(月・3)
「…―――もう大丈夫だ。あとは傷の治りを待とう。でも、当分は大人しくしてなきゃ駄目だぞ、ルフィ。」
「おう。……ありがとな、チョッパー。」
布団の中から見上げて笑ったルフィのその言葉に、チョッパーがみるみる間にその眼に涙を溜めた。
「……〜〜〜っ、ょ、よが、よがっだ、ルフィ…!!」
「あーあーあー、オイ泣くなよ〜!」
途端に滂沱の涙を流し始めたチョッパー。
それに笑いながら、なあ、と枕元の仲間たちを振り返ったルフィは、ぱちりと目を瞬いた。
「……『なあ』、じゃないわよ、この、馬鹿…!!」
「お前、ほんとに死ぬとこだったんだからな…!ちくしょ、良がっだルフィ…、ちくしょおおおお」
わああん、と声を挙げて、ナミが両手で顔を覆った。
それに負けじと声を張り上げて、ウソップがルフィの布団に顔を突っ伏して泣き出した。
「……悪い、随分心配かけたみてえだな。おれあんまり覚えてねえんだけど…。」
「全くおめでてえこった、このお気楽野郎が。」
やれやれ、と力の抜けたように後ろの柱に寄り掛かって、サンジが葉巻を深くふかした。その彼が小さく、よかった、と呟いたのが聞こえて、枕元に控えたエースは、そちらを見ないまま口元だけで笑った。
「……ゾロが、エースとふたりで助けてくれたんだろ。お前は大丈夫だったのか。」
おいおいと声を挙げて泣くナミとウソップを好きなようにさせながら、ルフィが足元の方にどっかと座りこんだゾロを見遣った。ゾロがその声に顔を上げる。
「…ん、ああ…。つってもほとんどエースが一人でお前運び出したようなもんだ。火傷ももう固まってるしな」
「煙で出口が分からなくなってるとこにゾロが来てくれて助かったって、エースから聞いたぞ。怪我させてごめん。…ありがとうな」
やめろ、柄でもねェ、とそっけなく言ったゾロの眼が、どこかあたたかく自分を見ているのにルフィはちゃんと気付いていたので、それには何も言わず、しし、と笑っただけにした。
「エース、」
「ん。…大丈夫か」
「うん。頼む」
「…少しだけだぞ」
枕元を見上げてルフィが言うと、何も言わないままその意図をくみ取ったらしいエースがそれに応える。
その言葉遣いが、いつもの「若」と「職人」のものではないことに気付いた仲間たちが、小さく息を呑んだ。
気が付いていないわけではないだろう。だがあえてそれに言及することもなく、エースはつと腰を浮かしてルフィのすぐ脇に移動すると、丁寧に布団をどかしてその背中に手のひらを差し入れた。
ぐ、と腕に力を入れてゆっくりをルフィを抱き起すと、そのまま背中に滑り込んで自分の身体に体重を預けさせる。慣れたようなその一連の動作はごくごく円滑で、ルフィは安心しきった様子でその腕に自分の全てを任せている。
大丈夫か、と後ろから低く問いかけたエースに笑って頷いて見せて、ルフィは仲間たちに向き直った。
「……みんな、本当にごめん、心配かけて。」
出来うる限りの深さで頭を下げたあと、ルフィは顔を上げた。
ありがとな、といつもの顔で思いっきり笑って見せたルフィに、仲間たちも、久方ぶりにやっと全員が揃って笑みを浮かべた。
「…さて、ルフィが起きたってことはいつものあれが始まるわけだ。チョッパー、こいつ何食わせていいんだ?」
「―――!肉!肉食いて、」
すかさず、ばふ、とルフィの口元を後ろからエースが手のひらで塞ぐ。
その下から抗議の声が聞こえていたが誰一人としてそれには頓着せず、淡々と会話の続きを始めた。
「まずは汁物とか粥とか、腹に軽いものからだな。」
「だよな。エース、台所借りるぜ。お前らも食ってくだろ?」
「よろしく頼んだサンジ君!」
「ああ、悪いな。飯は炊いてあるの使ってくれ」
「あ、サンジ君これも使って。店の女中達からルフィにってもらってきたの」
「ん流石はナミさんっ」
仲間たちが自分に構わずどやどやと動き始めたのを見て、ルフィは背中の兄を上目に睨んだ。ルフィのその抗議のひと睨みにも全く動じず、エースはちらりと舌を見せてルフィの口元を押さえていた手のひらをどかした。
「……さて、そろそろ寝かすぞルフィ」
「えー!まだ平気、」
「駄目だ。少しだけって言ったろ」
兄弟が兄弟然とした会話を交わしながら当たり前のように互いに触れる。
唇を尖らせたルフィのその眼に、隠しきれない嬉しさが滲み出ているのを、ナミもウソップも何とも言えずに眺めていた。
相も変わらずごくごく丁寧な手つきでルフィを寝かしつけると、ルフィの髪をひと房掬い取る様に梳き、エースは立ち上がった。
昼餉の支度が整うまで、細々とした仕事をやってしまうつもりだった。
後ろでウソップが、瓦版売りの仕事で仕入れた巷の噂話を、有る事無い事織り交ぜてルフィに話して聞かせ始めた。それに喉で笑いながら、エースはゾロのすぐ横を通り過ぎた。
そのエースに視線もくれず、ゾロが口を開いた。
「……――もう良いのか」
「……何がだ」
「色々と。」
傷の具合を聞いているのではない。決してそんな気遣いの成り立つような間柄ではなかった。
ゾロがあえてそれ以上を言わずにいるのを悟り、エースは見下ろした視線を戻した。
外は明るい。陽だまりを抜けた風が、土間を抜け障子戸を抜け部屋を渡る。
「……今だけだ。それは、あいつもわかってるだろうさ」
「……。」
「良いんだ、これで。」
微笑みさえ浮かべて言うエースに、ゾロはもう何も言わなかった。
言っても無駄だとわかっていた。
外にふらりと出て行ったその背中をルフィが目で追った。それを見たのは、ゾロただひとりだった。
仲間たちがそれぞれの仕事に戻った後。
チョッパーひとりが離れ家に残った。最後のひと仕事が残っていたからだ。
「さて、次はエースの番だぞ」
「…、」
「……いいよ、おれは。もうほとんど痛みもねえし」
「だめだ。ちゃんと気を付けないと、お前の方が倒れることだってあるかも知れないんだぞ」
チョッパーが頑なに譲ろうとしないのを悟って、エースはがしがしと髪を軽く乱した。
諦めたように一息吐くと、渋々着物の肩をずらす。
「…―――、」
縞の着物の下から現れた見事な肉体。真っ白な晒が巻かれてはいても、その美しい身体つきを損ないはしない。
チョッパーがゆっくり丁寧に晒をほどいていく。
そうして現れた、広い背中に無残に刻まれた火傷の痕。目の当たりにして、ルフィは息を呑んだ。
全ての血が、ざわりと引いた。
「―――ッ、…エース…」
端の方はもうすでに肌の色が戻りつつあるが、それでもいかにそれが大きな傷だったかを物語るには十分だった。
乾いた傷はひび割れ、皮膚が焼けた部分は生々しく血の色を滲ませる。
記憶はなくとも、この傷の原因が自分にあることくらい、ルフィにも痛いほどわかっていた。
「……痛むか」
「いや。ちょいと引き攣る感覚が気になるくれェだな」
「そうか、治りかけだからな…。無理に動くと裂けるから、あんまり大きな動きは禁物だぞ」
「ああ」
「軟膏塗っておくな。」
悪いな、と肩越しにチョッパーに礼を言うその顔を、ルフィは直視できなかった。
片手に薬箱を下げて帰ってゆくチョッパーを見送って、エースは部屋に戻った。
足元の土埃を軽く払って畳に上がると、ルフィの布団が小山のように盛り上がっているのに気が付いた。中でルフィが、膝を抱えるようにうずくまっていた。
少し足早に歩み寄り、その傍らに膝をついて布団に手のひらを当てる。
「ルフィ?どうし、」
どうした、と続けようとした言葉は不自然に途切れた。
布団の中から振り向いたルフィの顔が、悲痛に強張っていたからだった。
「……おいおい、なんつう顔してんだよ…。」
「―――っ」
呆然と呟いたエースには答えず、ルフィはその大きな手のひらを捕まえて握りしめた。
自分のしでかしたことを、今になって思い知った。
この手を、この愛してやまない大きな手のひらを、兄を、失うかもしれなかった。自分のせいで喪うかもしれなかった。傷つけた。
痛みを、業を負わせた。
「…――――ッ、ごめん…!!」
指を絡めて、さらにその上から包むように握りしめる。それでも、ルフィの手には余る、大きな手。
いつだってそうだった。兄は、エースは、この大きな手のひらで、ルフィを守り温め慈しんでくれた。
自分はあの時、何も考えていなかった。自分が死ぬかもしれないという事。そうなったときの周りの事を、これっぽっちも考えていなかった。
母の、あの頃の思い出を追いかけて、それで死ぬならそれでいいとすら思った。その程度だった。
仲間たちの涙。笑顔。安堵の混じる憎まれ口。
自分を呼ぶサボの悲鳴。肩を抱いて逃げてくれた、その手の力。
エースの体温。手のひらの温度。火傷に引き攣る、大きな背中。
「おれ、馬鹿だ……!」
自己嫌悪に、今更のように襲う恐怖に、手が震えた。
「……そうだな。とんでもねェ大馬鹿野郎だ、お前は」
言葉とは裏腹に、その声が、髪を撫でる手があまりに優しくて、ルフィはぎりりと瞼を閉じた。そうでもしないと、昨夜あれだけ涸らしたはずの涙が、また滲みそうだった。
「お袋だって、きっとあの世で気が気じゃなかっただろうよ。自分の針箱でお前が死にかけるなんて、こんなやりきれねえことねェだろうが。」
「……っ、」
「サボだって、気ィ狂ったようにお前の事呼んで呼んで。今だってこうして、毎日毎日飽きもしねえで文寄越して。……早く良くなって、顔見せてやれ」
その言葉ひとつひとつに、何度も何度も頷いた。
その手を握り締めて、胸に抱く。
「お前が死なねえで済んで、本当によかった。」
は、と上げかけた顔に、暗く影が落ちる。
頬に触れる、少し硬い黒髪。
合わされる額が、こつりと音を立てる。
「もうあんな事させねえけどよ。……でも、ありがとうルフィ。お袋のこと、守ってくれたんだよな」
「―――!…ッ」
「無事でよかった、ルフィ。ありがとう。生きててくれて、ありがとうな。」
こりゃあ、兄貴の勲章だな。
わざと茶化して言って、ルフィを見下ろしエースが笑う。その首を、両腕で思いっきり抱き寄せた。
もう一言も言えずなす術を失ったルフィに、エースはまた、からからと笑った。
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