だった。
それに応じて庭に下りて行くエースの背中を見て、ルフィはゆっくりと立ち上がった。

「ご苦労さん、いつも悪いな」
「……、」
「……――、若さま」

姿を見せた途端、小僧が困ったように自分を見上げたのを見て、ルフィは首を傾げた。
理由を問うためにエースを見上げると、彼も少し困惑気味にルフィを見下ろしているところだった。

「いや、いつものとおり受け取ろうとしたんだけどな。」
「……『若さまに直接』とおおせつかってきました」
「だそうだ」

サボがそんな風に文を寄越したことなど今まで一度もなかったので、ルフィは内心首を傾げながら小さな手の差し出すそれを受け取った。
表には何も書かれていない。

「……ん、確かに。ありがとうな。そうだ、今日は三春屋の饅頭があるんだ。」

ちょっと待ってろ、と言って中に戻ろうとしたルフィに、小僧はふるふると激しく首を横に振った。
いつもなら嬉しそうに礼を言うその小さな顔が、強張っている。

「……坊、どうした。腹でも痛ェのか?」

ルフィがしゃがみこんで問うのにも、ただただ強く頭を振るだけ。
その眼が何か物言いたげにしているのに気がついてはいても、小さな唇は決して開こうとはしなかった。
エースも、何かいつもと違う空気を悟って眉根を寄せた。

「……わかった。また今度な。ありがとう、気を付けて帰れよ」

小僧が何も言おうとしないのを責めるでもなく、ルフィは笑ってそう言った。
それに少しだけ弛んだ表情で頷いて、小僧は思いっきり頭を下げるとそのまま表に駆けて行った。
小さな背中は、あっという間に暖かく明るくなった夕暮れの往来に消えた。

「……サボからか?」
「うん、多分。…なんだろ」

会話は普通を装って交わしても、昨夜の熱がまだ残っているような気がしてお互いにお互いの顔をまっすぐに見られない。
誤魔化すように文に眼を落としながら、ルフィは縁側に腰掛けた。
エースも、妙な気恥ずかしさにルフィの傍らに座るのが躊躇われたので、ルフィ宛のそれをいいことに一歩引いた。紙を貼り終えた傘を天日に干すために、日当たりのいい場所を選んで移動させる。

ゆるく風が吹く夕涼みの縁側。飛ばされないように気を付けながら、ルフィが文を開く。
開くなり、かすかにその眼が見開かれた。読み進めるその度に、ルフィの表情が消えていく。
いつもなら容易に気が付いたはずのそれを、その時に限ってエースは見逃した。

あまり長い文ではなかった。
読み終えたルフィがそれをたたんだのを目の端に留めて、エースは振り返った。

「ルフィ、サボなんだって?」

手のひらにそれを包んだまま、ルフィは返事をしない。開きかけた満作のつぼみをぼんやりと見つめたまま、エースの声も聞こえていないようだった。
様子がおかしい。気恥ずかしさも忘れて、エースはゆっくりとルフィに近づいた。膝を折り、目線を合わせる。

「――ルフィ…?ルフィ、どうした。」

肩に軽く触れられて初めて気が付いたように、は、と息を呑んでルフィが振り向いた。
エースの顔を見て、何か物言いたげにその瞳が揺らいだのは、ほんの一瞬。エースがそれを手のひらに掬い上げる前に、ルフィはそれを自らの奥深くに引っ込めた。

「……何でもねェ。ちょっとぼーっとしてた」
「ルフィ、何でもねェって顔じゃ」
「何でもねェんだ。ごめん、エース。、……今は、ごめん。」

問い詰めようとしたエースを遮る、頑なな声。
あまりにルフィらしからぬその声音に、エースは全ての言葉を呑み込んだ。

「……夜に、話す。おれ今、なんて言ったらいいか、わかんねえから」

そう言われてしまえば、エースが言える言葉は何もなかった。

「エース」
「……何だ」
「頼みが、あるんだ」

ん、と聞き返したエースに、ルフィは何も言わなかった。
何も言わず、エースに向かってゆっくりとその両腕を差し出した。見上げるその眼が、何か強い意志を秘めて黒々と輝いているのを、エースは見た。
ルフィが求めているものを正確に受け止めて、だがそれゆえにエースは躊躇した。

昨夜の生々しい様な、得体のしれない熱が思い出された。ルフィに触れる。そのことを、これほどまでに躊躇ったことが今までにあっただろうか。
エースの逡巡を鋭く察して、ルフィは口を開いた。

「エース」

ただ、一言。
ただ名を呼んだその一言で、エースは抗うことを止めた。

「……、」

ルフィのすぐ横に片膝をつき、伸ばされた両腕を引き寄せる。
己の首に細い両腕を絡ませて、そのしなやかな身体を、ゆっくりと抱き締めた。
しなる背中から腰の線。ひたりと腕の内側に沿うその感触に、眩暈がした。

「……少しでいい。こうしててくれ」

首に絡みついた腕に、力が込められる。それに引き寄せられた振りをして、エースはその黒髪に頬を寄せた。
ルフィを腕に抱いた感触に湧くのは間違いなく歓喜。それなのに、エースはルフィのいつにない様子に不安感を覚えて仕方がなかった。

文の内容は気になったが、それ以上に今は、己に縋るルフィをどうにかして安心させてやりたかった。
ルフィが求めるままに、いや、己の望むがままに、腕に強く強く力を込めてルフィを抱き締める。

ルフィも、そしてエースももう、何も言わなかった。言葉もなく、ただただお互いの体温を抱き締め鼓動を追った。
ふたりは既に知っていた。とうに知っていた。
この日々が永遠では有り得ないことを、二人のどちらもが知っていた。


「――エース、今日一緒に寝ていいか?」

布団を敷くエースの袖を軽く指先で捕まえて、ルフィが言った。
思わず手を止めたエースは、肩の辺りから見上げるその瞳を見返した。

「……何だ、もう寒くねえだろが」
「いいじゃん、暑くもないだろ?……な、頼む」

そうまっすぐに見つめられると、わざわざ己の内の訳の分からぬ戸惑いをさらけだすこともできなくて、エースはため息混じりに頷いた。
せめて、決して嫌な訳ではないことを伝えたくてその黒髪を手のひらで撫でてやる。それにルフィが嬉しそうにはにかむ。それだけで、エースは戸惑いも何もかもどうでもいいような、それでいてまた胸の疼きが耐えがたくなるような、訳の分からない感情に襲われるのだった。

「……エース、布団からはみ出てねェか?だいじょぶか?」
「今更何を…。お前が一緒に寝たいなんて言うから」
「そーだけど!そうだけどそんなに端っこに行くことねェだろ!」

嫌なのか、と肘を立てて半身を起こしたルフィが微かに眉尻を下げてそんなことをいうものだから、エースの退路は完全に断たれた。
少しの逡巡ののち、諦めて己の中の訳の分からぬざわめきも一緒に吐き出すように、枕元の行燈の明かりを吹き消した。
ふつりと宵闇が部屋に落ち、月明かりに障子が透ける。
努めて深く考えないように意識しながら、エースは同じ布団の中をルフィの方へ寄った。

大の男二人が質素な布団に潜り込む。必然的に、二人の距離はあってないようなものになる。
だがそれだけではなく、ルフィが自ら猫のようにエースの肩に額を摺り寄せて来るので、エースはこの夜を眠れるかどうか疑った。眠りに関して悩む日が来るなど、己に限ってあろうとは夢にも思わなかった。

このしなやかな身体の感触を知っているだけに分が悪い。
ルフィが目覚めたばかりの頃。このざわめきに気付いていなかった頃、自分はどうやって弟を腕に抱いて眠っていたのだろう。もう思い出せなかった。
ルフィ、少し離れろ。そう言おうと口を開きかけた、その時だった。

「エース、おれな。あさって店に戻る」

唐突にさらりと告げられたその一言に、エースは言葉を呑み込んだ。

「……昼の、文な。『母上』からだったんだ。店の普請が終わったから、戻れって。あさって、新しい店構えの店開きだっていうから、それに合わせて、戻る。」
「………、そうか。」

仰向けに横になったまま、天井を眺めてそれだけを言った。
いつかは来るとわかっていた事だった。己のあまりに平坦なこの胸の内も、ルフィの淡々とした声の響きも、それを物語る全てだった。

「――ありがとう、エース。なんて礼したらいいかわかんねェけど、おれ、」
「やめろ、そんなの。おれがしてェようにしただけだ。……おれこそ、久しぶりにお前と暮らせて、楽しかったよ。」

心底から言ったその言葉に、初めてルフィの吐息が少しだけ乱れたようだった。
そのまま、ぎゅう、と右腕に縋りついてきた弟を、エースはもう咎めなかった。

「……エース…?」
「……ん…?」
「……、…エース…。」
「…ん。」
「エース……。」
「…うん。ルフィ。」

肩のあたりに寄せられた小さな頭。あたたかい右側の体温を味わいながら、エースは自由な左手を伸ばしてその黒髪を撫でた。
ゆっくりゆっくり、何度も何度も、その髪を撫でた。

「…――お前が無事で、本当に良かった、ルフィ。」
「……、」
「忘れるな、ルフィ。お前にはおれがいる。誰が何と言おうと。」
「……ッ!」

弟が、己の肩に顔を埋めて、必死に唇を噛み締めているのが分かった。
ぎりりと腕にしがみついたその手の力を、エースは忘れまいと思った。
満たされた心の内の、その深い深い真ん中に、ほかりと黒い穴が開く。そこに吹き抜ける涼やかな風が、エースの胸をつめたく静かに鎮めて行った。

「…――寝ろ、ルフィ。眼ェ閉じて、何にも考えなくていい。…ゆっくり眠れ。」

ルフィはもう、何も言わなかった。
言われるがまま、髪を撫でるエースの手が導くままに、ゆっくりと意識を沈めて行った。

お休み、ルフィ。
そう囁くと同時、しがみ付いていたその手の力がゆるやかに抜けたのを確かめて、エースもゆっくりと目を閉じた。
月明かりを遮って、暗い夜の底へ、沈んだ。




「……――ルフィの、縁談…?」

普請の整った外海屋の奥で、サボが呆然と零したその言葉を聞いたのは、その眼前でぴしりとたたずむ奥方ただ一人だった。

「――何を…、何を言ってるんだよ母上…!あの子はまだ、」
「もう19です。縁談が来てもおかしくはありません。…貴方より先にというのは確かに順序が逆ですが」
「そういうことを言ってるんじゃないよ!まだ傷も癒えきってないのに!」
「それでもいいと向こう様が仰ってくださっているのです。一人娘の婿養子に傷の残った身でも構わぬと言ってくださるのは、あとにも先にも伊勢屋さんだけでしょう。」

淡々という奥方に、サボはわなわなと拳を震わせた。
座したその腰を今にも上げてしまいそうだった。

「……あの子はモノじゃない…!この外海屋の血を引いた子だ!この店に無理やり連れてきたのは母上じゃ、」
「だからこそです。伊勢屋の婿養子に収まればいずれは跡取り。あの子も食うに困らぬ暮らしができるでしょう。向こうさまも是非にと仰ってくださっています。……あの子の為です。」
「ルフィはそんなこと望んでなんか」

「――――あの子も承知のことです。」

ひゅ、と息を呑んだ。
ざわりと音を立て、嫌な感触で血潮が引いた。

「なん、だって…?」
「既に文で報せてあります。『承知した』と返事がありました。身体も問題ないと」

体中の力が抜けて、サボは上げかけた腰を再び下ろした。
ルフィの笑顔が脳裏に瞬いた。いつからか、泣くことも駄々を捏ねることもなくなったルフィ。凛と背筋を伸ばして、あらゆる言葉を、嘲笑を、不躾な視線を真正面から受け止めて立っていたルフィ。

ああ、いつからあの子はあんな風に笑うようになっただろう。小さかったあの頃の、無邪気な大きな笑顔を忘れて。いつからあんな、全てを受け容れたような顔で笑うようになったろう。
泣きたくなるような綺麗な顔で、笑うようになっただろう。

「―――夏には輿入れです。立派な祝言を挙げてやらなければ」

忙しくなりますよ。
淡々と、飽く迄淡々と言って奥方はするりと音もなく立ち上がった。話は終わりとばかり、淀みのない歩みで障子を開け、部屋へ戻っていく。
閉まり切らぬ障子の隙間から、明るい月の光が一筋差し込みサボの横顔を照らす。

うなだれたサボが、その光を見上げることはなかった。
だん、と畳に打ち付ける拳の音だけが、しんと沈む夜に響いて、消えた。




目元に差しかかる月の光が妙に明るくて目を覚ますと、寝惚け眼に沁みるような、見事な満月が見えた。
ルフィは月に佇む影に気付き、眩む眼をこらした。障子を控えめに開け放って、エースが縁側に腰掛けていた。

その傍らに、緋色の傘。
仕上げが施され、艶を帯びた紙が月明かりに冴え冴えと映える。静かに起きだしたエースが、最後のひと手間をかけたに違いなかった。

ゆっくりと布団から起き上がり、ルフィは縁側へ静かに歩み寄った。
足音が聞こえていないわけではないだろう。月を見上げたまま振り向かないエースに声をかけるでもなく、そのまますぐ後ろに座り込む。

月明かりに隠れるようにして、大きな背中に頬を寄せた。
穏やかな鼓動。あたたかい体温。いとしい背中。強く、優しく、届かぬ背中。


「……―――若、見てください。満作の、花が」

静かに静かに語りかける声は、どこまでも穏やかで、そして、遠い。

「……若が臥せってる間に、春が来ちまった…。」

ルフィは眼を閉じた。
「―――ああ、」
閉じた瞼から、ほろりと涙が零れた。

「……きれいだなあ……。」

ささやいたその言葉に、エースはもう、応えなかった。
ただただその背中の温度を追って、ルフィはひとり、静かに泣いた。月に隠れて、ひとり泣いた。
朧に滲む春の月。
咲き誇る満作は、見えなかった。







彼の背に 揺れて満作 ひとり月
かのせなに ゆれてまんさく ひとりづき
20130718 Joe H.