(月・4)
それからの日々は、ゆっくりと穏やかに過ぎて行った。
代わる代わるルフィの仲間たちが顔を見に寄るのはもちろん、マルコやサッチをはじめとする「白ひげ」の職人たちが遣いのついでに寄って行ったりする。
サッチがほとんど涙目でよかったなあお前、とルフィの黒髪を掻きまわすのに、エースが馴れ馴れしくすんな、とその手を振り払う。
喧嘩腰にぽんぽん言い合う二人を眺めながら、ルフィは傷の具合を問うマルコと、茶を飲んだり菓子をつまみながら緩やかに言葉を交わす。
毎日のようにサボから文が届き、それを届けに来る丁稚奉公の小僧には飴玉やサンジが作った大福をくれてやる。
繰り返し繰り返し、ルフィの体調と怪我の治りの具合を伺い、外海屋の普請の様子や、馴染みの職人たちがルフィを心配している、その様子を伝えてくれるサボの文。
ルフィは、下手くそな字で返事を書く。文章は苦手なので、これもまた下手くそな絵も交える。それを見て腹を抱えて笑うエースが小憎たらしくて、意趣返しにちょっとした悪口をこっそり書いてやる。
買い出しの合間にこっそり顔を見せるナミにそれを託し、サボがどんな顔をして読むか想像して、ほくそ笑んだりしてみる。
そして、それ以外の大半の時間を、エースとルフィはふたりで過ごした。
今までの、失われた時間を取り戻すかのように、肩を並べて、互いの眼を見て言葉を交わす。
並べた布団で朝日を迎え、白く光る障子が眩しくて目を覚ます。
片方がまだ眠っていれば、その寝顔をしばらく眺めてみたりする。目元の傷を指先でなぞって、幼いころに親のことを笑った子供らと、大喧嘩をして帰ってきたことを思い出したり。そばかすを指で辿って、その数を数えてみたり。
縁側に腰掛けて、エースが傘を作る。
起き上がっているのが苦ではなくなったルフィが、そのすぐ傍らに寄り添って座る。しばらくは、じっと黙ってその淀みない手元に見入る。職人気質のエースが作業に没頭し始めると、生来大人しくしているのが得意ではないルフィが、兄にちょっかいをかけはじめる。
肩に寄り掛かってみたり、少し伸びた髪の毛を後ろからいじってみたり、膝に転がってみたり。
構ってほしい子猫の様な、傍若無人なその振る舞いについに音を上げたエースが、苦味交じりの笑いを零しながらついにはこちらを振り向いてくれるので、ルフィもそれが嬉しくて笑う。
そうしてなんでもないことをつらつらと話して、ふつりと会話が途切れると、またエースは作業に戻り、ルフィはその手元を覗き込む。
夕餉の支度をするエースの目を盗んで鍋のふたを開けて、必ず見つかって額を指で弾かれる。
日が落ちれば行燈の光だけを頼りにまたなんでもないことをつらつらと話して、ルフィが欠伸を漏らすのを合図にエースが火を落とす。
時々じゃれるようにルフィがエースの布団に潜り込み、もうそんな必要もないのにひとつ布団に包まって、お互いの体温でぬくぬくと眠る。
障子戸に、月明かりが満作の木を透かして映す。
物干しに並んだ二人分の着物。
土間に並んだ二人分の下駄。
夕陽に焼かれ畳に伸びる、二人分の影。
縁側に腰掛けたエースの肩に、ルフィが頭を預けて目を閉じる。
眠いのか、と声を掛けたエースに、ルフィは少しの逡巡の後、んん、とあいまいな返事をした。眼を閉じてそのまま押し黙れば、兄はもう何も言わず、その強い肩を貸してくれた。
満作のつぼみが綻んだ。
触れていたい。口にすることは、できなかった。
******
「……、って」
ごくごく小さな声を上げ、ルフィが庭の木の枝を弄んでいた手を引っ込めた。
ちょうど傘の骨に緋色の紙を張り終えてその出来を確かめていたエースは、その声を確かに聞いて顔を上げた。
「どうした」
「しし、トゲ刺しちまった」
「見せろ」
何でもないように笑ってみせたルフィに、エースはすぐさま立ち上がって下駄をつっかけた。
足早に近寄り、その手を取って指先を確かめる。
決して小さくはない棘が、深々と突き刺さって血を滲ませていた。
ゆっくりと慎重にそれを抜くが、皮膚の下に切っ先が少し残ってしまった。
「……大丈夫だぞ。痛くねえし、そのうち勝手に」
「んなわけねえだろ」
そうきっぱり切り捨てたかと思うと、エースはおもむろにルフィの指を口に含んだ。
「――!? エー、」
びく、肩を震わせて思わず身を引いたルフィに構わず、エースはがっしりとその手を掴んで離さなかった。
きつく傷口を吸い上げて、棘の残骸を吸い出す。一度口を離し様子を確かめて、もう一度。
皮膚の表面まで吸い出したそれを、爪で押し出して取り出した。
「……、よし、取れた。あとは水で、」
言いながら顔を上げて、エースは思わず続ける言葉を失った。
呆然と目を見開いたルフィの頬が、真っ赤に染まっていた。
「……、ルフィ…?」
「――ッ」
エースに掴まれた右手もそのままに、ルフィは反対の手を持ち上げて拳でその口元を隠した。それでも隠しきれない目元が火照って潤んでいる。逸らされた視線のその意味もわからぬまま、エースはただただその顔を呆けたように見つめた。
「……、ありがと、」
「――え?あ、いや、」
思わず触れていた手を緩めると、その隙を見逃さずにするりと手をほどいてルフィが身を引いた。
かと思うと、ひらりと裾を翻し足早に奥へ引っ込んだ。
桑茶の着物に櫨染めの淡い黄色の帯。目の前でさらりと揺れた黒髪が、その紅の滲んだような頬が、やけに後を引いてエースの眼の奥に残る。
(……――何だ、今の、)
手のひらに残る、ルフィの細い手首の感触。唇に、舌に残る指先の感触。
今更何を。己の唇で、ルフィのそれの感触すら知っているのに、
「――――!?」
突如急激に昇った熱に、エースは思わず手のひらで口元を押さえた。
(……え…?)
頬が熱い。急に、ルフィの肌の感触が残る部分がじんじんと疼き始めた。心の臓が、胸の骨の奥で騒ぎたてる。
自分の手のひらを見つめたまま、エースはしばらく呆然とその場に立ち尽くした。
ばしゃりと強く音を立てて、柄杓の水が水場に撥ねた。
暗い土間で、ルフィは手のひらからぽたりぽたりと落ちてゆく水滴を見つめながら、自らの荒い呼吸を持て余した。
ぬるい柄杓一杯の水では、指先に残る感触を打ち消すことはできそうになかった。
どん、と少し大きな音を立てて、すぐそばの壁に肩を打ちつける。そのまま、ずるずると壁伝いに座り込んだ。土間の底冷えが、今はありがたかった。
濡れたまま焼けるように疼く右手を握りこみ、疼きを押し殺すように小さく小さく縮こまる。
「……〜〜〜〜っ」
強く瞼を閉じて、滲む何かを抑え込んだ。表に出してはいけないそれ。伝えることは叶わぬその想いを、押し殺した。
ぎゅう、と握りしめた指先から、血が滲んだ。
二人の間に流れた常とは異なるその空気は、しばらく消えなかった。
あからさまではない、しかし確かにそこに生まれた距離感が、ふたりの間に音もなく横たわる。表面上はいつもの通りに過ごしていても、ふとした瞬間に触れるルフィの指先や低いところにある肩の感触が否応なしに心の臓に直接飛び込んでくるようで、エースは心底うろたえた。
だが、当のルフィが何事もなかったかのようにあまりにも平然としているので、エースはいつしかその違和感を忘れた。
いや、手のひらに収めかけた何かを再び奥へ仕舞い直した様な気がした。
そしてそれは、妙に既視感のある感覚だった。
「……――痕、残っちまったな」
「ん?……ああ、まあな。気にしねえよ、これぐらい」
夜着に着替えるエースの背中に、ルフィがぽつりと呟いた。
それが自らの背中に残るそれのことで、そしてルフィが何を思っているか、言われずともエースにはわかったので、さっさとその傷を覆うように夜着を肩まで引っ張り上げた。
「傷もきれいにふさがったし、痛みも残らなかったし、むしろありがてえくれえだろ。……そんな顔すんな。」
帯を結び終えると畳に膝をつき、ぺたりと座り込んだルフィに視線を合わせる。小さな頭を手のひらで上から撫でてやると、くすぐったそうに首を竦めたルフィがちらりと小さく笑う。それに安堵してエースもひとつ笑いかけてやって、そのままそこに腰を降ろした。
「お前はもう少しだな。痛みは」
「もうなんともねえ。……ほんとだってば、今度は本当」
少し意識してじろりと視線を尖らせてみれば、少しそれが苦手らしい弟は慌てて言葉を重ねる。
嘘がつけない彼の眼が泳いでいないことを確かめると、その必死な様子に思わず吹き出す。安心したらしいルフィがからかわれたと思ったのか、頬を膨らませて悔し紛れに肩に拳を当てる。
「いてェよ」
「嘘つけよ。そうやってエースは昔っからおれで遊びやがって」
「人聞き悪ィなぁ。兄貴の心配は素直に聞けっての。ホレ軟膏塗るぞ」
上脱げ、とそこまでいつも通りに言ったあとで、エースは今更のようにぎくりと固まった。
ちえ、と唇を尖らせながら、ルフィがおもむろに着物を肩からずらしたからだった。
すらりと滑らかな首筋から鎖骨の線。細い骨格にしなやかに編まれた腕の筋。胸に大きく刻まれた火傷の痕すらどこか生々しい。
見慣れたはずの象牙のような素肌が、何故か今日は眼に痛いほど艶めいて見えた。
「エース?」
「……あ、いや、」
なんでもない、と明らかに嘘だとわかる嘘を吐いて、エースは軟膏の詰められた貝殻を手に取った。
動くなよ、とむしろ自分のために一言言い置いて、指先に取ったそれを、かさぶたの覆う弟の傷へ塗りこめる。
今思えば、いくら不器用だからといって自分の胸の傷なのだから、弟自身にやらせてもいいはずだった。
伏せったきりだったころの名残で。
あまりに手先が危なっかしくて見ていられないから。
理由を探せばいくらでもあった。
指先に感じる、傷のざらりと固い感触。生まれ変わったばかりのやわらかい桃色の皮膚。否が応にも眼に飛び込む鎖骨の影。
沁みるのか、時折かすかに強張る細い肩。伏せられた瞼。その下にけぶる、黒々と深い瞳。
後悔すら禁じ得ないその頭の端で、それでも「自分でやれ」と弟を突き離せない、その理由。
……――――触れていたい、なんて。
「……エース……?」
動きの止まった手に気付いて、ルフィが顔を上げた。
視線が絡むその瞬間、ばちりと何かがかみ合うような音を聞いた気がした。
肩も剥き出しのまま、まっすぐに見上げるルフィの瞳。
艶やかに潤んだその黒や、縁取る密な睫毛や、眼の下の傷から眼が離せない。戸惑ったようにゆらりと揺れるその瞳。きっと自分も、似たようなぼんやりとした顔をしているのだろうと、どこか頭の遠いところでエースは考えた。
触れたいと思ったその時には、すでにそのやわらかな頬に触れた後だった。
時が、止まった。
「……エー、」
瞬間、微かな爆ぜる音と共に、突如部屋が暗闇に覆われた。
「―――!?」
「……、行燈が、」
油に浸した行燈の芯が燃え尽きた音だった。
逃げるようにルフィから離れて、月明かりを頼りに行燈ににじり寄る。
後ろでルフィが着物を着直す、その衣擦れの音を意識しないように意識しながら、エースは思い出したように脈打つ胸を抑えた。消えた灯りをいいことに、言葉少なにそのままそれぞれの布団に潜り込むまで、ルフィの顔を見ることができなかった。
ルフィがどんな顔をして己を見つめていたか、ついぞエースが知ることはなかった。
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