(月・1)
「……命の保証は無い。こいつにここから生きる力があるか否か。全てはこいつの力次第。言えることはそれだけだ。」
そんな、と呆然とつぶやいたナミの声が震えていたのを、咎める者はなかった。
「死ぬ、かも知れねえ、ってことか?ルフィ、が…、」
「…――てめェ医者だろうが!!何をアッサリ、」
「サンジ君!」
「そこの。桜木町のくれはとか言う町医者の弟子だな。お前の診立ては?」
視線もくれず、薬や道具を片づけながら、「死神」と呼ばれる男は抑揚のない声音で言った。優しげな巨躯に見合わぬ仕草でぴくりと肩を慄かせたチョッパーに、ローとエース、そして目を閉じたまま横たわるルフィ以外の視線が集中する。
エースとルフィが幼少を過ごした町はずれの離れ家。薄暗い行燈の灯火の中で、チョッパーは揺れる眼を伏せた。
「―――同じだ。打てる手は打った。胸の火傷があんまり大きいのと、そこから入っちまった悪いもんが、今ルフィの身体の中で暴れてる。その酷い熱はそのせいだ。…それにルフィの身体が耐えられるかどうかは、わからない。」
「……チョッパー!」
「やれるだけのことは全部やるよ!!薬も、手当も!!おれだってルフィに何かあったら嫌だ!!―――でも、…でも…!!」
チョッパーに詰め寄ったウソップが、嘘だろ、と呟いてずるりと座り込んだ。
下唇を噛んでナミが俯く。端に座り込んだゾロは何も言わない。
何でこんなことに。髪をかき乱してうなだれたサンジの言葉が、全てだった。
その時、横たわるルフィの顔を、身じろぎもせずに傍らで眺めていたエースが、かすかに身を乗り出した。
「…―――若、」
あまりに穏やかでやわらかなその声に、全員が顔を上げて振り向いた。
「―――ッ、…ぅ、…っ」
「若。痛みますか。」
ルフィに聞こえているわけはない。それをわかっていて、しかも自らも全身に無数の火傷を負った身でありながら、エースは痛みなど感じてもいないかのような仕草で身を乗り出し、意識のないルフィの手を握った。
「――若。もう少しの辛抱です。耐えてください」
「…ッ、―――っ」
「若、」
大丈夫です。大丈夫。若。―――若。
ローの宣告も、チョッパーの言葉も聞こえていなかった訳ではなかろうに、エースの声はあまりに穏やかで、そして慈しみに満ちていた。
痛みに歪む眉。熱に浮かされ身じろぐ黒髪がさらりと落ちる。愛おしげに、赤子の頬に触れるかのような優しげな手つきでルフィの額に滲んだ汗を拭い取り、飽きもせず声を掛け続ける。
それ以上、その場に言葉を零す者は、無かった。
「―――おめーはこれからどうすんだ、ナミ。外海屋も焼けちまったんだろ。」
「…店と、母屋は焼けたけど、離れと蔵が残ったの。商いの品も蔵の分は焼けないで済んだし。奥様と若旦那様はしばらく離れで暮らして、店の普請が整うまで、商いは上町の方でやるそうよ。私も、姉のところから通うつもり。」
「上町?」
「先々代の大旦那様の時にのれん分けした店があるのよ。上町からならルフィの所にも近いし、しばらく通うことにする。男手ばかりじゃ気も回らないでしょうし」
「おれも!おれも毎日診に行くぞ!」
「――ナミさんがそのつもりなら、おれもメシの世話ぐれぇはしてやろうかね。エースのあの調子じゃ、人間メシを食わなきゃ生きてけねえっつーのも忘れてそうだ」
「…はは、言えてら」
「……。」
「――ゾロ?」
暗い木造りの町並みを歩いていた一行は、ふと立ち止まったゾロを振り返った。
月が明るく星が陰る。夜空を見上げるその身のところどころにも、白い晒が巻かれている。
「…――ゾロ、火傷、痛むか?」
「いや。何ともねえ」
その言葉に偽りはなかった。
あの業火の中に飛び込んだエースを追うように、崩れかけた外海屋へ駆け込んだゾロ。だがそれもほんの一瞬のことで、そのすぐ後にはエースと二人、ぐったりとしたルフィを抱えて外へ雪崩れ込むように出てきた。
火消し顔負けの救出劇をやってのけた二人に、サボが、駆け付けた友人たちが、町民たちが駆け寄る中、エースは自らも背中に大火傷を負いながら、その痛みも忘れたようにただただ腕の中のルフィに呼びかけていた。
ゾロはそれを、煙を吸ってぼやける意識の中見ていた。
ゾロが飛び込んだその時、すでにエースは意識のないルフィを抱きかかえ、崩れかけた出口のすぐそばまで来ていた。
焼け落ちた梁の下敷きになっていたルフィを引きずり出し、自らも炎に焼かれながら。
ルフィが煙を吸わないように、その口元を覆う藍色の手拭い。それを靄のかかる視界の端で見た時、ゾロはその横顔に、狂気すら感じたのだった。
去り際、ローが言った言葉を思い出していた。
「……目を離さねえほうがいいのは、むしろあのエースとか言う野郎だな」
「…無理もねえや。離れて暮らしてたって、あんなに大事にしてた弟があんなことになっちまったんだ。取り乱したって、」
「―――『取り乱す』?おれには、そうは見えなかったがな。」
月明かりの夜道で、ローは無表情のまま淡々と続けた。視線は、後にしてきた離れ家の、その奥。
「あいつは冷静だと思うぜ。これ以上無くな。本気で、あの小僧が死んだら生きてる意味が無ぇと思ってやがる。これ以上死人を出したくなかったら、あいつの方に目えつけておくべきだな。」
――――小僧が死んだらあの男、何の躊躇いもなくてめえの喉かっさばくぜ。
あくまで淡々としたその言葉に、ゾロも何の感慨も違和感も抱かなかった。あまりに明るく見え透いた、考えられうる限りもっとも手近な結末だと思った。間違いなく、あの男ならそうするだろう。そう思った。
その彼に、自分が今手のひらに掴みかけている手札を見せたらどうなるか。エース自身も、そしてルフィも知らぬであろう、この手札を。
「……何考えてやがる。」
「…別に。」
サンジが長い前髪の下から掬い上げるように睨みつけるのに、ゾロはつと横目を流して一言だけを返した。強いて言うなら明日からの仕事の事だったが、それをこの妙に勘のいい男に話すつもりはなかった。
これからそれがどう転ぶかは、ゾロにもわからぬことだった。
「……胡散くせえ奴め。庭師ん中にご公儀の目明しが紛れ込んでるっつー噂も、あながち間違いじゃねえかもな?」
「そう思うならその軽い口閉じとけ三流菓子屋。店ごと消される前にな」
「ンだとコラ」
「ハイハイやめなさいよもうこんな夜分に」
いつもどおりの仲間たちの軽口も、こころなしか勢い弱く、そしてけらけらと軽く笑い飛ばす声のないために、幾分ばかりか刺々しいようだった。
ごくごく小さくため息をついて、ウソップがふと足を止めて振り返った。小さな離れ家を、月明かりだけが照らしている。
その影をしんと瞼に焼き付けて、ウソップは背を向けた。
行燈の火に息を吹きかけると、一瞬の闇ののち小さな一間は月明かりで満たされた。
畳の上を、できるだけ揺らさぬように歩き、エースはルフィが横たわる布団の傍らに戻った。
荒い息をつきながら、ルフィはこんこんと眠っていた。
(……―――大丈夫です、若。死なせたりなんかしねェ)
それは決意であると同時に、サボと交わした約束でもあった。
自分はルフィに会わない。店の再普請に全力を尽くす。だからどうか、あの子を余所へやらないでくれ。
息も絶えようかというルフィ。そのまま養生所に放り込むつもりだった奥方に頭を下げて説き伏せたのは、ほかでもないサボだった。
もともと外海屋の持ち物であったこの離れ家。過去の遺恨が残るこの場所に、ほかでもないエースとルフィが静かに養生することをかの奥方が許したのは、ひとえにサボの懇願と決意があったからに他ならない。
別れ際、ルフィを頼むとエースの手を握り締めた、そのサボの眼。指の力。今もまざまざとエースの瞼に、手に残る。
濡らした白い手ぬぐいで、汗の滲む滑らかな額を拭う。もう一度桶に張った冷や水で手拭いを絞り、額の上に戻した。手のひらや甲の傷も火傷も、今のエースには何の痛みも感じさせなかった。
手拭いを上から手のひらで押さえてやると、その冷たさにルフィの表情が少しだけ弛んだ気がした。
熱に喘ぎ、彷徨う手のひらを捕まえてもう一度握りしめ、エースはルフィの傍らの畳に横になった。
そうして重力に逆らうことをやめると、今更のように幾ばくかの疲れが全身にじわりと滲み出るようだった。
倦怠感に身を委ねたまま、エースは空いている方の手をルフィの頬に伸ばした。指先に乗る、やわらかな感触。湿りを帯びた熱。
燃える梁の下敷きになり、胸から下にひどい火傷を負ったその身にしては、あまりに滑らかで美しい頬だった。
枕元に置いた、焼け焦げた針箱。見覚えがあった。
「―――お袋の針箱。お前が、持ってたんだな…。」
思わず零れ落ちた言葉は、あの頃の。
「―――――ッ、……ルフィ…!!」
思わず、額を寄せて縋る。胸元に握りしめた細身の手。手のひらで抱き寄せた、小さな頭。
その吐息を、脈を、体温を感じて初めて。そして久方ぶりにその名を呼んで初めて、今更のように失ったかもしれないその恐怖感と、何と形容していいかわからない、濁流の様な切迫した感情がエースを襲った。
「…、死なせねェ、」
エースは、きつく閉じていた瞼を開いた。
すぐ近くで、吐息の触れる距離で月明かりに滲む、弟のやわらかな輪郭をとらえる。
淡くけぶる宵闇に、睫毛が、その黒髪が、白い頬が透き通る。
ルフィ。その名を、唯一のその名を、呼ぶ。
「―――死なせねェ。ルフィ。…いかせねェ。」
それでも、それでもどうしてもゆくというのなら。
障子戸の隙間から、冷え切った夜風がするりと舞い込んだ。行李に無造作にかけられて、焼け焦げた藍色の手ぬぐいがひらりと揺れる。ルフィの、エースの黒髪を、翻す。
おれを一緒に連れていけ。
その耳元で低く低く囁いて、エースは再び目を閉じた。
******
「邪魔するよい」
一声かけてささやかな土間から上がると、おう、と応えてエースが腰を上げかけているところだった。
未だ多少なりとも痛みが残るようなその仕草に、手のひらを向けて押し戻す。
無言の気遣いを正確に受け取ったエースは、悪いな、と一言兄弟子に声を掛け、上げかけた腰をその場に下ろした。
外の冷えた空気に晒された肌に、小さな部屋に満ちた七輪のあたたかさがじわりと沁みる。数歩歩くだけで辿りついたエースの傍らに、マルコも荷物を降ろして座り込んだ。
布団に寝かされたルフィは、マルコの記憶にある快活な表情を失い、整った顔立ちを幾分かやつれさせて昏々と眠っていた。
その息だけが、脈に合わせて速い。
「まだ目は覚めねえのかよい。」
「ああ。火傷は思ったより酷くはなかったんだが、熱が、どうにも下がらなくてな。」
もうあれから3日経つのに、と言いかけた言葉を呑み込んで、マルコは唇を引き結んだ。
言わずとも、指の背でルフィの頬を撫でて熱を確かめる当のエースが、誰よりもそれを重々承知している。それに気が付いたからだった。
「……お前さんは大丈夫なのかよい。」
「問題ねえよ。もともとそんなひでえ傷じゃねえ。ここでおれが倒れてちゃあ、若まで共倒れだからな。ちゃんと食って寝てるさ」
胡坐をかいて座ったその肩越しに、エースがちらりと振り返って笑って見せた。
拍子抜けするほどにいつも通りのその笑顔に、むしろマルコは違和感を覚えた。彼がいかにルフィを慈しんでいたか。その思いの深さを、強さを知ればこそ、その穏やかさが異様だった。
(いや、)
違う、とマルコは自らの思考に歯止めを掛けた。
気付いたその事実に、ぞわりと肌が粟立ったようだった。
彼は恐れている。エースは、ルフィを失うことを誰よりも深く深く恐れている。
だからこそ、狂気に近しいほどの冷静さで、ルフィが生き延びるための最善をこれ以上なく追及し実行している。自らの身体を最速で回復させ、ルフィに尽くせるように。
ルフィにもしものことがあれば、自らの喉を、心の臓を切り裂けるだけの力を取り戻せる様に。
誰よりも失うことを恐れているのは、エースの方だ。
ルフィを死なせてはならない。
解っていたはずのそれを、マルコはエースの顔を見て初めて、腹の底で噛み締めた。
「……できることがあれば手ェ貸すよい。オヤジも、店の奴らも心配してるよい。」
「ああ、済まねえ。仕事放り出して若の世話させてもらってるだけでも充分、」
「馬鹿野郎が。おめえも怪我人だろうよい。しっかり養生してさっさと戻って来いよい」
「……ああ。悪い。」
そう言って苦笑して見せたその表情に、いくらか安心してマルコは胸を撫で下ろした。
「…――お前の仕事道具、持ってきたよい。手に隙が出来たら、少しずつ手を慣らして行けばいい。…くれぐれも、少しずつだよい」
「わかったよ」
「材料も骨の部分は持ってきたよい。染と貼りに入ったら、またその都度持ってくるよい。」
すまねえ、と呟いて、エースは愛用の道具たちを手に取った。
くれぐれもと言い聞かせたその言葉をもう忘れ、今にも作業を始めそうだった。
職人の血が、手が疼く。その感覚を知っているマルコは、それ以上彼を説得するのを諦めた。
「……出来上がったら、ルフィに持たせてやればいいよい」
「―――、若、に?」
「商売物ばかりで、作ってやったことないんだろうがよい。こんな時くらい、商売抜きで作ってやったらいい。」
「ルフィが起きたら」。
未来の約束を作ることで、彼に余計なことを考えさせないように。そんな打算も含めて言ったマルコのその言葉をしばらく噛み締めていたエースは、少しの沈黙ののち、ああ、と一言だけ答えた。
一瞬沈黙が下りたその時、ルフィが小さく咳き込んだ。
「……、若、」
ざり、と畳を擦る音を立て、エースが布団ににじり寄った。咳は直ぐに治まったが、見るからに熱を帯びたルフィの呼吸は、ますます荒さを増したようだった。
「そろそろ薬、飲ませねえと」
手のひらを頬に当て、そう呟いたエースは、ルフィの額に置いていた手拭いを外して傍らの桶に浸すと、つと立ち上がって行李の傍へ足を進めた。
蓋を開けて中から紙に包まれた粉薬を持ち出し、再びルフィの傍らで膝をつく。
湯呑に水を浸し紙を開くと、意識のないルフィの耳元に顔を近付けて囁いた。
「若。少し起こしますよ」
それを見ていたマルコは、ああ、なんて声で、と頭を抱えたくなった。
なんて甘い声で、やわらかな声で呼びかけるのだ。それではまるで、
「……?」
その時、ルフィに飲ませるはずの薬を、エースがおもむろに口に空けた。
はたと全ての思考を止めたマルコに頓着することもなく、間髪入れずに湯呑の水を一口含む。そのまま、横たわるルフィの小さな頭の下に手を差し入れて、慣れた動作で持ち上げる。そして、
「…ッ!? エー、」
何のためらいもなく、ルフィに口づけた。
今度こそ声を失ったマルコの存在すら忘れたかのように、エースはそのままくいとルフィの顎を親指で押し下げ、手のひらで頬を包み込みながら唇を合わせた。
まるで、恋仲の様に。いや、恋仲の者同士でもかくやと思わせるほどに、やわらかく、丁寧に。
音も立てずに、ルフィの頬にエースの黒髪が落ちる。
ルフィの頭を包む、その手のひらに慈愛が滲む。
指先で宥めるように頬を撫でながら、エースはルフィに口づけた。
時間をかけ、ゆっくりと丁寧に薬を口移しで流し込む。エースは閉じていた瞼を開き、かすかな水音を立てて口づけを解いた。つい先ほどまでエースのそれが触れていたルフィの唇が、艶やかに濡れている。いっそ扇情的なほどのその光景に、マルコは意識が遠のくのを必死に耐えた。
軽く唇と鼻を押さえて、ルフィに薬を嚥下させる。
こくりと喉が動いたのを確かめて、エースは濡れたルフィの唇を指先で拭い、緩やかな仕草で身体を起こした。
自分の口元は無造作に拳で拭いながら、顔を上げたエースがふいにこちらを振り向く。
言葉を失ったままのマルコに気付いて、つと眉を持ち上げた。
「……?どうしたマルコ、変な顔しやがって」
「―――ッ、ど、っの口が!平然と!おま、お前よい!」
「あ?何なんだよ、大声出すなよ若がいるのに」
心底わからないという顔をして、ごくごく自然にルフィの襟元を整え、布団を首まで掛け直すと、トドメとばかりにさも当たり前のようにルフィの髪を撫でて見せて、エースは湯呑を持って立ち上がった。
その背中を、あまりにいつも通りのその背中をそれ以上なす術もなく眼で追ったあと、マルコは何も知らず眠りに落ちたままのルフィにぽつりとごちた。
お前、頼むから早く起きろよい、と。
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